2027年8月28日(土)11時42分
2027年8月28日(土)11時42分
高知県いの町――その名を聞いて、すぐに和紙を思い浮かべる人は、決して多くないだろう。だが、この小さな町こそ、日本三大和紙のひとつに数えられる『土佐和紙』の里の一つだ。
町を抱くのは、仁淀川。澄みきった青が底まで透けて見えるその流れは、ただ清らかというだけでは足りない。どこか神秘的で、時の堆積までも洗い流すような、不思議な力を宿している。
都の喧騒から遠く離れ、歴史の荒波にも呑まれすぎることなく、この地は文化を独自に育んできた。
幕末の志士にも似た、与えられるものに頼らず、自らの手で未来を掴み取る気概。そして、荒々しさの奥に、指先で命を吹き込むような繊細さ――その両方が、いまも職人たちの手に息づいている。
光を透かす一枚の紙の向こうには、幾代もの手のぬくもりが重なる。ただの紙ではない。歴史と水と人の魂が織り上げた、ここにしかない「生きている素材」なのだ。そのことを、私はこの町に足を踏み入れた瞬間、初めて肌で知った。
私は今、人生で初めての『一人旅』をしている。
あの日、渚から病室で手渡された封筒には、工藤光さんの住所と勤務先の電話番号が入っていた。渚曰く、映画制作にあたり許可を取るため、探偵を使って居場所を調べたとのことだった。確かに、私自身『17の夏』を書いた当時は光さんとも連絡を取れていたが、それ以降は音信不通だった。
封筒にはさらに、現金十万円が入っていた。渚は説明する。「映画ではなく、私個人のSNSにスパチャしてくれる人がいてね。万が一のときのため、生徒会予算とは別の帳簿にしていたの」――その言葉に、私は思わず小さく笑った。やっぱ、渚は渚である。
高知龍馬空港からバスに乗り込み、窓の外を流れる雄大な自然をぼんやりと眺める。高知市の喧騒が遠ざかるにつれ、乗客は少なくなり、やがてバスは川沿いの小さな停留所に滑り止めのように停まった。風に混ざる水の匂い、湿った土の香り――都会では味わえない濃密な空気が、肺の奥にすっと染み渡る。
「……ここだ」
小さく息を吐き、リュックの肩紐を直してから歩き出す。すると、山肌に沿うように建つ小さな工場が目に入った。外観はトタン屋根に木材が組み合わされた素朴な建物。入り口の風情がどこか懐かしく、不思議と心がざわつく。昭和の特撮ヒーローが基地にしていそうな――そう、仮面ライダーの世界に迷い込んだような雰囲気だ。
看板には『鹿上製紙工房』の文字。この場所こそ、工藤光さんが働く和紙工房だった。
光さんは、実業団に入社後、肘を壊し、野球を断念せざるを得なかったという。もともと大気さんのフォームを模して投げていたため、無理が重なり、身体が限界を迎えてしまったのだ。
そんな絶望の淵で立ち尽くしていた彼に、偶然出会った伝統技術の保全団体の職人が手を差し伸べた。その誘いに応じるようにして、光さんは和紙の世界に深くのめり込んでいったという。
その話からは、決して平坦ではなかった道のりと、挫折の痛み、そして新しい世界に懸ける静かな覚悟が、ひしひしと伝わってくる。
――でも、困った。
電話でアポイントは取っていたはずなのに、光さんの姿はなかった。
意を決して工房の中に足を踏み入れる。休憩中なのか、館内は静まり返り、和紙の香りと木の香りがほんのり混ざる。紙と水と木――三つの要素が、時間の流れを止めたように、静かに共存して、思わず深呼吸する。
「すみませ――」
と、声をかけようとしたそのとき。
ガタリ、と音がして、目の前に現れたのは、まるで怪人のような大男だった。
いや、怪人ではない。人間だ。きっと四十代くらいの屈強な男性。鍛えられた腕に、無精髭。そして、黒Tシャツの胸には『黒潮くんLOVE』と共に、不思議な水色のキャラクターが書かれている。
「おや?」
「あ、あの、私……工藤光さんの、知り合いでして……今日伺うってお伝えしていたんですけど」
緊張しつつ名乗ろうとすると、その男性が「はいはい」と笑った。
「あ~、春ちゃんやろ? 聞いちゅう聞いちゅう。光が“映画の人が来るけん、びっくりせんといてよ”って言いよったき」
