2017年8月26日(日)18時22分
2017年8月26日(日)18時22分
俺はお祭りが好きだ。
よく「キャンプの火を見ると落ち着く」って言う奴がいるけど、俺は逆だ。火を見ると、どうしても血が騒いでしまう。だから、お祭りも好きになる。
提灯の灯り、屋台の鉄板から上がる煙、焦げる匂い、そして何より、ざわめく人々の熱気。すべてが混ざり合って、胸を高鳴らせる。
だけど、こんなに混んでいるとは思わなかった。
石和温泉駅は、人で溢れかえり、波のように押し寄せる人の流れに、足元をすくわれそうになる。
千紗先輩との待ち合わせまではまだ時間がある。駅の片隅で、俺は何となく黄昏れた気分で立っていた。
「母さん、夕飯いらない」
今朝、玄関で軽く告げた。
「え? 野球部のみんなと外食?」
「ううん、お祭り行く」
もちろん、祭りで何かを食べても、腹八分目がせいぜいだろう。
竜王駅近くの大盛り定食屋で、小さい頃から鍛えられた胃袋も、今の体では少しきついかもしれない。
すると台所から母親が顔を出し、薄笑いを浮かべながら言った。
「まさか、お盆にデートした子と?」
「な、……」
「やだ、別にいいのよ。うん、そういうことなら」
母は、どこか納得したように小さく頷いた。
「初めての彼女と行ったって、いいだろ?」
「……え?」
言葉を返す前に、母の視線が俺をじっと見つめる。言葉を継ごうとしたけれど、何かためらっている。背中にじっとりと汗が滲む。
「……何?」
俺が問い返すと、母はしばらく黙って視線を泳がせた。
「あのね、光……いや、前から気になっていたんだけど」
前置きしながらも、母の瞳は真っ直ぐ俺を捉えている。
「あなた……誰?」
一瞬、息が止まった。
そんな質問をされるなんて、これっぽっちも考えていなかった。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。心臓が跳ね、言葉が喉に引っかかる。
その後、なんとかごまかしたつもりだったけれど、自分でもうまくできたのかわからない。
視線を逸らすと、母は黙って頷き、少しだけ笑った気がした。
――あとどれくらい時間が残っているんだろう。
お祭りの雑踏の中で、ふと悲しい気持ちが湧いてきた。
そのとき、ふと人混みの中に見覚えのある顔を見つけた。
――あれ……りんと雪じゃないか?
二人は談笑しながら、お祭り会場の方へ進んでいく。
まさか、りんの野郎が田中雪と?
驚いた。よくやるな、あいつ。
だが、これをはじめが見たら……。
うん、確実に発狂するな。
そんなことを考えていたら、後ろから妙に気色悪い声が聞こえた。
「だぁーれだぁ~♡」
振り返るまでもなく分かる。
ゴツゴツした手がほっぺたに触れる感触で確信した。
「……はじめ、お前面倒くさい」
「何よ~、私のこと待っていたんでしょ?」
仕方なく振り向くと、案の定はじめがニヤニヤしている。
さらにその後ろには信二や東さん、野球部の連中が揃っていた。
「はい、だりぃ」
俺が気だるそうに呟くと、なぜかはじめが嬉しそうに笑う。
やっぱりこいつ、きもい。けど、今の自分にとっては有り難かった。
「ほら、はじめ。もうやめとけって」
信二がため息混じりに制止する。
「え~、リア充をぶっ潰すのが人生の楽しみなのに~」
はじめがぶつぶつ言っていると、信二が一言で黙らせた。
「りんご飴、奢ってやる」
「え、嘘! 本当に?」
「うん。東が」
「俺かよ」
信二は宥めながら、そこから引率の先生のように、野球部連中を会場へ連れて行った。
その様子を見て、思わず笑いそうになる。信二って本当にいい奴だな。一家に一台欲しいとはこのことだ。
そんなことを考えていると、後ろから優しい声が聞こえた。
「待った?」
振り返ると、そこには先輩が立っていた。
*
夜の帳が降り、会場は次第に熱気を帯びてきた。
浴衣姿の人々が、風に揺れるたびにひらひらと動く。どこか風情を感じさせ、視線を奪われる瞬間だ。
だが、俺も千紗先輩も、気づけばまだ制服のままだ。部活が終わるや否や、そのまま来たからだ。
田中雪は甲府駅近くに住んでいるから、きっときれいに着替えて来たのだろう。そう思うだけで、少し羨ましさも混じる。
そんなことを考えていると、隣から小さな声が聞こえた。
「浴衣で来て欲しかった?」
うーん、答えに困る質問だ。
欲しかったと答えれば、がっついているように思われそうだし、逆に欲しくないと答えれば、強がっているように感じられるだろう。女の子のこういう質問は、まさに微妙な駆け引きの最前線だ。
少し考えた後、正直な気持ちを口にした。
「そもそも、二人で来られたことが何よりも嬉しいです」
千紗先輩は少し照れたように微笑み、短く「そう」とだけ言った。
その表情には嫌な感じはまったくなく、柔らかい温かさが漂っていた。
安心が胸に広がり、思わず口元が緩む。
「それより、大気君、何か私にちょうだいよ」
「唐突ですね。食べ物がいいですか?」
「ううん。記念に残る物がいい」
記念……そうか、お祭りに来られるのも、これが最後かもしれない。先輩もそのことを意識しているのだろうか。
そんなことを思いながら、二人で射的の屋台に向かった。
「へい、らっしゃい!」
威勢の良い声が飛んできて、思わず笑いそうになる。
寿司屋みたいだな、とふと思うと、周りでは子どもたちが並び、的を狙っては苦戦している。
皆が狙っているのは、あのゲーム機だ。倒せるわけがないだろうと、内心で思いながら、五百円を払い、球とおもちゃの銃を受け取った。
球は五発か。
「先輩、何が欲しいですか?」
「んー、あのアヒル」
「アヒル?」
一見、ただのアヒルの玩具に見えるが、近くの看板には、「アヒルを倒すと、スペシャルプレゼントもあるよ!」と書いてある。
なるほど、あれか。
俺は「おっけいです」と言って、銃を構えた。
特にこういうものに詳しいわけではないが、やっぱり負けたくはない。集中して狙いを定める。
第一射目。アヒルをかすめて外れる。
「はい〜お兄ちゃんざんねーん。カッコ悪い!」
屋台のお兄さんのうるさい声が耳に入る。ささやき戦術かよ。
千紗先輩は後ろで黙って見守っている。これがただの射的じゃないことを感じる。何か特別な緊張感がある。
気を取り直して、次の球を装填して構える。
だが、第一射で気づいたことがある。
この銃は微妙にシュート気味に弾が変化する。これを理解すれば、きっと狙いを定めやすいはずだ。
第二射目。アヒルの胴体に当たったが、アヒルはびくとも動かない。
まさか、こんなに固いのか?
