2016年10月28日(金)19時07分
2016年10月28日(金)19時07分
19時を少し過ぎた頃だったと思う。
先輩はすでに到着していて、スマホも手にせず、ただ真っ暗な空をじっと見上げていた。
「——あ!」
「お疲れ様です! すみません、遅れました!」
慌てて声をかけると、先輩は振り返り、ふわりと笑った。
「ううん。時間通りだね。さすが」
……嘘である。
はじめのバカが、謎のぎっくり腰を起こすという前代未聞のトラブルを起こしたせいで、部全体の予定がずれにずれた。特に高橋監督は、例の件も相まって機嫌が最悪。結局、俺たちは監督の説教タイムに突入し、解散時間が大幅に遅れた。
そのせいで現地集合という、誘った側としては致命的な失態。肝心の“道案内人”という役割すら果たせなかった。
もう一度、申し訳なさそうに先輩を見つめる。
その頬が、ほんのり赤く染まっていた。
寒空の下、俺を待っていてくれたのだ。罪悪感が胸にのしかかる。でも同時に、肌を刺す空気に、冬の訪れを確かに感じた。
「さあ、行こうっか!」
先輩の明るい声に導かれ、俺たちはパン屋の扉をくぐる。
温かな空気が一気に全身を包み込んだ。
店内は思ったよりもこぢんまりとしていたけれど、次から次へと客が訪れていて、どこか落ち着いた活気がある。きっと、それだけこのパン屋の味に、地元の人たちが信頼を寄せているのだろう。
「わぁー! おいしそう!」
先輩は思わず声を上げ、目を輝かせながら店内を見回す。その姿はまるで子どものようで、思わず見とれてしまう。
確かに、並んでいるパンはどれもレベルが高そうだ。——値札を見て一瞬ひるむものもあるが、そんなことはどうでもよくなるくらい、今の先輩は楽しそうだった。
こんなふうに素の表情を見せてくれることが、どこかくすぐったくて、でも嬉しかった。
思い返せば、本当に、あの台風の日以降、会話の頻度は確実に増えていた。
なぜか、どちらともなく毎朝交互に話題を持ち寄っては、もう片方が耳を傾けて、感想を返す——そんな妙なルーティンが自然と出来上がっていた。
他愛もないやりとりなのに、その時間が、俺にとっては驚くほど心地よかった。
「先輩は、どのパンが一番好きですか?」
少し緊張しながら聞くと、先輩は棚の中を真剣に見つめながら、ぽつりと答えた。
「今日は練習後だし、しょっぱい系が欲しいね~」
「あ〜、めっちゃ分かります! 練習後って、めっちゃ塩分欲しくなりますよね」
「ほんとそれ。吹部も一緒」
笑いながら言うその声に、ちょっと疲れがにじんでいる気がした。
そういえば、吹奏楽部もつい最近、県の高等学校芸術文化祭が終わったばかりだったはずだ。俺は詳しいことまでは分からなかったけれど、どうやら全体で一位を取ったらしい。
「めちゃくちゃすごいじゃないですか」
とある朝、素直な気持ちで伝えると、先輩はふっと笑い、少しだけ口元をつり上げた。
「……まだ復讐には二つ、残ってるから」
その言葉に、冗談交じりの不敵な笑み。
でもそれがどうしようもなく愛おしくて、なんだかもう、ダメだった。
やっぱ、この人、可愛いな——。
会話を重ねるたびに、知らなかった魅力が、ふとした瞬間に顔を出す。
そのたびに俺はまた、気づかないうちにこの人に惚れ直してしまう。
そう思いながら、そっと横顔を盗み見る。
するとその時、先輩がカレーパンの前でぴたりと足を止めた。
どうやら、獲物を見つけたらしい。なるほど、悪くないチョイスだ。
……だが、なぜか手を伸ばそうとしない。
「……先輩、どうしました?」
「んー、迷うね」
「そうですか? でも、ほら。人気ナンバーワンって書いてありますよ?」
「んー???? だからこそだよ、大気君!」
どうやら本気で迷っているらしい。
それにしても、今朝以上にテンションが高い気がする。
このパン屋の香りと雰囲気に、完全に飲まれているようだ。
「お金とか……ですか? 俺、出しますよ?」
ふと心配になって尋ねると、先輩は首を横に振る。
「違う。違うの。ただ……カロリーが……」
「へ?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
それに驚いたのか、先輩が振り返り、きょとんとした顔を向けてくる。
「そんなに驚く?」
