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2017年8月26日(日)19時42分

 2017年8月26日(日)19時42分


 今日の部活動には、三年生の何人かが顔を見せなかった。

 表向きの理由は「塾」ということになっていたが――そんなもの、誰も本気で信じてはいなかった。あの日の出来事が尾を引いていることは、部員の誰もがうすうす察していたのだ。

 そしてその気まずさは、目に見えない霧のように、じわじわと部全体に広がっていく。一年生も二年生も、その重苦しい沈黙の中に巻き込まれ、楽器を構える手つきさえどこかぎこちなく、音に迷いがにじんでいた。

 けれど、その中にも――一筋の光があった。瑞希と私の言葉に、耳を傾けてくれた者たちが、確かにいたのだ。瑠璃を筆頭に、何人かは静かに動き始めてくれた。見えない鎖を断ち切るように、停滞した空気に、かすかな風穴を開けようとしていた。

「私はいつでも味方だよ」

 その瑠璃の言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。こみ上げてくるものを抑えきれず、危うく泣き出してしまいそうだった。本当に嬉しかったし……本当に、有り難かった。救われたような気持ちがした。

 それでもなお――心の奥底に残る不安は、すべて拭いきれなかった。

 ――このまま、いくつもの音が欠けたまま、西関東大会に出場するなんて。そんなの、絶対に嫌だ……。

 胸の奥でその思いが幾重にも渦を巻き、どうしようもなく自分を追い詰めていく。本音を言えば、この時、誰かにすがりたかった。

 けれど……大気君には、素直に頼ることができなかった。あのノートに綴られていた記憶の断片を思い出すたび、言葉が喉元でつかえてしまうのだ。

 大気君は、今や輿水大気として、完璧に振る舞っている。だが、それがいつまで続くのか――ふとした瞬間、その不安が胸をかすめる。私と過ごす時間が増えたことで、工藤光としての記憶が遠ざかり、代わりに『輿水大気』という名を、自分自身の核として取り戻しつつあるのだろう。それはきっと、私の存在がもたらした副作用のようなもの。いや、執着と言ってもいいのかもしれない……。

 けれど、それで本当に良いのだろうか。

 私は楽しい。今の大気君といる時間は、かけがえのない幸せに満ちている。だけど、彼自身――『工藤光』という人間にとっては、それは皮肉な運命のようにも思えてしまう。

 自ら命を絶ったことに対する罰。

 そんなふうに、受け止められてしまうのではないか――。

 どうしようもなく、複雑な気持ちが胸を占めていく。だからこそ、せめて――せめて大気君といる時間だけは、明るく、楽しく、心からのものにしたいと強く願った。

 それでも、やはり大気君は大気君だった。

 無理に作った私の笑顔を、あの人はすぐに見抜いて、何も言わずに隣へ寄り添ってくれる。そのさりげない温もりに、胸がじんわりと熱くなる一方で、やはり考えてしまう。彼は――『工藤光』ではなく、『輿水大気』なのだ、と。

「俺が思うには、まだ可能性はあると思いますね」

 大気君の声は、静かで落ち着いた声だった。それなのに、不思議とその言葉には力が宿っていて、自然と耳が傾く。

「正直、俺だってぶつかることはありますよ。昨日なんて矢部と大喧嘩しましたから(笑)。覚えてます? 矢部のこと。ほら、今年の夏、一回戦で登板して、すぐに崩れて東さんと交代したやつ。あいつ、いやいや投手をやってるから、ずっと拗ねてるんです。でも東さんも引退したし、そろそろ本気でやろうぜって伝えたんですよ」

 大気君は笑いながらも、視線の奥に真剣さを宿したまま語り出した。

「そしたら案の定ぶちギレましたよ。『お前に俺の気持ちが分かるか』って。……まあ、それも一理あります。もともと守備が得意で、外野手が本職だったのに、チーム事情で無理やりポジションを変えられて、それでも腹をくくって投げていた。そんな時に、俺が転校してきて――ピッチャーの座、奪っちゃったんです」

 そう言って、彼は苦笑する。けれどその目の奥には、しっかりとした痛みと、相手への理解が見えていた。

「矢部、ずっと我慢してたんでしょうね。俺が“死んだ”……つまり大気の代わりに夏を戦うっていう、大義名分もあった。でもそれが終わった今、ふと思っちゃったんでしょうね。『なんで俺は大気の代わりにピッチャーをやってるんだ?』って。そんなときに、転校生の俺が『しっかりやろうぜ』なんて言ったら……、そりゃキレますよね」