その高知なまりの柔らかさと、敵意のない雰囲気に、胸の緊張がすっとほどけていく。
話をすると、この人は、浜口さんというらしい。鹿上製紙工房の工場長だ。
「光さんは今日は別の工房に行っててね。井下手すき和紙工房って知っちゅう? いま、あの人、和紙を使った世界初のクレジットカードづくりに本気になっちょって。まあ、いつものことやけど」
そう言って浜口さんは朗らかに笑った。
「それやったら、光が戻るまで、工場の中、見ていかん? せっかくやき」
「え、でも、忙しくないですか?」
「大丈夫大丈夫。今日はちょうど午後からコウゾの皮むきやるし、見応えあるよ」
こうして私は、浜口さんの案内で工房の中へ入ることになった。
工場の中は、思っていた以上に静かだった。機械の音も控えめで、どこか呼吸を合わせるような規則正しさがあった。すでに独特の香りが漂っている。少し木の香り、そして何か甘いような、でも自然な匂い。
「これ、何の匂いですか?」
「コウゾやね。楮っちゅう、和紙の原料。蒸したてのコウゾは、ほんのり甘い香りがするんよ。素人の人だと、さつまいもみたいってよう言われる」
なるほど、それだ。なんか、懐かしい匂いだと思った。
「工場ってもっとガチャガチャしてるイメージでした」
「うちはね、機械も使うけど、半分は手作業。光が行っちゅう井下さんとこは、完全に手すきやけど、うちは“機械と人のハーフの和紙”やね」
「ハーフの和紙……」
「和紙いうてもな、全部が全部手すきやないき。用途によっちゃ、機械のほうが向いちょったり、コスト的にも続けやすいこともある。伝統守るゆうても、守り方は一つやないき」
浜口さんの言葉に、私はふっと頷いた。
確かに……自分も文章を書くとき、原稿は自分の手で書くけど、添削や整理はパソコンでやっている。手でやることだけが全ではない――その感覚と重なった。
「ほれ、来た来た」
午後になると、まるで秘密の合図でもあったかのように、ぞろぞろと人が現れた。作業場の扉が開くたび、割烹着姿の女性たちが次々に入ってくる。平均年齢は……七十歳を越えているのに、みんな元気で、笑顔で、動きが異様に速い。
「さあ、今日も剥くで~!」
「コウゾ、待っちょれ~!」
どうやら、この女性たちにとって、コウゾは“宿敵”というより、むしろ“友達”扱いらしい。
私も見よう見まねで隅っこに立ち、皮むきに挑戦した。最初は慎重に――でも、すぐ悟る。
「……な、なんかこう……逃げるんですけど?」
「コウゾはな、気分屋やき」と隣のおばちゃん。
「優しすぎても逃げるし、厳しすぎても心閉じるき」
「いや、それ、人間ですよね……?」
笑いが起きる。作業場に一気に温かい空気が満ちた。
私はと言えば、気分屋どころか反抗期のコウゾに完敗。手はベタベタ、剥けた皮は中途半端、しかもそのあと滑って飛んでいく。スローで見たら、自分の顔が一番おかしかったに違いない。
「職人さんって、すごいですね……」
思わず漏らしたその言葉に、浜口さんはニヤリと笑った。
「あはは、あれは職人やないよ。近所のおばちゃんたち。みんなボランティアで来てくれよる」
「え? ボランティア?」
「うん。そりゃ職人さんもおるけどのう、こうして地域の人に支えられちゅうきこそ、成り立っちゅうがよ。和紙自体、ほんまに多くの人が関わりよるき」
私は改めて作業場を見渡した。手際よく皮をむくおばちゃんたち、息を合わせて紙をすく人、蒸したコウゾの湯気に顔を寄せて確かめる人――そのすべてが、和紙を生かす一手一手だった。
「そうだったんですね……」
浜口さんは目を細め、ゆったりとした口調で続けた。
「あはは、まだ若いき、ピンとけんかもしれんけんどのう。土佐和紙の歴史の中にはな、記録に残っとらん人、名も無き人らもおるきん。でもな、職人と一緒に彼らが支えてくれたきこそ、今の全てが繋がっちゅうがよ。ワシだって、100年前の職人さんの名前や、それを支えた人らの名前を全部覚えちょらん。でもな、彼らがおったけん、今がある。忘れられても、その影響や有り難さは残り続けるちゅうことを、ワシは信じちゅう。そん人らが、名前も知らんかもしれんけど残してくれたバトンを、次の世代に渡していく。そやき、この和紙はただの『紙』やないし、わしらはこれに誇りを持ちよるがよ」