「いや、まあ……確かにカロリーはありますけど。先輩、そういうの、気にされてるんですね?」
「んー、まあね、一応」
——あんな台風の日でも、電車に乗って朝から練習に来るくせに。
そんな人が、カロリーだけは気にして迷うなんて。
そのギャップがなんだかツボに入ってしまって、俺はこらえきれずに、ふっと笑ってしまった。
「ちょ、大気君」
「いや、なんていうか先輩って、やっぱ面白いなって」
「ばかにしてるでしょ?」
「いーや、してませーん(笑)」
けらけらと笑う俺を、先輩がじとっと睨んでくる。
けれど、その視線にはトゲがない。
たぶん少しは——いや、たぶんけっこう——
俺のこと、信じてくれてるんだと思う。
「でも先輩、せっかくだし、食べましょうよ!」
「んー、でも……」
視線はカレーパンに釘づけのまま。未練がありありだ。
「先輩スタイルいいですし、そんなに気にしなくていいと思いますよ? 何なら、半分こにしましょうか!」
我ながら名案だと思ったその瞬間、先輩の表情がふっと固まった。
……あれ、もしかして、半分こが嫌だったか?
先輩は感情が顔に出やすいタイプだ。今の顔は、たぶん……
「や、やっぱり、やめときます?」
恐る恐る尋ねると、先輩は少し間をおいてから、
「そうね、お互いに一個ずつ買いましょう」
と、口元を緩ませながら提案してきた。
それはまるで、ちょっとだけ照れくさそうで、でもちょっとだけ嬉しそうな——
そんな、絶妙な笑みだった。
……やっぱり、最初から一個食べたかったらしい。
その後、お互いにもう一つずつ甘いパンも追加して、外に出る。
小さな袋を手に並んで立ち、「いただきます」と声を揃えた。
カレーパンは、期待以上だった。
濃厚なカレーのコクも申し分ないが、何よりパン生地が絶品だ。
だからこそ、これだけの人気を誇っているのだろう。
俺たちは顔を見合わせて、同時に「うーん!」と唸った。
その声が重なる瞬間が、どうしようもなく、嬉しかった。
そこからは、腹が減っていたこともあって、俺たちは無言のままパンを頬張った。気づけば、あっという間に完食。
そして、自然と次のパンへと手が伸びる。
先輩はチョココロネ、俺はメロンパンを選んだ。
なるほど、先輩はやっぱりクリーム系は苦手らしい。そのくせに、甘さの塊みたいなチョコを選ぶあたり——甘党としての矜持は、きっと誰よりも強いのだろう。
こちらのメロンパンも、文句なしに美味い。
外はサクサク、中はふわふわで、口の中で優しくほどける。
特に、練習帰りの疲れた身体に、この糖分がじんわりと染み渡っていくのを感じる。
——そんなふうに、ちょっとだけうっとりしかけていた時だった。
「そういえば、大気君」
「……はい?」
先輩の声に反応して顔を向けると、その視線が真っ直ぐに俺をとらえていた。
「唐突だけどさ、大気君って……モテるでしょ?」
「へっ?」
あまりにも予想外すぎて、思わず声が裏返る。
しかも、タイミング悪く口にしていたパンの欠片が喉に引っかかり、ゴホゴホと咳き込んでしまった。
すると——
「ふふっ」
先輩が、口元を手で軽く隠しながら、嬉しそうに笑った。
どこかいたずらを仕掛けた子どもみたいな、でも、明らかに俺の反応を楽しんでいるような——そんな笑い方だった。
「で、どうなの?」
ストレートにそう切り込んできた先輩の顔は、思った以上に真剣だった。
体育会系の悲しい性か、年上の言葉には逆らえない。……いや、待てよ、この人は文化部じゃないか。
そう考えると、やっぱり不思議な組み合わせだ。野球部の一年と、吹奏楽部の二年。普通なら交わるはずのない接点に、いま自分は立っている。
でも、それを変だと感じることより、こうして一緒にいられることが——俺には、ただ嬉しかった。
とはいえ、目の前の「質問」からは逃げられそうにない。
「……いや、別に。そんなモテませんよ」
「ほんとにぃ?」
先輩は少し眉を寄せて、疑いの目を向けてくる。その圧に負けじと、俺もまじめな顔で返す。
「本当に、です。そもそも女子とあんまり喋ることもないですし」
「そう? 雪ちゃん、よく大気君の話してくれるよ?」
「は? あいつ、俺の話してるんですか?」
意外すぎて、声が少し裏返った。
「うん。授業中に寝ていたとか、今日また高橋監督に怒られてたとか、そういうの」
