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2027年9月11日(土)11時45分

 2027年9月11日(土)11時45分


 山梨県民文化ホール。

 第二甲府から一番近く、そして長らく県民に愛されてきたこの場所は、かつて亡くなった姉が吹奏楽部員として何度も立った“特別な舞台”でもあった。

 今日は――この取り組みの、最終撮影シーンの日。

 吹奏楽部の西関東大会を再現するためのコンクールシーンの収録が行われていた。

 大ホールのホワイエは、人の熱気に包まれていた。

 エキストラやスタッフ、県内の吹奏楽選抜チームに加え、顧問や生徒の家族までが入り混じり、どこか打ち上げのような、けれどまだ終わっていない高揚感に満ちている。

 壁際には、これまでの撮影で使われた小道具や、スチール写真がずらりと並べられ、歩を進めるたび、懐かしさと達成感が胸をくすぐった。

 本当なら――姉が実際に演奏した群馬県民会館で撮影を行いたかった。

 だが、あの会館は老朽化による取り壊しが決まってしまい、もう“あのときの光景”を舞台にすることは叶わない。

 たった10年。

 それだけの時が、景色も、人の立つ場所さえ変えてしまうのか――そんな現実を噛みしめながらも、今、自分の小説が映画という形で息を吹き返していることに、改めて心から震えるような感慨を覚えていた。

「橘さん!」

 呼びかけに振り返ると、いつものパンツスタイルがよく似合う、颯爽とした女性がこちらへ歩いてきていた。

 田口さん――この映画の制作において、誰より現場を見守ってきた記者の人だ。

「田口さん。お疲れ様です」

「いーえ。そして、お疲れ様でした。本当に。ここまで来たね」

 少し湿り気を帯びた声だった。

「いえいえ。田口さんや吾味さん、それに皆さんのおかげです」

「あはは。もう、すっかり“大人”だね、橘さん」

 その笑顔に、少しだけ胸が温かくなる。

「でも、今日でひと区切り、かな。この取り組みからは離れるんでしょう?」

「ええ。撮影も今日で終わりますし、編集や実際の上映なども……残りは後輩と外部に託す予定です。まあ、我々も受験がありますしね。それに……せっかく校内に映画制作のノウハウが残ったので、できれば次に繋がっていってほしい。県庁の芸術推進課の和泉さんという方から、そういう要望もありました。私自身、学校の、新しい魅力になれたら……それが一番嬉しいです」

「でも、それも全部、橘さんの小説から始まったのよ」

「……どうでしょうね。すべては渚のおかげですよ」

 自分でも少し照れくさくなりながら、自然と笑みがこぼれた。

「ふふふ。でも、そういえば――小野寺さんはどこ? 彼女にも話を聞きたいんだけど」

「あれ? さっきまでここにいたんですけど……。一応、彼女も今、新しい生徒会長に色々教えてるみたいです。何分、私と違って“頼れる姉御肌”ですから」

 そのとき、遠くから声を上げながら広報の後輩たちが駆けてきた。

「橘先輩! ちょっと緊急で確認をお願いしたいことがあって!」

 息を弾ませたその様子に、田口さんがくすっと笑った。

「ほら、橘さんも同じじゃない。結局、頼られてる」

 私は頭をかいた。

「まったく……落ち着く暇もないですね。――行ってきます」

 そして、少しだけ顔を上げ、軽くウィンクを添えて言う。

「田口さんのエキストラ演技、期待してますよ」

「ふふ、頑張るわ!」

 走り出す自分の背中に、まだ終わらない熱気がそっとまとわりつく。

 10年前に始まった物語が、こうして新しい形で、誰かの未来へと繋がっていく――その事実が、少し誇らしかった。





 どうやら――テンションの上がった姉の代の先輩方、しかも野郎どもの一部が、酒を引っかけて会場に入ってきたらしい。

 その結果、せっかくホワイエの壁に丁寧に貼ってあった写真のいくつかが、剥がれ落ちてしまっていた。

 まったく……男というやつは、どうしてこう、こういうときだけ盛り上がって、余計なことをしてしまうのか。

 私は、深いため息をつきながら、その写真を一枚ずつ拾い上げ、慎重に貼り直していく。セロテープの端を指で押さえながら、ずれていないか確認していると、ふと、初めて見るコーナーに目が止まった。

