2017年9月8日(金)23時45分
2017年9月8日(金)23時45分
夕食を終えたあと、私たちは温泉へ入った。
ここは群馬県、川原湯温泉。草津にもほど近いこの地は、古くから湯治場として知られ、多くの旅人たちを癒してきたという。けれど今、その温泉街は、八ッ場ダムの建設によって、新たな土地へと移されていた。新たに建てられた宿は、どこかモダンな装いを纏いながらも、懐かしさを失ってはいなかった。洗練と伝統――その狭間に立つこの空間は、まるで「ここからまた始めよう」という祈りのようにも思えた。
ちなみに、第二甲府高校の卒業生が、この宿の若旦那と友人だという。その縁あって、きっと高価なはずのこの宿に、私たち部員全員が泊まることが許されたのだった。
六十人を超える大所帯。客室から本来は宴会場である広間まで、畳の上いっぱいに布団を敷き詰め、ぎゅうぎゅうと肩を寄せ合いながら、夜は更けていった。
それでも、誰もが楽しそうだった。笑い声が障子の隙間から、夜の冷えた空へと漏れていく。その笑い声を子守唄に、すぐに眠っていく者もいた。
けれど私は、どうしても眠ることができなかった。胸の奥で、何かが静かにざわめいている。鼓動が速くなるたび、遠くの虫の声さえぼんやりとかき消えていくようだった。
明日が怖いわけじゃない。ただ、何かに向かう前の、あの落ち着かない感覚――。
じっとしていることに耐えきれず、そっと布団を抜け出して外に出た。廊下はひんやりしていて、温泉の湯気がまだどこかに漂っているような匂いがした。ふと振り返ると、瑞希が、何も言わずについてきていた。
「……寝られないね。大会前だもん」
瑞希は苦笑いを浮かべながら言った。私と同じ気持ちなのだと、すぐにわかった。
あの日以来、瑞希との距離はぐっと縮まった。
もともと彼女は、私のことをひそかに尊敬してくれていたらしい。本当は、ずっと前から仲良くなりたかったのだと、ぽつりと打ち明けてくれた。ただ、彼女は少し不器用で、三年かけて、ようやくこんなふうに、肩を並べて歩けるようになった。
「今更だよね、ほんと」
私がからかうように言うと、瑞希はむっとした顔で、でもすぐに照れ隠しのように笑った。
「……こっちだって、勇気いるんだってば」
そのことが嬉しくて、なんだか無性に笑えてしまった。どれだけ不器用なんだろう、と。
私たちはそっと宿を抜け出し、夜の空気の中へ滑り込んだ。
澄んだ冷気が頬を撫でる。もうこのあたりには、秋の気配が忍び寄っているらしい。昼間は観光客や工事関係者の車で賑わっていた道も、今はしんと静まり返っていた。周囲には、ダム建設の名残が静かに横たわり、重機が置き去りにされた広場、仮設のフェンス、舗装途中の道路、八ッ場大橋の白い輪郭――それらが月光を浴びて、まるで時間から切り離された廃墟のように見えた。
「この静けさ、なんだか不思議だね」
瑞希が、ぽつりとつぶやいた。
「昼間の喧騒が嘘みたい」
「本当に……」
しばらく黙って歩いたあと、瑞希がまた口を開いた。
「でも……この町の人たちにとっては、きっと、いろんな想いがあるんだろうね」
チェックインの時、若旦那が話してくれた町の歴史がふと脳裏をよぎる。移転を余儀なくされた日々、その中で守り抜かれた湯の伝統。
目に映る静かな景色が、じわりと胸に染みこんできた。まるで、夜の闇そのものに、町の人々の想いが溶け込んでいるようだった。
ふたりで夜道を歩きながら、瑞希はふと思い出したように、バスの中で千紗が悩んでいた楽曲の話を切り出した。
「ねえ、第四楽章のナタリーの葬儀曲……。千紗、どう思う?」
「うーん……」
私は考え込む。
「流れとして、第四楽章が葬儀の場面で、天国に行く娘を見送ってるって考え方もあるけど……。でも、もしそれだけなら、『息子のための楽章』っていう言い方は、しないよね。第三楽章でナタリーへの想いとお別れをしたのに、また葬儀曲を重ねる意味が、引っかかるんだよね」
私の迷いに、瑞希はそっと答えた。
「……確か、あの曲が完成したすぐ後に、作曲者の息子さんが生まれたんだよ」
「え、本当に? 息子さんが生まれたのは知っていたけど、作曲後だったの?」