「……マジか。あの野郎……」
言いながら、正直少しだけ焦った。何をどこまで話されているんだろう……。
だが、雪は根はいいやつだし、課題の答えも見せてくれるし、面倒見もいい。——けど、それ以上の感情は特にない。
妹ってわけでもないが、どこかこう、きびきびした「良き戦友」みたいな……そんな感じだ。
「で、どうなの?」
二度目の問いは、ぐっと距離を詰めて放たれた。
まるで不倫調査でもしているかのような、妙に探るような目つき。
俺はその圧に負けそうになりながらも、少し声を落として答えた。
「……だから、ほんとにもてないんですって。何もないです、普通に」
そう言うと、先輩は「ふ〜ん」とだけ返し、小さく顎を引いた。
その声には、どこか含みがあって――その温度が、妙に胸に残る。
……でも最近、ひとつだけ気づいたことがある。
この先輩、余裕そうにしてるくせに、意外と攻めに弱い。
自分でもちょっと恥ずかしかったが、この空気なら……いける。
「じゃあ、逆に聞いていいですか」
少しだけ間を置いて、覚悟を決める。
「……先輩って、モテますよね?」
言った瞬間、胸の奥にじわっと緊張が広がる。
まるで、マウンドから勝負球を投げた瞬間のような感覚だった。
「え? 私?」
先輩は目を丸くして、まるで自分が言われているとは信じられないような顔をした。
「そうですよ。信二も言ってましたし」
「え、信二が? なにそれ、急にどうしたの?」
「この前、12月の修学旅行で告白されるだろうなって。わりと真顔で言ってましたよ」
その瞬間、先輩の顔に明らかな動揺が走った。
「……は? 何言ってるのあの人。あの人、一年のときからクラス一緒だけどさ、けっこう適当な時は適当だよ? 意外に」
言いながら、なぜか笑うでも照れるでもなく、ただ真っ直ぐに否定してくる。
「私なんて、まったくモテないし。本当に。今まで彼氏だって一度もいないんだから」
その言葉の裏に――少しだけ、"どうせ信じてくれないだろうけど" という気配を感じた。
どこか必死に否定するその様子が妙に可笑しくて、俺はつい肩をすくめた。
「本当ですか? 嘘っぽいですね」
「ほんっとーだよ、大気君! いや本当に!」
先輩は、珍しく語気を強めて言ってくる。笑ってごまかすこともなく、むしろ焦ったような空気さえ漂わせて。
「ふーん。そうなんですね」
「……なにそれ、その反応。絶対信じてないでしょ?」
「さっきのお返しですよ」
わざとらしく無邪気にそう言うと、先輩は一瞬きょとんとした後、すぐに顔をしかめた。
「……そーいうこと言うからぁ。舐めてんの? ほんっともう」
苦虫を噛んだような、子どもみたいな顔で口を尖らせる。
けれど俺は、それを冗談半分で受け流しながら——心の中では、なぜかあたたかいものがじんわりと広がっていた。
……今まで、彼氏いないんだ。
その事実が、どうしようもなく嬉しいと思ってしまった自分に気づき、我ながらちょっと情けなくなる。
だが、その一瞬を見逃さなかったのか、先輩が何かに気づいたようにじっと俺を見つめてきた。
「……なんですか」
視線をそらすのも気まずくて、問いかける声が少し上ずった。
すると先輩は、どこか真剣な目で俺を見つめながら、ふいに一歩、距離を詰めてきた。
「ねぇ、大気君」
その声は静かで、やけに近かった。さっきまでの軽いテンションとは違って、空気が一瞬張りつめる。
その顔がすっと近づいてくる——心臓が跳ねた。
まさか……と、思考が一瞬フリーズする。
でも先輩は、そんな俺の動揺など気にも留めず、柔らかく唇を開いた。
「一口」
「……へ?」
「メロンパン。一口ちょうだい!」
あまりにも普通の、そしてなぜか少し強い声。そのギャップに、思わず硬直する。
さっきまでの雰囲気に引っ張られていたせいで、気持ちの切り替えが追いつかない。けれど、先輩の目を見れば、拒否権がないことぐらいはすぐにわかる。
仕方なく、メロンパンを差し出した。
「どうぞ……」
先輩はパッと顔を明るくして、「ありがと~!」と、満面の笑みを浮かべながらメロンパンを受け取る。
その笑顔を見ているだけで、胸の鼓動がまた跳ねた。なのに先輩は、何のためらいもなく——俺が今まさに食べていたその部分に、がぶりと一口。
……え?