言葉のひとつひとつが、工房に漂う湿った木の匂いや、蒸気に混じるコウゾの甘い香りに溶け込む。手作業の音、紙をすく水のはねる音、そして笑い声の輪――それらすべてが、一枚の和紙に押し込められた記憶のように、私の心に刻まれていった。
私はふっと息をつき、目の前の光景に心を奪われた。小さな工房の中で、名も無き人たちの想いが確かに生き続けている――その事実に、言葉にならない感動が胸を満たした。
*
夕方、作業を終えたスタッフたちと工房に併設されたショールームでアイスを食べていると、ようやくその人が現れた。
「春ちゃん、ごめんね」
その姿は以前とほとんど変わっていなかった。スラリとした長身はまるでモデルのようで、端正な顔立ちは”光”を受けて凛としている。でも、どこか以前より落ち着いた空気をまとっていた。
「こちらこそです。ご無沙汰しております」
工藤光さん――かつて輿水大気さんが一時的に宿っていた体の持ち主である。
光さんは残りの事務作業を終わらせ、私と一緒に外に出ると、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。夜風がほのかに冷たく、季節の移ろいを改めて感じる。もう8月も終わりなのだ、と。
浜口さんたちに別れを告げ、光さんの車の助手席に乗り込む。エンジンがかかると、少し蒸し暑い車内が、やがて冷房で心地よく整えられた。朝からずっと張り詰めていた緊張が、体の芯から少しずつほどけていく。まぶたが重くなり、眠気がじわりと忍び寄った。
信号が赤に変わり、車がゆっくりと停まると、ヘッドライトに照らされて標識がぼんやりと浮かぶ。
高知市――ああ、そうだった。私は市内のホテルを予約していて、光さんがそこまで送ってくれる約束をしていたのだ。
「そういえば、映画作りは完成したの?」
光さんはもともとシャイで、特に異性の前では露骨に距離を置くタイプだった。
最初の頃のインタビューでは、まるでATフィールドが全開のようで、会話のキャッチボールさえままならなかった。
でも、小説を書くために何度も足を運ぶうち、少しずつ心を開いてくれるようになった。最後の頃には、インタビューに行くと自分からお茶を出してくれるようになり、しかも嬉しそうに――その姿を見るたび、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ええ。あとはホールでの撮影が残るのみです」
「そうか、頑張ったんだね……。ちなみに僕のキャストはどんな子?」
「アイドル部の男の子がやってくれました」
「へえ。今はアイドル部なんて、第二甲府にもあるんだね。その子も身長が高いの?」
「はい。光さんと同じくらいかっこいいですよ」
「あはは。高校生に気を遣わせちゃったね」
外を見ると、海沿いの道を静かに走っていた。窓の外は深い闇で、空と海の境界さえもわからない。まるで夜そのものを切り裂くように、車だけが孤独に進んでいるようだった。
車内に広がる冷房が心地よく、再びじんわりと眠気が押し寄せる。けれど――ここで何も聞かずに終わるわけにはいかない。
聞きたいことは、ちゃんとある。……聞かなきゃいけない。そう思っているのに、言葉はなかなか口をついて出てこなかった。
ふいに、あの日の記憶がフラッシュバックする。カフェで信二さんと話した日のこと。
『ごめん、知らない』
たったそれだけの言葉。けれど、拒絶の気配ははっきりとあった。責められているわけではない――それは理解している。けれど、あの突き放すような言い方に、少しだけ胸が痛んだ。
……今回も、同じようになったらどうしよう。
その不安が、胸の奥にずっと引っかかっていた。
「で、何か聞きたいことがあるんだよね?」
唐突に、光さんが口を開いた。驚いて顔を向けると、信号待ちの車内で、彼は前を見たまま、やわらかく微笑んでいる。
「すみません……そうです。そうなんですが……」
言葉がつまる。なぜか、うまく出てこない。
「ん? 何か言いにくい?」
「いや、まあ……あはは、んー……」
自分でも笑ってごまかしているのがわかる。