 ――うちの写真部が作ってくれた特設コーナー。

『10年前の第二甲府』

 そのタイトルが、やけに胸の奥をざわつかせた。

 展示されているのは、2016年から2017年頃の学校や部活動の写真。懐かしさと同時に、まるで過去がガラス越しにこちらを見つめているような、不思議な感覚を覚える。

 視線を滑らせるうちに、一枚の写真の前でぴたりと足が止まった。

 野球部員がずらりと並んだ集合写真。

 キャプションには――『寄贈:高橋元監督』の文字。

 その中には、信二さんも、東さんも、りんさんも、はじめさんも写っていた。

 笑っていた。

 眩しく、青春のただ中にいた。

 ……それでも。

「おお! 懐かしい写真だ!」

 唐突に背後から弾けるような声が響き、私は思わず肩を震わせて振り返った。

「こら、騒ぐなって。ここは甲子園じゃないんだぞ」

 そこに立っていたのは――りんさんとはじめさん。

 相変わらず、10年の歳月を経ても、どこか少年のまま大人になったような、不思議な空気を纏っていた。

「お久しぶりです」

「おお! 作家先生! 元気かね?」

「はじめ、うっせえぞ~。声デカいんだよ。ごめんね、橘さん」

 ――まったく。このふたりは、変わらない。どこまでも。

「あはは……お元気そうで、何よりです」

「うん。それより……おお! やっぱり! これ、俺たちが一年生の時の写真だな!」

「はしゃぐな、はじめ。……でも、そうだな。懐かしい。ああ、このときのユニフォーム、まだ新品だったんだよな」

 ふたりが肩を並べて、少年時代を取り戻すかのように写真を覗き込んでいる。

 その声を背中で聞きながら、私も――もう一度、写真へと視線を戻した。

 ――やはり。

 そこに、大気さんの姿はなかった。

 いや。正確に言えば――“消えてしまった”のだ。

 存在ごと、この世界から。記憶から。

 あの頃、笑い合っていたはずの友が、まるで最初から存在しなかったかのように、その集合写真は完璧に整っていた。

 誰も欠けていないように見える、けれど、確かに“ひとり”がいない。

 それなのに――あれほど仲の良かったふたりでさえ、自然に、当たり前のように、彼の不在を“違和感なく”受け入れている。

 その事実が、胸の奥を鋭く突き刺した。

 鋭い痛みというより、冷たい何かに胸を掴まれたような――呼吸が、浅く、苦しい。

「お……おい、大丈夫か? 作家先生」

「橘さん、顔色……ちょっと悪いぞ?」

 ふたりの声に、はっと我に返る。

 気づけば、写真の前で立ち尽くし、指先がわずかに震えていた。

「い、いえ……別に。大丈夫です」

「なら、元気になる魔法を、このはじめ様がかけてあげようじゃないか!」

「まじか、はじめ。お前、また変なこと言うつもりだろ」

「いやいや、俺の“変なこと”は世界を救うんだぜ?」

「救う前に場を荒らすな。昔から変わらん」

 くだらないやりとりが、ほんの少しだけ張り詰めていた胸の奥を緩ませる。

 笑ってしまいそうになった、その瞬間――。

「こら~! りんとはじめ、うるさーい!」

 朗らかで、けれどよく通る声が、後方から飛んできた。

 振り向くと、三人の大人びた女性がこちらに歩いてくるところだった。

「んだよ、雪かよ」

「ああ、残念。せっかくの場なのに、台無しだな」

「ったく……りんもはじめも、10年経っても騒がしさだけはそのまんまだね」

 雪さんが両手を腰に当て、りんさんとはじめさんに詰め寄る。

 その瞬間、ふたりと雪さんの軽口混じりの口喧嘩が始まり、あたりが一気に賑やかになった。

 まるで10年前の、あの部室の空気が――ふたたび蘇ったかのようだった。

 その後ろで――喧嘩を微笑ましく眺めている女性が、ふたり。

 私は歩み寄り、軽く会釈した。

「お久しぶりです。瑠璃さん。瑞希さん」

