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2027年8月29日(日)13時22分

 2027年8月29日(日)13時22分


『……うん。うん……。ごめん、渚。結局、答えてもらえなかったよ』

 高知市内で光さんと別れた翌日。私は一人、高知龍馬空港に着いて、渚と電話をしていた。

『……そう、なんだ』

 返ってきた声は、わずかに沈んでいた。

 その響きに、胸の奥がじわりと痛んだ。

 落胆というより――私のモヤモヤが晴れなかったことを、まるで自分のことのように残念がっている、そんな声だった。

 だからこそ、私はあえて明るく、声のトーンを上げた。

『ま、まあさ! りんさんとか、はじめさんとか……もしかしたら樋口選手とか筒井選手も実は知っているかもしれないじゃん!』

『……え? いまさら?』

『いまさらでも! 聞いても“よく覚えてないな〜”って何度も言われたけど、さ、ほら、実は知ってるかもとか、奇跡的に思い出すとか! ゼロじゃないし!』

 自分でも必死すぎるとは思った。

 でも、渚の声が沈んだままなのがどうにも耐えられなかった。

『だから……』

 一度、唾をのみ込んでから、静かに言った。

『渚が、落ち込まないでね……』

 電話の向こうで、ほんの一拍の沈黙。

 そして、ふっと小さく笑う気配がした。

『……じゃあさ、お土産は、いもけんぴで』

『はあ? なんでそうなるの』

『だって高知といえばそれでしょ。ほら、甘いのでちょっと元気になりたい』

『……おい』

 思わず笑ってしまった。

 渚も、くすくすと笑っているのが分かる。

『あはは……じゃあ、まあ気を付けてね』

『うん。ありがと』

 通話が切れたあと、私はようやく、大きく息を吐き出した。

 ――昨日の夕食でも、光さんは何も話してくれなかった。

 おそらく信二さんと同じ。いくら聞いても、もう教えてくれることはないのだろう。

 しょうがない。私のモヤモヤが晴れたところで、この映画作りの何かが変わるわけじゃない。そう自分に言い聞かせると、少し心が軽くなった。

 さあ、切り返しだ。残りをしっかりやろう!

 そう思い、渚から引き継いだ仕事――広報物のチェックを、飛行機の中で進めてしまおうとスマホを取り出す。

 ……また田口さん、新聞記事で作品を“フィクション”って書いてる。ノンフィクションだってば。まったくもう……。

 やれやれ、と肩を落としつつ保安検査場のある二階へ向かおうとした――そのときだった。

「春ちゃん!」

 聞き慣れた声に、足が止まった。

 反射的に振り向く。

「……光さん?」

 そこに立っていたのは、光さんだった。

 息を切らし、頬がうっすらと赤くなっている。走ってきたのだろう。

 でも、その表情は――どこか照れくさそうで、どこか、決意を固めた人の顔だった。

「ど、どうしたんですか?」

 思わず声が裏返る。胸がざわつく。

 光さんは何かを言いかけて、ほんの少しだけ目を伏せ、ポケットをまさぐった。

「これ……」

 差し出されたのは、折りたたまれた小さな紙。

「春ちゃんが、知りたがってたやつ」

 一瞬、頭が真っ白になった。

 ずっと探していた手がかり。

 それが、今、私の目の前に――。

 でも、それ以上に――彼が“わざわざ追いかけて渡しに来た”という、その意味の方が、胸にじわりと重くのしかかってくる。

「昨日の夕食、春ちゃん……ずっと上の空だったでしょ?」

 光さんは、ぽつりと呟くように言った。

 気づいていたんだ――私の焦りも、不満も。

 静かな空港のざわめきの中で、その声だけが妙にまっすぐ届いた。

 彼は一度視線を落とし、深く、息を吐いた。

 そして、ゆっくりと、真剣なまなざしで私を見た。

「一晩考えたんだ。どうするのがいいのか。……でも、正直、答えは出なかった」

 言葉の端に、迷いが滲んでいた。

「……けどね、このページの“生き返り”の約束は、大気君とキャプテン――そのふたりだけで、内緒にしようって決めたものなんだ」

 光さんの声は、どこか頼りなく、でも真剣だった。

 その説明は言い訳にも聞こえかねなかったけれど、そこにこめられた葛藤――守らなければいけないものと、託したい気持ちとの間で揺れていた時間が、痛いほど伝わってきた。

「でも、それってつまり――俺、工藤光はそのふたりの約束には入っていない。だからさ……俺が“他の誰か”に話してはいけないっていう約束はしてない、ってことにもなるんだよね。屁理屈だけどさ」

 光さんは苦笑した。

 けれどその目は、もう迷っていなかった。まっすぐ、私を射抜くように見ていた。

「僕は、大気君と一番長く過ごした。彼にも励まされたし、逆に彼の苦しみも、誰より近くで見てきた。……怒られるかもしれないけど、もし彼が僕の立場だったら――たぶん、同じことをすると思う」

