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2017年9月8日(金)13時05分

 2017年9月8日(金)13時05分


 野球部を引退して、もうすぐ一か月が経つ。

 受験勉強が生活の中心になってくると、なんだかんだで日々の楽しみが少なくなっていく。先に部活を引退していた松田や須賀たちは、「ウェルカーム!」と手を叩いて喜んでくれたけれど、やっぱり体を動かす時間が減るのは寂しいものだ。

 とはいえ、ありがたいことに都内の大学から声をかけてもらえた。甲斐学院の去年のエース、金丸さんのいる学校だ。

 金丸さんからも、『また同じチームで戦えることを誇らしく思う』とラインが来て、少し嬉しかった。

 おかげで、受験はあるけれど心に少し余裕ができた。

 ただ、その話をした瞬間、松田が「お前、マジでふざけんなカス」と睨み、須賀は「てめえ、ぶち殺すぞ」と無表情で言ってきた。冗談だとは思うけれど。

 そんな彼らはさておき、クラスはすっかり受験ムード一色だ。今や授業はほとんどが自習になり、みんな黙々と机に向かっている。

 俺も静かに机に向かいながら、ふと時計に目をやった。

 ……千紗たちは、そろそろ学校から出発した頃だろうか。

 そんなことをぼんやり考えていると、ポケットが微かに震えた。スマホのバイブレーションだ。

 一瞬、隣の席の伊藤が顔を上げて、チラッとこちらを見たが、何も言わずにまた過去問へ集中していった。

 俺も気まずくなりながら、マナーモードにするのを忘れていたことを後悔する。

 急いでポケットからスマホを取り出すと、新着メッセージの通知が画面に表示されていた。送り主は――大気。

 なんだと思って開いてみると、その内容を見た瞬間、思わず「は?」と声を漏らしてしまった。

 さっきまでの静寂が嘘のように、周囲の視線が一斉に俺に突き刺さった。

「先生、推薦を貰った三浦君がスマホいじっています。まるで合格者マウントです」

 松田のその一言が、まじでイラッとした。





 今年の西関東大会は、群馬県前橋市で行われる。

 出場するのは、山梨県をはじめ、埼玉県、群馬県、新潟県から選ばれた代表校たち。全国大会への切符は、この高校A部門では、わずか三校に絞られる。

 ここ数年、埼玉の御三家と呼ばれる学校がその座を独占していた。けれど、私たちはまずこの大会に出場することを目標にやってきた。そして瑞希の言葉に背中を押され、さらに良い演奏を目指すことを決めたのだ。

 お祭りの後、三年生だけで改めてミーティングを開いた。まず全員が、それぞれ本音を話すことにした。いや、それが意外と多種多様で驚いた。三年間も共に過ごしてきたのに、本音は簡単には出てこないものなのだ。でも、そのぶつかり合いがあったからこそ、話し合いは深まった。どうすればみんなが納得し、満足して終われるか。

 正直、難関大学を目指す子たちは「受験も大事」と言った。それは確かにそうだ。しかし、それ以上に、「このまま引退するのもなんだか嫌だ」と、ぽつりとつぶやく声がいくつもあった。

 その声を聞いた瞬間、瑞希が突然、ぽろぽろと涙を流した。

 三年生全員の前で涙を見せるのは、彼女にとって初めてのことだった。驚きと同時に、三年生全体に不思議な一体感が生まれた。胸の奥で、何かがじわりとひとつにまとまったのを感じた。

 涙をこぼす瑞希の横顔を見て、私の心も自然に揺れた。言葉では言い表せない熱い感情が、体の隅々まで広がっていく。

 やっぱり、この仲間たちと最後までやり切りたい――そう思った。

 その後の全学年ミーティングでは、これまでの経緯を正直に話し、後輩たちに謝罪した。隠し事は一切なし。きっと、この学校の生徒なら、いつか同じような壁にぶつかるだろうと思った。

 その上で、『後悔しない演奏をしよう!』という方針を、全員で確認し合った。

 話し合いがまとまり、空気が徐々に和らぐ中、ふと目をやると土橋がどこか嬉しそうにこちらを見ていた。あの微かな笑みは、言葉にはならない安堵と喜びを含んでいるようだった。