「久しぶり〜春。元気にしていた?」

「久しぶりだね、橘さん。なんだか立派になりましたね」

 ふたりは過去の写真よりもずっと垢抜けていて、大人の女性という雰囲気をまとっていた。けれど、その笑顔の奥に、あの頃と同じ優しさがきちんと残っているのが分かって、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「てかさーみんな、はしゃぎすぎじゃね?」

「でも、瑠璃もでしょ?」

「え? そうかな。そんなことないよ、たぶん」

 瑠璃さんと瑞希さんの、まるでコントのような掛け合いについ笑ってしまう。

 その瞬間――瑞希さんがふいに真剣な表情を浮かべ、私に向き直った。

 先ほどまでの柔らかな笑顔がわずかに陰を帯び、どこか申し訳なさそうに、けれど何かを確かめるように、そっと言葉を落とす。

「そういえば、橘さん。前に……色々、その……“こしみずたいきさん”? って方について、質問してくれたよね」

 胸の奥がかすかにざわめく。その名を口にされるだけで、呼吸が浅くなるのが自分でも分かる。

「あ! そうそう!」

 横で瑠璃さんが思い出したように手を打つ。

「私にも聞いてくれたよね、ごめんね……。なんか記憶がなくて、私達、まったく力になれなくて」

「いえいえ……お気になさらず……」

 言葉とは裏腹に、ずーん、と心の底へ石が沈むような感覚に襲われる。やっぱり、誰の記憶にもないのか。あれほど鮮烈に私の中で存在しているのに――。

 そんな私の沈みきった顔を見て、ふたりがそっと気を遣うように、掲示されていた写真の方へと話題を移した。

「ってか瑞希、これ見てよ! うちらの吹部の写真じゃん!」

 瑠璃さんが声を弾ませる。

「二年生の学園祭での演奏の写真だね。見てよ! うちの学年の吹部、全員そろってるじゃん。うちの学年だけで吹いたやつだ、これ」

「ほんとに……なつかしいね」

 瑞希さんも目を細める。

「でも、瑞希はこのころ、ターミネーターみたいだったし、今とだいぶ違うよね」

「そう?」

「そうだってば、肩で風切って歩いてさ、みんなビビってたんだから」

「もう、瑠璃……変なこと言わないでよ」

 ふたりのやり取りに、私はほんの少し笑みを浮かべる――が、ふと、その写真に目を落とした瞬間、何とも言えない感触に全身を貫かれた。

 ――え? なんで……。

 いや、見間違えのはず……。そう、そうに違いない。

 で、でも……。

 鼓動が耳の奥でやけに大きく響く。呼吸が浅くなり、空気が喉に引っかかる。

 私は、写真に夢中になっているふたりに、なんとか声を絞り出した。

「こ……この写真、全員います?」

 瑠璃さんがきょとんとして私を見る。

「うん。春は知らないだろうけど、うちらの代はこれだけなのよ」

「そうなんですね……で、でも、ペットは……」

 自分でも何を確認したいのか、わからなくなっていた。ただ、胸の奥から何かが必死に叫んでいた。

 ふたりは、再び写真から視線を外し、私を不思議そうに見つめる。

「何言ってるの、春。散々インタビューでも教えたでしょう?」

「橘さん。うちの学年にはトランペットを吹いてた人なんていなかったわ」

 ――世界が一瞬で遠のいた。

 その瞬間、私はとんでもない恐怖と共に、何か、身の奥底が避けるような――否、裂かれるような感覚に襲われた。

 誰も覚えていない。

 存在しなかったことにされている。

 あの笑顔も、あの音も、この世界から――。

「春! どうしたの!?」

「橘さん!」

 気づけば、ふたりの声を背に、私はホワイエから飛び出していた。

 足が勝手に動く。息が荒い。

 胸の奥が痛い――何が……何が起こっている……。


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