あまりにも自然で、あまりにも無防備なその行動に、頭が真っ白になる。
てっきり、口をつけていない端のほうから食べるんだと思っていたのに。そんな気遣いは一切なし。もう一度言う、一切なし。
呆然とする俺に気づいたのか、先輩は軽く笑って言った。
「あ、ごめん。これね」
そう言って、自分のチョココロネをひょいと差し出してくる。
いや、そうじゃない。そういう問題じゃない。
——天然なのか。いや、ここまでくると、むしろ確信犯では?
確かに、このチョココロネもちょっと気にはなっていたけど……。でも、これはそういう話じゃない。
仕方なく手を伸ばしてチョココロネを受け取る。
すると次の瞬間、さらに困惑する羽目になった。
先輩が、なぜかこちらをじっと見ているのだ。恥ずかしがる様子もなく、どこか探るような、いたずらっぽい目で。まるで、俺の反応を一つ残らず観察してやろう、という意志すら感じる。
——これは……試されてる?
軽口じゃ済まないような空気に、喉が一度、ごくりと鳴った。
そして俺はようやく気づく。
——あれ? このチョココロネ……どこから食べるべきなんだ?
メロンパンなら迷わずかじれる。でも、チョココロネは違う。片方の端からしか食べられない構造なのに、そこはまさに先輩がかじったばかりの場所だ。
反対側から食べようにも、中のチョコが噴き出すリスクがあるし、なにより側面からだと——チョコに届かない。
ど、どうすれば……。
そんなふうに思考がぐるぐるしていると、隣から「うん、うん♪」と、先輩の無邪気な声が聞こえてきた。見ると、メロンパンを二口目までがっつりいっている。
いや、ツッコミどころが多すぎる。俺のメロンパン、まだ途中だったんだが……。
——いや、今はそれよりこっちだ。
しばらく悩んだ末、俺は意を決して、体をほんの少し背けながら、チョココロネのかじり口にそっと歯を立てた。
たった一口。けれど、甘く濃厚なチョコレートの味が口の中にじんわり広がった瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
——俺、一体なにやってんだ……。
たかが一口のパンなのに、なぜこんなに緊張してるんだろう。
「先輩、これも美味しいですね。……お返しします」
できるだけ平静を装って振り返る。だがその瞬間、息が止まりかけた。
先輩が、こちらを見つめていた。
頬がほんのり、いや、はっきりと赤い。さっきまでの無邪気な雰囲気とは違う、どこか真剣で——戸惑いがにじむような、そんな目で。
言葉を返さないまま、視線だけがぶつかる。逃げようと思えば逃げられた。でも、なぜか目が離せなかった。
心臓が、ドクン、と大きな音を立てた。
その眼差しに、気づかなかったはずがない。
——いや、気づいていた。俺が気づかないふりをしていただけだ。
その瞬間、どれだけ鈍感な俺でも——ようやく、何かを察した。
目の前にいる先輩が、少しだけ違って見えた。