「詳しくは分からないけどね。でも……おそらく、亡くなった娘と、これから生まれてくる息子。両方への想いを、あの楽章に込めたんだと思う」
瑞希の言葉が、胸の奥にするりと入り込んだ。
片方だけじゃない。
過去も、未来も。
ふたつの想いを、同じ楽章に――。
瑞希は続ける。
「たとえば、今日、若旦那が話してくれたことも同じじゃないかな。大切にしてきた土地が、ダム湖に沈む。それって、本当に、言葉にならないくらい、苦しいことだと思う」
「うん……私なら、きっと耐えられない」
「でも――」
瑞希はそっと言葉を重ねた。
「それでも、この町の人たちは前を向いている。大切な思い出を胸に抱いたまま、それでも未来へ進もうとしてる。きっと、第四楽章も、そういうメッセージなんだと思う」
瑞希の言葉に、ふっと、心の奥の扉が開かれるのを感じた。
思考が急速に深まり、指先がまだ触れたことのない何かに、そっと届きそうな感覚が走る。
「……そうか。確かに、そうかもしれない」
私は小さくうなずいた。
「息子の誕生はあるけれど、娘のことも、忘れない……。で、でも、ちょっと待って! それだと……、第三楽章と少し重なってしまう気もするんだ。第三楽章での娘への想いと、第四楽章での娘への想い……同じな訳ないよね?」
「うん、分かるよ。さすが千紗、強情だね」
瑞希はやわらかく笑った。
「ごめん……でも、なんだろう」
私は夜空を仰ぎながら言った。吐いた息が白く散り、月の光のなかでほどけて消えていく。
「作曲者自身の視点じゃなくて、娘の視点から考えてみたら……違う景色が見えるかもしれない」
「視点?」
「うん。これは――メッセージなんだと思う」
「メッセージ?」
瑞希が首を傾げた。その横顔に、月光が淡く射して、静かに瞬いた。
「うん。第三楽章は、作曲者が”心の中”で娘と別れを告げる。でも、第四楽章は違う。天国にいる娘に向かって、『君のことは忘れない。安心していいんだよ。私たちはちゃんと前を向いて生きていくから』って――。その想いを、音楽という歌にして、伝えようとしたんだと思う。だからこそ、葬儀曲なんだよ。悲しみじゃなくて、未来への祈りとして、奏でられているんだ」
「……なるほど」
瑞希もまた、静かにうなずいた。
でも、その瞬間、胸の奥で、小さなざわめきが生まれるのを感じた。
今まで私は、土橋のアドバイスに導かれ、大気君と再び出会えたことを、あたかも第四楽章の歓喜のように思っていた。
けれど、それは違ったのかもしれない。
あれは、思い出のような、閉じた世界のなかの、かすかな光だった。
夢のように儚く、第三楽章に近いものだったのかもしれない。
――その先にあるべきもの。
本当の第四楽章とは、別れを受け入れ、その悲しみを抱えながら、それでも未来へ進む喜びだ。
生きている者にだけ許される、前へ歩む力。
哀しみと希望を、どちらもたずさえて、進んでいくこと。
私たちが奏でるべき『喜び』とは、その姿にこそ宿るのだ――。
ようやく、私はその答えに、ほんの少しだけ触れることができた気がした。
けれど。
今の私に、それを表現できるのだろうか……。
それは、楽譜の外側にある感情――言葉でさえ表現の難しい祈りを、私自身の音として世界に解き放てるのかという問い。
そしてそれは、自らの言葉で、大気君に『別れ』を伝えることにも、どこか重なる。
胸の奥に、薄い不安の膜が広がっていく。
足下の砂利道が、かすかにじゃり、と鳴る。その音が、なぜか遠く響いた。
その時。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
瑠璃からのメッセージだった。
三人で作った小さなグループに、短く、呼びかけるように書かれている。
『ちょっと、千紗と瑞希、どこにいるの?』
私はスマホの画面を瑞希に見せた。
瑞希は、肩をすくめて苦笑いする。
気がつけば、私たちは川原湯温泉駅の近くまで来ていた。
秋の夜の冷気が、そっと肌を撫でていった。
月が高く、静かな街灯の明かりが、ふたりの影を長く路面に伸ばしていた。




