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2017年9月9日(土)10時20分

 2017年9月9日(土)10時20分


 高崎線の車内。

 窓の外では、群馬の田園風景が秋の日差しを受けてじんわりと光り、滑るように遠ざかっていく。残暑の熱がまだ車内にこもり、線路脇の稲穂からは夏の余韻がふっと立ちのぼる。風に揺れた穂先が、きらりと光を返し、淡い影が車窓に踊った。

「うぉ、初群馬だ!」

 大気が子どものように目を輝かせ、ガラス越しに外をのぞき込む。俺はそんな無邪気な友を見て、思わず口の端をゆるめた。

 けれど――胸の奥の張り詰めたものは、ほどけないままだった。

 今日は吹奏楽部の西関東大会、本番の日。高揚よりも、どこか不安が勝っていた。

「なあ、大気。新体制、始まったばっかりだろ。部活休んで来て、大丈夫かよ」

 軽く咎めるように言うと、大気は肩をすくめて見せた。

「ちゃんと監督に許可取ったってば」

「へぇ、意外と素直じゃん……で、なんて言い訳したんだよ」

「全部」

 その一言に、俺の呼吸が一瞬だけ止まった。

「全部って……どういう意味だよ」

 問い返すと、大気は窓の向こうの田園を、まるで遠い世界でも見るようにぼんやりと見つめ、低く言った。

「もう、分かってるんだ。時間が、あんまり残ってないってことも」

 車内にアナウンスが響く。

『次は高崎~、高崎~』

 けれど俺の耳には、妙に遠く聞こえた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。窓の向こうの景色は、いつの間にか色を失い、一枚の絵のように静まり返って見えた。

「お前、それ……」

「県大会の前からだよ。少しずつ、記憶が混ざり始めた。でも、千紗先輩のおかげで戻ったはずだった……けど、やっぱ駄目だった。最近じゃ、中学のことも、昨年の夏のことも、輪郭がぼやけてさ……代わりに、工藤光の記憶がどんどん流れ込んでくる。意識のない時間も増えてきて……気づいたらぼーっとしていて……頭ん中、もうぐちゃぐちゃだよ」

 言葉を飲み込むように、俺は俯いた。何を返せばいいか、まるで分からなかった。

 それでも――大気は、どこか淡々と続ける。

「俺は……もともと異物だ。この体は、工藤光のものだからさ。それに……光の家族を見てると、どうしても思うんだ。ただただ……申し訳ないって」

 外の風景が、秋の陽に白く揺らぐ。

 その光の揺れに目を細めながら、大気がぽつりと呟く。

「母親は、多分、気づいてる。それでも、俺を息子みたいに大事にしてくれる。だからこそ、だ。そろそろ……返さないといけないと思った」

 その声は、静かで、澄んでいた。

 だからこそ、俺の胸に、どうしようもない痛みを残した。

「俺が、輿水大気としていられるうちに、全部やりきろうと思った。監督にも言ったよ。事件は監督のせいじゃないし、俺は――幸せだったって」

 脳裏に浮かんだのは、千紗の顔だった。

 彼女は、これを知っているのか――。

 怒りとも焦りともつかない感情が、胸の奥で一気に弾け、思わず声が荒くなる。

「な、なあ! その……千紗には言ったのか? その……身体を返したいって」

 大気は静かに、けれど確かに頷いた。

「うん。祭りの夜に、ちゃんと話した。千紗先輩も、多分、うすうす気づいていたみたいだし、俺がぼーっとしていると、むしろフォローをしてくれた。本当は……残って欲しいって思ってるはずなのに、それでも、俺の気持ちを尊重してくれた。『他人に迷惑かけて、自分たちのエゴを通すのは違うよね』って、そう言って。……やっぱり、すごい人だよな、先輩は」

 大気は、ふっと笑った。

 けれど、その笑顔の奥に、微かな不安の翳りが滲んでいた。

『次は、新前橋~新前橋~』

 車内に響くアナウンスに合わせて、電車はまたゆるやかに減速を始めた。

 俺は、窓際に座る大気の横顔をじっと見つめる。秋の光が車窓から差し込み、輪郭を淡く縁どっていた。その光は、まるで彼の存在を優しく確かめるように、静かに頬を照らしている。

 深く息を吸い込み、覚悟を決めるように、俺はひとつ、ゆっくりと呟いた。

「あの秘密についても……ちゃんと、触れたのか?」

 一瞬、車内が沈黙に沈む。

 大気は視線を落とし、静かに首を振った。

「いや……言っていない」

「な、なんでだ! やっぱり千紗にも言った方がいいだろ……普通。知らなかっただなんて……千紗がかわいそうだろ」

 声が震える。喉の奥が熱く、今にも泣き出しそうだった。

 けれど、大気は――変わらず静かだった。微かに、寂しげに笑った。

「優しいな、信二は。でもさ、それを千紗先輩に伝えたら……お前が苦しむだろう?」

「え……」

「お前が県大会決勝のあと、俺にしつこく迫った。あれがきっかけで、俺は自分の正体をばらした。だから――『大気自身の存在が消えるトリガーを引いたのは俺だ。千紗の大気との思い出を奪ってしまったのも俺だ』。信二なら、きっとそう思ってしまう。それが……嫌だった」

「で、でも……それじゃあ千紗が……」

「ああ、分かってる。全部、考えたさ。できれば言いたい。いや、言った方が、先輩は安心するって分かってる。けど……全部を考えた上で、俺には、この形しか思いつかなかった」

 大気の目が、秋の陽を受けてかすかに揺らめく。

「ベストアンサーじゃないのは分かってる。けど、俺は千紗先輩が大切だ。……でも、だからと言って、お前が苦しんで、また千紗先輩と気まずくなるのは、望んでないんだ」

『次は、終点、前橋~前橋~』

 再びアナウンスが響き、電車はゆっくりと減速していく。

「でも……事実を知っている俺は、どっちにしろ、傷つくぞ……」

「ああ。それは――トリガーを引いた信二自身の罰、と思って受け止めてほしい。そこは……親友として、背負ってもらいたい。本当にごめんな」

 大気の声は静かで、けれど確かな意志があった。

「そして……」

 わずかに目を細めて、まっすぐこちらを見た。

「今度こそ、これからもずっと、長く、千紗先輩と仲良くしてほしい」

 胸の奥で、切なさと、かすかな希望が同時に芽吹くのを感じた。

 その声に、言葉以上の重みが宿っていることを、俺は――無意識に、理解した。


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