「んー、あててあげようか?」
「え?」
「ずばり、好きな人の話とか?」
「……は?」
「いいよ、片思いとか素敵じゃん。うん、いいね、そういうの」
「ちーがーいーまーす! そんな話じゃないです。そもそも、好きな人なんていませんし!」
「ほんとに? ……そうかな?」
「そうでーす。てかそれ、セクハラでーす」
言いながらも、つい笑ってしまう。光さんはニヤニヤして、まるで年上の余裕を見せつけるかのようだった。
そうか、この人も、ちょっと意地悪なところがあるんだっけ。
なんだか、さっきまで張っていた緊張が少しだけゆるむ。
もういいや。変に気を遣っても仕方ない。素直に、聞こう。
「で、すみません。今日、実はちゃんと聞きたいことがあって来たんです」
「うん、どうぞ」
「……あの、大気さんの日記なんですけど。覚えてます?」
「日記? ああ、輿水大気君の。ノートだよね? 覚えてるよ。キャンバスノート」
「え、ノートのブランドまで覚えてるんですか?」
「いや、うちの母親、キャンバスノートしか買ってこないの。昔から」
「あ、なるほど……」
「何でだろうね。知らないけどさ。でも――その日記がどうかしたの?」
運転席からの穏やかな声に、私はうなずいた。
「あれって今は、大気君のご両親が持ってるんじゃなかったっけ?」
「ええ、そうだったんですけど……今日、お借りしてきました」
私はバッグからノートを取り出し、膝の上にそっと広げた。けれど、光さんは前方に視線を向けたまま、運転に集中していて、すぐにはそれを見ない。
しばらくして、信号が赤に変わる。車が停止すると同時に、彼がちらりと視線を落とした。
「お〜、それそれ。懐かしいね」
光さんの声は、どこか遠くを見ているようだった。
「ノートを書いてたときって……記憶、あったんですか?」
私が尋ねると、彼は少し考えるように間をおいてから答えた。
「んー、あったよ。あったけど、何ていうのかな……本当に、夢の中にいるみたいな感覚で」
「夢、ですか?」
「うん。映画を見てるみたいだった。自分が主人公なんだけど、手出しできない映画。そんな感じ」
「映画……いや、すみません。他人に体に入られたことないので、想像が……」
「あはは。そりゃそうだ。僕も、あんな体験は最初で最後だと思うよ」
光さんは笑いながらも、どこか懐かしむような声だった。
「酔っぱらって泥酔してるのとも違うし、寝てるのとも違う。体の自由は利かないのに、意識はずっとある。だから、大体のことは覚えてるつもり。……まあ、今いきなり言われてすぐに思い出せるかどうかは、別だけどね」
「本当ですか?」
私は身を乗り出すように言った。空気が、ふっと軽くなるのを感じた。
「なら、ちょっと……その、ノートの内容で、聞きたいことがありまして……」
言った瞬間、息が少し詰まった気がした。空気はさっきより和らいできた気もするけれど、それでも胸の奥はまだざわついている。
このままいける――そう思ったのに、口の中で言葉がもたついた。
「あの……その、あれって……ありませんでしたか……?」
「ん? ごめん、何が?」
声が、自分でも驚くくらい小さく、震えていた。
“また、こうなるんだ”――心の奥で、焦りがじわりと広がる。
「そ、その……」
「うん、どうぞ」
光さんはハンドルを握ったまま、前を向いて静かに私を待っている。
その視線は直接こちらを見てはいないけれど、存在感だけで十分に圧を感じてしまう。
私はもう一度、ゆっくり息を吸い込み、言葉を丁寧に紡ぐ。
「ノートに……消えたページって、ありませんでしたか……?」
言い終えた瞬間、車内の空気が、はっきりと変わった。
光さんは答えず、前を見据えたまま微かに肩を動かすだけ。
信号の赤が青に変わっても、時間だけが止まったみたいに感じられる。
「あの……。ありませんでしたか……?」
もう一度、声を振り絞るように言う。
沈黙が、重く、厚く、車内に張り付く。息が詰まる。心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いた。
光さんは前を見据えたまま、何かを決めかねているように見える。
迷いを含んだ沈黙が、ぎゅっと胸を締めつける。