 もちろん、私の個人的なことも、少しずつ進んでいた。

 あの日――。

 花火の光が夜空を彩る中、彼の瞳にわずかに光る涙が映った。

 声は震え、胸の奥から絞り出すように、ぽつりと漏れた。

「先輩……そろそろ、光に身体を返してやりたい……」

 その言葉は、不思議なほど静かに、私の胸に落ちた。

 涙も、動揺も、焦りもなかった。ただ、私は黙って、彼をそっと抱きしめた。

 それから、許される時間の限り、私は大気君と一緒に過ごした。

 まずは、以前から行きたがっていた湯村のカフェへ。ケーキは想像以上に美味しく、何よりもマスターご夫妻の温かい人柄に心を奪われた。

 その後も、雲ひとつない日に、「今日はバーベキューしよう!」と急に盛り上がり、笑い声と炭火の香りに包まれた。

 甲府駅近くの商店街や百貨店も歩いた。店先の色鮮やかなディスプレイや、道行く人々の何気ない笑顔が、いつもより鮮明に胸に刻まれていく。

 愛宕山の散策、強歩大会で訪れた千代田湖――どこに行っても、ただ一緒にいるだけで世界が少し明るくなるような気がした。

 そして、二人だけの学園祭も、何よりも特別だった。

 正直、練習や受験勉強、遠くの家との往復もあって、自由な時間は限られていた。けれど、そのわずかな時間こそが、かけがえのない宝物になった。

 胸の奥にそっとしまい込んだ、柔らかく、温かい記憶――それが、私の心を静かに満たしていく。

 そして今日――。

 西関東大会のため、今日は前泊で群馬県内の温泉宿に泊まることになった。学校をお昼前に出発し、長野県経由で向かう。

 大会直前に別のホールを借りて、練習することもできるが、今回はそうせず、敢えて早起きして、午前中に学校でみっちり練習をしてから向かう。

 朝一に行くと、いつものように私の大好きな人がいた。

「おはよう! 大気君」

「おはようございます!」

 そのやり取りが、何よりも胸を温かくした。

 練習後、楽器をトラックに積み込み、私たちはバスに整列する。

 今日は金曜日で、他の生徒たちは通常授業中。大会のため、吹奏楽部は半日だけの特別スケジュールだ。見送りの人がいないのは少し寂しいけれど、今は大会に集中したい。

 今回は甲子園の時と違い、隣の席は瑠璃だった。彼女は嬉しそうに「楽しみね」と言いながら、バスの窓から外を眺めていた。

 その瞬間、スマホが震えた。通知を開くと、大気君からのメッセージが届いていた。

『練習で行けませんが、応援しています!』

 画面の文字を目で追うだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。離れていても、想いは確かにそばにある――そんな気持ちが自然と込み上げた。

 バスは揺れながら高速道路へと進み、瑞希の指示で、部員全員で歌合奏が始まった。私はそれに参加しつつ、何度も楽譜を確認しながら、まじまじとその曲に向き合っていた。  

 あの日、渋谷での演奏を聴いた後、ロビーで土橋の教え子である武山さんという女性ティンパニー奏者に出会った。

「チケット? 演奏会のことは先生に話したけど、チケットは送ってないなあ……」

 少し不思議そうに首を傾げる。

 会話を進めるうち、彼女はかつてバーンズ本人が指揮する演奏を聴いたことがあると話してくれた。あるウインドオーケストラの客演指揮者として、今年偶然来日していたのだという。

 武山さんによれば、遠くから見たバーンズは、白髪が印象的な紳士で、どこか落ち着いた風格を漂わせていた。ただ、それ以上のイメージは持たなかったそうだ。

 しかし彼女は、少し微笑みながら言った。

「やっぱさ、君たちが勝手にイメージを作り上げるのではなく、作曲者自身がどんな思いで曲を書いたのか、もっと考えてみるのも大切かもしれないね」

 その言葉が妙に心に響いた。

 もちろん部全体でも確認はしたが、私は個人的にもう一度調べてみることにした。

 だが、情報は限られていて、どこまでが正しいのか分からない。曲の解釈に関する資料の多くは英語で書かれており、翻訳するだけでも時間がかかる。

 それでも、翻訳してみると、いくつかの新しい情報が浮かび上がった。

 まず、第三楽章。私たちはこれを『娘との思い出』と解釈していたが、実際には『もし娘のナタリーが生きていたら』という仮想の世界を描いたファンタジーであることが分かった。しかし、死への悲しみや、死者への別れといった感情表現は、私たちのイメージとほぼ重なっている。

 次に、第四楽章。驚くべきことに、バーンズ夫妻に新しい子どもが生まれたことが、この楽章に影響していると書かれていた。第三楽章が亡くなった娘への追悼なら、第四楽章は新たに生まれた息子への祝福として作られたものだという。

 だが、疑問も残った。

 第四楽章は息子のための楽章とされながらも、第四楽章の第二主題として、娘ナタリーの葬儀で使われた曲が使用されている。単純に『喜びだけの楽章』と解釈することが、本当に正しいのだろうか。

 確かに、武山さんたちの演奏を聴いても、第四楽章はただ明るいだけではなく、どこか哀愁や悲しみを含んだ、複雑な喜びのように感じられた。きっと、この楽章の真意はまだ完全には明かされていないのだろう。でも、そこに何かの答えがあるような気がして、胸の奥がざわついた。

 ふと気づくと、歌合奏は終わっていた。バスは八ヶ岳のサービスエリアを越え、もうすぐ長野県に入るところだ。

 明日の大会では、おそらく私の吹奏楽人生において、一つの大きな節目を迎えるだろう。心の中で、後悔しない演奏を――胸の奥からそう願った。


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