 そこで、ほんの一拍、言葉が途切れた。

 息を整えるように、目を伏せ、そして、ゆっくり顔を上げて。

「……それに」

 光さんはまっすぐに言った。

「春ちゃんなら、きっと、上手くしてくれる気がしたんだ」

 胸の奥が、きゅっと熱くなった。

 信じてもらえた。その重さと温かさが、指先まで震わせる。

 光さんは、折り畳んだメモを、そっと、けれど確かに、私の手に押し付けるように渡した。

「ほら、時間だよ」

 それだけ言って、光さんはひとつ微笑み、くるりと背を向けた。

 空港のざわめきの中に、彼の背中がすぐに紛れていった。

 ――手の中の紙の温もりだけが、まだ残っていた。





 機内の指定席に着くと、周りの乗客たちはもう旅の余韻に浸り始めていた。

 窓の外の景色を、子どものような目で見つめている人。タブレットの映画に夢中になっている人。土産話をはしゃぎながら語り合う声――まるで世界はゆるやかに、心地よく流れているようだった。

 けれど私の胸だけが、違っていた。

 ずっと押さえ込んでいた鼓動が、急に激しく鳴り出している。まるで初めてのラブレターをもらった中学生のように、息が詰まる。

 震える指先で、恐る恐る、そのメモを開いた。

 全て、手書きで書かれている。

 まだ体温が残っているような紙。わずかに折れた角が、彼の迷いと決意を物語っている気がした。

 初めに、光さんの文字でこうあった。

『2017年4月――昇仙峡の神社に行った後の日記。そこに書いてあった内容だと思う。断片的にしか覚えていないけど、これで合っているはず。そして――ごめんなさい』

 目の奥がじんと熱くなる。

 “ごめんなさい”――その一言に、どれだけの逡巡と誠意がこめられていたのだろう。

 私は機内アナウンスも、周りの乗客のざわめきも、もう耳に入らなかった。ただ、ページの向こうにいる大気さんの真実へと、息を詰めて目を落とした。





『2017年4月。

 山梨に戻った翌日、祖父母に誘われ、昇仙峡の神社を訪れた。

 渓谷の空気はひんやり透きとおり、岩肌に落ちる光は水滴のようにきらめいていた。苔むす石段を登ると、お社の奥に、ひときわ大きなご神木がそびえていた。

 その瞬間、胸の奥に眠っていた記憶が、ひとすじの光のように差し込んだ。

 12月15日から、目を覚ますまでの、閉ざされていた時間。

 そして――決して破ってはいけない“約束”。

 神様と交わした、あの約束だ。

 なにせ――【自分がこの世にいた事実すら、無くなる可能性】があるからだ。

 あの日、俺――輿水大気は病院のベッドで意識を失い、目を覚ますと、見知らぬ白い靄に包まれた場所にいた。

 湿った空気、温泉のようなぬくもり。けれど、不意に現れた一本の巨木に手を触れた瞬間、すべてが一変した。

 冷たい。生き物の温もりがない。感情も、脈も、まるで存在しない“何か”。

 その冷気が体の芯を奪い、言葉にできない恐怖が押し寄せた。

 そのとき、頭の中に“声”が響いた。

 言語ともつかぬ音の連なり――だが、理解できた。不思議なほど明確に。

 ふと視線を向けると、一艘の小さな船が近づいていた。

 提灯の灯る木造船。その中には、白装束の男――工藤光が、静かに横たわっていた。

 死んでいると、直感でわかった。

 その瞬間、いくつかの約束の中で、二つの約束が、頭の中に“焼き付くように”流れ込んできた。

 一つ目――

 この肉体に入り、自ら命を絶った彼を元の健康な状態に戻すこと。

 その見返りとして、俺には現世に戻るチャンスが与えられる。ただし、この役目が終われば、俺自身の意識は薄れていく。

 二つ目――

 本当の自分の正体を、生きている人に、自分の口から明かしてはいけない。

 望めば、自分が生きていた場所の近くに住むことも、会いたかった人に会うこともできる。野球の力さえ与えられる。

 だが絶対に、“俺として”生きてはいけない。それを破れば――

 ペナルティとして、俺がこの世にいた事実そのものが、個人差はあるが、少しずつ、世界から消されていく。

 生きている人の記憶の中から、写真の中から、言葉の端々から。

 最後には、誰ひとり、俺という人間が存在していたことを覚えていられなくなる。

 ――そんなルール、すっかり忘れていた。

 でも同時に、俺は思った。これは“チャンス”だって。

 もう一度、生きられるなら、それでいい。

 確かに、自分の正体を明かせないのは寂しい。

 でも、千紗先輩や信二なら、俺が言わなくても、きっと俺だと分かってくれるはずだ。

 ありがとう、神様。

 本当に、チャンスをありがとう』





「お客様、ご気分が悪いのですか?」

 突然の声に驚き、私ははっと我に返った。スタッフの青いスカーフを見て、ようやく自分が何をしていたのか思い出す。重力の感覚から、飛行機は既に離陸していたのだ。

「あ、その……、だ、大丈夫です」

 慌ててそう答えるが、声が震えていることに気づく。