「……うーん……キャプテンは、何て言っていた……?」
その声は、さっきの軽やかさとはまるで違った。
低く、濁りを含み、迷いを吐き出すように前方へ向けて発せられる。
私はその声を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられ、声を出すのも怖くなった。
「信二さんは……言えない、って」
私の声は、思ったよりもかすかに震えていた。
光さんは前を向き、ハンドルを握ったまま微かに肩を動かすだけで、私の言葉を受け止めている。
でも、その沈黙が、胸に重くのしかかる。
すると光さんは、小さく笑った。けれど、その笑いは空気に溶けず、冷たく乾いた影のように残った。
「あはは……うん、だよね。確かに、あれはね……なるほど、困ったなあ……」
信号が点滅し、車はゆっくり減速する。
停止した瞬間、車内の空気は一層重く、静寂がぎゅっと押し寄せてくる。
光さんは前を向いたまま、やっと口を開いた。
「人に言えないな、あれは……」
「そう……ですか。でも」
「でも?」
「それでも、知りたいんです。何があったのかを……」
さらに胸が押しつぶされそうだ。
でも、ここで引き下がれば、また何も掴めずに終わる。
高知まで来て、何も得られないなんて……。
私は、息を詰めるように言葉を続ける。
「正直、私自身……中学生の頃は、あの小説を書いたこと、後悔していたんです。姉や信二さんが応援してくれたから書けたけれど――それでも、やっぱり墓を荒らしたような気がしてならないんです」
光さんは前を向いたまま、ハンドル越しに微かに肩を揺らすだけで、私の言葉に耳を傾けている。
沈黙の重みが、胸にさらにずしんと響く。
「しかも……全部を解き明かせたわけじゃない。結局、事実が何だったのかも分からないまま、まとめて、それで映画にもしてしまった。自己満足なのかもしれません。それでも、せめて真実を知って、物語として……ちゃんと伝えたい」
喉が詰まり、言葉を飲み込みそうになる。それでも、声を振り絞る。
「映画として世の中に出るからこそ――真実の大気さんたちを、ちゃんと知りたいんです。もう撮影の変更は間に合いませんけど、原作者として、その事実を知っておきたい。そして、何よりも……」
声が少しだけ震える。
「もし亡くなった姉が、知らない事実があったとしたら……きっと姉は、すごく悲しみます。それだけは、嫌なんです」
沈黙が、車内をぎゅうっと包み込む。信号が青に変わる。
微かなエンジン音だけが、孤独に響く。
その音にかき消されるように、光さんが低くつぶやいた。
「確かに……橘先輩は、知らない事実だな。あれは……」
胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。
心臓が、まるで息を止めるように重く、早鐘のように打つ。
「はい、なので――お願いします」
私は助手席で、自然に深く頭を下げた。
もう嫌われてもいい。
それ以上に、もう、ここで何かを取りこぼすわけにはいかない。
でも、車内には再び、重苦しい沈黙が降りてきた。
光さんは前を向いたまま、ハンドルを握り、口を開かず、ただその背中と肩の微かな動きだけで存在感を示す。その沈黙の重みが、胸にずっしりと食い込み、言葉にすれば崩れそうで、息をするのさえためらうほどであった。
窓の外、街灯の光がぽつぽつと現れる。高知市内の静かな灯り。ネオンのきらめきではなく、生活の温かさだけを宿した街灯が、闇の中に小さく浮かんでいる。その光が、私の胸の奥の孤独感を、一層際立たせる。
すると、やっと光さんが口を開いた。
「この通りにね、美味しいかつおのお店があるんだ。……せっかくだし、美味しいもの、食べようか」
その声は穏やかだった。
でも、明らかに話題をそらそうとしている。
視線は前方に固定され、私には届かない。
私はうなずくことすらできず、視線をひたすら床に落とした。
胸の奥には、厚く、冷たく、びくともしない壁が立ちはだかっている。
息が詰まり、言葉は喉の奥でひっかかる。
――その壁の向こう側にある彼の心に、私はまた触れることができなかった。