 言葉が空気に静かに溶けていく。私は無意識に問いかけていた。

「それで……どうなったの?」

 大気君は肩をすくめ、ふっと息を吐く。

「簡単ですよ。監督のところに一緒に行って、三人で話しました。最初は矢部、すごい嫌がってました。でも俺が『一緒に行こう』って言ったら、しぶしぶだけどついてきてくれて。そしたら監督も、矢部の悩みに全然気づいてなかったって謝ってました。それで、これからの方向性を一緒に考えようってなって。矢部本人がどう思ってるかは分かんないけど、正直あいつ、めちゃくちゃいい球持ってるんです。それで今後は、投手と外野手の二刀流でやることになりました。冬のトレーニングで両方磨く感じです。一年生のピッチャーも育ってきてるけど、まだまだ経験不足。矢部には予備の投手をしつつ、本来好きだった外野手の道も探ってもらおう――そんな話になりました。めでたしめでたし、ですね」

 大気君の話を聞きながら、私は「そういうものか」と、ぼんやりつぶやくように思う。その間の抜けた顔を見たのか、大気君がクスッと笑って言葉を添えた。

「ですから、千紗先輩たちだって大丈夫です。本音で話すことで、道が開けることもある。前に進むことは大切ですけど、それ以上に大切なのは――前に進む”勇気”と、それを”持ち続ける勇気”です。それさえあれば、十分なんじゃないですか?」

 その言葉に、私は小さくうなずいた。前に進む勇気。それはきっと、今の私たちにとって、もっとも尊いもの。けれど同時に、一歩踏み出すたびに、何かを置いていかざるを得ないものでもあるのだ――。

 夜空を切り裂くような音が轟き、闇のキャンバスに花火が咲いた。

「おお!」

 大気君はその音に誘われるように顔を上げ、遠くを見つめる。火の粉のように色とりどりの光が広がり、そして、はかなく消えていく。そのきらめきの儚さに、胸の奥がじんと熱くなる。大気君の横顔は、あたたかくもあり、どこか遠くへ行ってしまいそうな気配も帯びていた。

 今この瞬間、こうして大気君が隣にいてくれること。その奇跡に、私は何度でも感謝したくなる。どんなときも寄り添い、心の影にそっと灯をともしてくれる人。かけがえのない、大切な存在。

 ……けれど。どうしても、あの日見てしまった日記のことが頭をよぎる。おそらく、大気君は記憶を失ってしまう。避けられない未来だと、私は知ってしまった。似た事例も調べた。が、調べれば調べるほど、答えは冷たく明瞭だった。

 同じような事例は世界でも多く存在する。そして、例外なく、皆その『前世の記憶』を失っていた。つまり、いつか大気君は、私のことを――『いま』のすべてを、忘れてしまう。

 でも、だからこそ。私は、今という時間を、永遠よりも深く抱きしめたいと思った。

 ――何かを得るためには、何かを手放さなければならない……。

 青春とは、そんな取り引きの連続だ。夢中になるあまり、気づかぬうちに多くの可能性を切り落としているかもしれない。私が吹奏楽に、大気君が野球にすべてを懸けることで、他の道を捨てていることもあるだろう。

 けれど、だからこそ後悔したくない。この瞬間の選択を、いつかの自分が誇れるようにしたい。

 瑞希の意見に賛成すること。それは、誰かを失望させることかもしれない。

 それでも、進んだ先でしか出会えない何かがあるはずだ。

 私は、やらずに悔やむより、やって悔やみたい。迷いながらでも、私は自分の足で選びたい。

「花火、綺麗ですね……」

 ふと、彼からそんな言葉が唐突にこぼれた。夜空を裂いて咲く一瞬の光が、彼の頬を淡く染める。まるで、その横顔までもが花火の一部になったみたいで、目が離せなかった。

 ――あとどれくらい、一緒にいられるのかは分からない。けれど、限られた時間だからこそ。私は勇気を出して、この夏を……いや、この一瞬を、命いっぱい抱きしめたい。彼に出会えた思い出を、痛みではなく、確かな宝物にしたい。

「先輩もしっかり見ていますか?」

 そう言って、大気君がこちらを振り向いた。瞳が夜空の光を映し、わずかに驚きと優しさが交じる。胸の奥が、熱に弾けるように高鳴った。言葉より先に、私はそっと顔を寄せ――彼の唇に、短く、けれど確かに、キスをした。

 次の瞬間、ひときわ大きな音が夜を裂く。花火が爆ぜ、無数の光の粒が空いっぱいに散る。世界がふたりだけを包むように、儚さと熱が、胸いっぱいに広がっていった。


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