2017年9月9日(土)12時45分
2017年9月9日(土)12時45分
「いやー、緊張しますね」
隣の雪ちゃんがぶるぶると震えていた。普段はしっかり者で頼りになる彼女だが、こういう場面では途端に弱気になる。そのギャップが、なんだか可愛らしくて、思わず口元がゆるむ。
ちらりと熊谷君を見ると、彼まで顔を引きつらせている。普段クールぶっている分、余計におかしくて、小さく笑ってしまった。
ここ、群馬県民会館。今日の西関東大会の舞台。午前の部が終わり、午後の部が、静かに息を潜めて始まろうとしている。
「まあまあ、大丈夫よ」
自分に言い聞かせるように雪ちゃんを励ますが、胸の奥では鼓動が速まりっぱなしだった。落ち着こうとしても、喉の奥がひりつくほどの緊張は誤魔化せない。
チューニング室の空気がふと張り詰めた。最後の音合わせが終わり、土橋が前に立つ。彼の存在に、自然と全員の視線が集まる。
「今日の演奏についてだが――」
いつもの淡々とした声。けれど、その響きには、どこか普段とは違う熱が混じっていた。
「よく、『音楽だから、音を楽しもう』って言うけど、俺は正直、それは無理だと思ってる」
意外な言葉に、一同の空気が一瞬揺れる。
「特に大会ってのはそういうもんだ。緊張もプレッシャーも、全部ある。だから――『楽しむ』じゃなくて、演奏に没頭してくれ。それが、後になって振り返った時、”楽しかった”って思える瞬間につながるから」
土橋にしては珍しい、まっすぐな感情のこもった言葉だった。
「そして――三年生」
その呼びかけに、三年生の背筋がすっと伸びる。自然と息がそろったように、空気が引き締まった。
「この三年間、苦しかったな」
土橋の声は、静かで、それでも重く胸に響いた。
「夏で西関東大会に行けたのも、この一回だけ。それは俺自身の力不足だったかもしれない。……でも、お前たちは最後まで必死に食らいついてきてくれた。本当に、嬉しかった。ありがとう」
そう言って、土橋が深く頭を下げる。
その姿を見た瞬間、数人の三年生が、堪えきれずに涙をこぼした。
教師という仕事は、きっと仮面を被ることも多いのだろう。言いたくても言えないことがあり、生徒に誤解されたり、時に嫌われたりもする。
それでも、こうして不器用な愛情をまっすぐに差し出してくれる――その姿に、胸の奥から感謝があふれた。
「時間です」
係員の声が響き、私たちは一斉に立ち上がる。
これが、最後のステージだ。
「さあ、フィナーレを飾ろう!」
足を一歩踏み出すたびに、鼓動が速まっていく。舞台袖に向かい、緞帳の向こうの静寂に耳を澄ませる。
いよいよだ。――最後まで、全力で、音を届けよう。
*
「次だな」
「ああ」
俺と大気は、並んで腰を下ろしたまま、言葉少なに頷き合う。
昼食を食べ損ねたことなど、どうでもよかった。
目の前に広がるのは、これから千紗たちが音を紡ぐ舞台――ただそれだけが、今の俺たちの関心のすべてだった。
舞台の照明が、すっと落ちる。
暗闇に包まれた瞬間、会場全体の空気が静かに凍りつくように沈黙した。
やがて、第二甲府高校吹奏楽部が整然と入場を始める。
その足取りは、時を刻むかのように正確で、どこか荘厳な気配さえ漂わせていた。
白いスポットライトが一本、ステージ上に落ちる。
浮かび上がったのは、等間隔に並ぶ部員たちの影。
まるで影絵のように、鮮やかで、それでいて静かな緊張感に満ちていた。
その中に――千紗がいた。
その瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
心の奥で、何かが強く揺さぶられるような感覚。
彼女はいま、どんな思いを抱いて、この舞台に立っているのだろう。
ちらりと隣の大気をうかがう。
彼はただ、まっすぐ前だけを見据えていた。
普段なら軽口のひとつも飛ばしてきそうなやつが、今日は一言も発しない。
その沈黙が、胸の奥に、じわりと小さな不安を滲ませた。
ふと視線を下げると――そこで、不思議な光景に目を奪われる。
大気の右手。
そこには朱雀祭のリストバンドが握られていた。
その手が、かすかに震えているように見える。
まるで、何かに祈りを捧げるかのように。
けれど奇妙だったのは――そのリストバンドは、俺のクラスのものだった。
大気のクラスではない。
アナウンスが、静寂を裂くように会場に響き渡る。
その声が、胸の鼓動と重なって、さらに空気を張り詰めさせていく。
指揮者がタクトを掲げると、千紗たちの演奏が始まった。




