2027年9月11日(土)12時22分
2027年9月11日(土)12時22分
県民文化ホールには、撮影で使用する大ホールに加えて、小ホールも併設されている。
その小ホールは、今回のスタッフやエキストラの荷物置き場、さらには楽屋まで、ほぼすべてを映画側が借り切っていた。
――それでも。
本番の撮影開始まで、あと数十分。
その小ホールには、誰一人いない。
だからこそ、私は迷わず駆け込んだ。
心臓が、破裂しそうなほど早鐘を打っている。
足音が、空虚なホールに響き、やけに大きく感じられた。
私は走ってきた勢いのまま、そのままステージに上がる。
息を整えようと、深呼吸を繰り返す。――だが、頭の中は全く整理できていなかった。
何が――起きている。
私は、必死に思考を立て直そうとした。
――あの写真。
そう。姉が高校二年生の学園祭で演奏した時の写真。
何度も見た。何度も、記憶に刻んでいる。
それは、あの写真で、一番初めに……そう、2016年の7月。
当時一年生だった大気さんが、県大会決勝後のバスの中で、信二さんに見せてもらい、そして――恋に落ちた。
運命が、あの瞬間、静かに回り始めた。
その写真であった。間違いなく、あの一枚。
だからこそ――なぜ、さっきの写真に、姉が映っていなかったのか。
別の写真だったのか?
同じ学園祭、同じ演奏会場、同じ衣装――でも、顔ぶれが違う……?
いや。それでもおかしい。
ふたりは、「うちの学年にはトランペットを吹いてた人なんていなかった」と言っていた。
では――なぜ。
瑠璃さんと瑞希さんは、姉の存在そのものを、すっかり“忘れていた”のか。
ドッキリ……?
いや、そんな茶化し方を、あのふたりがするわけがない。
もし瑠璃さん単独なら、まだあり得る――でも、瑞希さんが乗るはずがない。
何より、あのふたりは――姉の葬式で、あれほど泣いてくれた人たちだ。
胸を痛め、私の肩を抱いて、何度も「つらいね」と言ってくれた。
――なのに。
なぜ。どうして。
私の背筋を、冷たいものが伝っていく。
あれ? 待って――そうだ。
この映画の撮影が始まる時。
当時の出来事をもう一度整理するため、関係者へのヒアリングも行った。
その席で、ふたりは確かに話してくれた。
姉と過ごした、あの群馬の温泉宿での一晩を。
楽しそうに、懐かしそうに――“確かに”語ってくれた。
それなのに。
どうして――今になって、ふたりは姉を、まるで最初からいなかったかのように、忘れてしまっているのか。
分からない。
分からない――!
じわりと、汗が背中をたどる。
呼吸が、急に荒くなる。
胸が締め付けられるように苦しい。
誰もいないはずの小ホール。その静けさが、かえって耳を塞ぐように重くのしかかる。
私は、ステージの真ん中で、膝が震えるのを感じた。
目の前が、じわりと揺らぐ。
――クラクラする。
その瞬間。
ふいに――視界が、ふさがれた。
「……だ~れだ」
背後に、確かな人の気配。
その手のひらの温度、その呼吸のリズム、その存在感――この一年、誰よりも近くで、ぶつかり、支え合い、笑い合った、あの人だと、瞬時に分かってしまう。
心臓がどくん、と痛いほどに鳴った。
私は、さっきまでのショックの余韻で、声がかすれ、目の奥がじんじんと熱を帯びていた。
それでも、無理やり口を動かす。
絞り出すように、鳴き声のようになってしまった言葉を、必死に渚へ返す。
「渚……ごめん、今、そんなテンションじゃ……」
「はいはいはい、そういうのじゃなくて、だ~れだ?」
おどけるような渚の声。
相変わらず温かくて、どこか抜けていて、それでいて――胸の奥を不意にざわつかせる、妙な優しさが混じっていた。
けれど、こんなことをしている場合じゃない。
頭の片隅で、現実がせかしてくる。早く、大ホールへ――撮影が始まってしまう。
「ご、ごめん、渚。もう撮影が始まるから、大ホールに行かないと……だから、手を放して」
そう言った瞬間、渚の空気が、すっと変わった。
からかいも冗談も抜け落ち、ただ、やわらかくて、あたたかくて――それでいて、なぜか切なさを孕んだ、胸の奥をぎゅっと締め付けるような空気。
「だ〜め。春……いや、春ちゃん」
その呼び方に、心臓が跳ねる。
胸の奥が、ぎゅうっと強く、痛いくらいに締め付けられた。
渚が――『春ちゃん』。
最近、たまにそう呼ぶようになった。
年上の誰かにそう呼ばれることはよくある。けれど、渚が、あの渚がそう呼ぶと、その響きは、まるで――あの人に、似ていて。
「……まさか」
渚は、私の目を覆っていた手を、そっと離す。
そして、何の前触れもなく、後ろから、ぎゅっと抱きしめてきた。
肩越しに伝わる体温。
息が詰まるほどの距離。
でも――どこか懐かしくて、どこか安心してしまう感覚。
胸の奥が、熱を帯びて、じわりじわりと溢れてくる。
耳元で、渚が、ささやく。
優しく、でも、確かに、心の奥に届く声で――
「もう……春ちゃんは、十分に頑張ったよ」
その一言で、堪えていたものが、決壊した。
涙が、頬をつたう。
胸が、張り裂けそうに痛い。
その瞬間――全ての点と線が、ひとつに結ばれた。
なぜ、渚は、中学の頃とまるで別人のように変わったのか。
なぜ、渚は、中学でほとんど接点のなかった私に、こんなにも親しくしてくれたのか。
なぜ、渚は、消したはずの私の『17の夏』のデータを持っていたのか。
そして――なぜ、渚は、私を励まし続け、映画作りにこだわり、何かを『残そう』としていたのか。
押し寄せる感情の波に呑まれながら、後ろから抱きしめる渚が、ふっと、小さく笑った。
「私の最後の願い。大気君との思い出……いや、”大気君が生きていた証”を、残してくれて……本当に、ありがとう」
嗚咽をこらえながら、私は必死に、震える声を絞り出した。
「お、ねえ……ちゃん……?」
その呼びかけは、ステージの空気に溶けて、優しく震え、静かに広がっていった。