「……そうですか。飲み物でも飲まれますか?」

 スタッフの女性は優しく微笑みながら聞いてくる。

「あ……リンゴジュースを……お願いします」

 咄嗟に答えると、彼女はにっこりと頷き、手早く飲み物を準備しに席を離れた。

 彼女の背中が見えなくなると、私はまたメモを開く。メモを持つ手が震えて止まらない。

「え?」

 思わず声が漏れた。

「待って……」

 メモの内容を何度も読み返す。

「え? 本当にこれ……?」

 頭の中がぐるぐると混乱し、現実を受け入れられない。

「ちょっと、いや、まじで、これ本当に?」

 いや、間違っていてほしい。そう願う気持ちと裏腹に、確信がじわじわと心を蝕んでいく。

「でも……これが今までのインタビューや日記の話と一致するとしたら……まさか……」

 震える指でメモを握りしめながら、事実の重みに押しつぶされそうになる。

 その時、「お客様、お待たせしました」と声がして、スタッフの女性がリンゴジュースを持ってきてくれた。

 その蓋には、アンパンマンのようなかわいらしいイラストが描かれている。

「あ……ありがとう」

 言葉を絞り出しながら、私はコップを受け取る。

 そのまま手に持ったまま硬直してしまうと、彼女は心配そうに私を見つめていた。

「大丈夫ですよ」と、何とか安心させたい気持ちで一気にリンゴジュースを飲み干す。

 まるでエナジードリンクを飲み干すかのように、いや、酒を煽るかのように。

 けれど、かえってその挙動不審な態度が、スタッフのお姉さんを余計に心配させてしまうかもしれない。

 ちらりと横目で見ると、彼女は少し安心したのか、静かに距離を取って席を離れていった。

 その様子に、わずかながらもほっとした。

 しかし、今向き合わなければならないのは、お姉さんのことではなかった。

 私は再びメモに視線を戻し、手にしたペンで書き留めていた頃の記憶が、胸の奥から押し寄せるように蘇った。指先に伝わる紙の感触、当時の匂い、声――全てが一気によみがえり、心臓が跳ねる。

 そして……、全てが繋がった。

 なぜ輿水大気さんは、姉や野球部のみんなに、自分の正体を伝えられなかったのか。

 それなのに、県大会決勝後、あれほど躊躇しながらも、信二さんに、そして間接的に姉に、自らの正体を打ち明けてしまったのはなぜなのか。

 さらに、現在、なぜ、あれほど親しく接していたはずの人々が、大気さんのことをまるで覚えていなかったのか。

 りんさん、はじめさん、瑠璃さん、雪さん、瑞希さん……他の多くの人も、確かに撮影現場には来ていたはずなのに、『大気さん』の名前を一度も口にしなかった。

 思い返せば、りんさんやはじめさんのクラウドファンディングサイトにも、一言も『大気のために』とは書かれていなかった。

 そして……、そうだ。私が中学時代に『17の夏』を書くために、当時も彼らに取材していた。

 しかし、映画制作が始まって改めて取材すると、小説の頃とは違い、皆の声はどこか空ろで、「さ、さあ~」と、言葉は上の空を漂っていた。

 ああ……そういうことか。

 何度も記者の田口さんが、この作品をノンフィクションではなく、フィクションと書いてしまった理由も、今になってやっと理解できた。

 大気さんの存在は――確かにそこにあったはずなのに、世界から、記憶から、少しずつ削ぎ落とされていったのだ。

 2017年はもう10年前。

 もしかしたら、大気さんは今も、あの世で――自分の存在そのものが消えつつある恐怖を、肌で感じているのかもしれない。

 死者にとって、生きている人々に忘れ去られることほど、耐え難い恐怖はない。

 それが、当時の彼を縛り付けた。いや、おそらく今も――彼を恐怖で縛り続けているのだろう。

 嗚咽が込み上げ、胸がぎゅっと締め付けられる。息が詰まり、視界が滲む。

 苦しみながらも、咄嗟に、バッグから大気さんの日記を取り出した。

 最初は、記憶が失われていくのを防ぐために書かれたのだと思った。

 だが違った――神社に行った日以降、大気さんの日記は、練習記録の延長ではなく、完全に日記形式で書かれていた。

 彼は、うすうす分かっていたのだ。

 もし自分が消えてしまっても、これさえあれば、かすかでも自分が生きた証が残る――と。

 指先に伝わる紙の感触。インクの匂い。ページをめくるたびに蘇る、あの日の空気と心拍。

 私は手を震わせ、涙をこらえながら、必死にノートとメモを握りしめた。

 この日記は……大気さんの、わずかな抵抗の証だったのだ。

「お客様!」

 嗚咽が込み上げ、息が詰まった。どうしようもなかった。

 胸の奥で、熱く、痛く、何かが震えていた――後悔、悲しみ、そして、今やっと見えた真実への圧倒的な畏怖。

 ここまで大気さんが背負ってきたもの――その重さに、言葉すら、ついに失った。

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