瞬時に屋台のお兄さんに目をやると、ニヤニヤしながら「ざんねーん」と言ってきた。
こいつ、やりやがったな。
その瞬間、アヒルに当たったことを見ていた千紗先輩と周りの子どもたちから、落胆の声が漏れる。
残りはあと三発。
ここで負けたら、完全に面目が立たない。男として、負けられない戦いがここにある。
俺は深呼吸をして、気持ちを引き締める。
大丈夫、まだカウントに余裕はある。
第三射目。アヒルの頭を狙い、弾を放つ。
少しだけアヒルが揺れる。
ああ、もう少しで落ちる。
瞬間的に屋台のお兄さんを見ると、表情が変わった。こいつ、焦り出したな。
その時、千紗先輩と周りの子どもたち、通行人からも声援が上がる。
「頑張れ! 頑張れ!」
その声が、俺の背中を押す。俺はもう一度深呼吸をして、戦いに挑む。
第四射目。アヒルが揺れたが、ギリギリ踏ん張り、落ちない。粘り強いアヒルだ。
俺は思わずその強さに驚愕する。その時、屋台のお兄さんが口を開いた。
「今なら、狙う物を変えてもいいよ」
正直迷った。もっと確実に狙える物も他にある。何もプレゼントできないより、確実の方がいいのではないか。
そう一瞬迷うと、後ろから「お願い!」と先輩の声が背中を押す。周りの子どもたちや観客も一緒に応援してくれる。
俺は気づいた。
みんなの期待を背負って逃げようとしていた自分が、どれだけ愚かだったか。
「俺はもう逃げない」
心に誓い、アヒルの対角線上に立つ。瞬時に狙いを決め、最後の弾を放った。
第五射目。クロスファイヤーをアヒルに浴びせる。
そこがおそらく一番響きそうだと思ったから。すると、結果は付いてくる。
「やった!」
アヒルが見事に倒れる。周りから歓声が上がり、千紗先輩も笑顔を見せてくれた。俺は勝ったんだ。
*
「さっきの、恥ずかしかったね」
先輩は隣で笑っている。
俺はなんとなく、まだ中二病が完治していないんじゃないかと思い、心配になった。
「ですが、スペシャルプレゼント、微妙じゃないですか?」
「そうかな?」
アヒルを倒した後、お兄さんは不機嫌そうに「この中から好きな物を一つ選びな」と言いながら、スペシャルプレゼントの箱を差し出してきた。
その中身は明らかに子ども向けの玩具ばかりで、正直、少しがっかりした。
「けど、本当にそれで良かったんですか?」
「うん!」
先輩が選んだのは、ハート型のストーンがついたピンク色の指輪だった。
宝石は薄いピンク色で、確かに子どもっぽかったが、千紗先輩は嬉しそうにその指輪を手に取った。
その笑顔を見て、俺はホッとした。彼女が喜んでくれたなら、それでいいやと思う。
その後、俺たちは食べ物を買って花火会場に向かった。
「もうすぐですね」
「うん」
周りの喧騒が耳に入っていたが、俺は目の前の先輩に夢中だった。肩越しに漂う柔らかな匂い、ふと目が合った瞬間の微かな温もり――そんな些細な感覚が、心を静かに満たしていく。
だからこそ、遅れて訪れた違和感に、ようやく気づいたのかもしれない。
「あれ? 今日、何か泣かれました?」
千紗先輩は驚いたように手で目を隠す。
「え、え、何でいきなり?」
その戸惑い方だけで、もう、何があったのか察してしまう。
「何かあったんですか?」
「べ、別に……」
「本当に?」
「ほ、本当に……」
「本当に?!」
「……本当……に……」
声が小さくなる先輩の手の動きや、指先のわずかな震えまで、自然と目に入る。
俺は何も言わず、ただそっと、彼女の沈黙を包むように肩越しに寄り添った。
先輩はちらちらと俺の顔を見つめ、ようやく観念したようにぽつりぽつりと、最近あった出来事を語り始めた。
声は小さく震えていたが、肩の距離はずっと変わらない。
俺はその温もりを感じながら、ただ静かに、彼女の言葉を受け止めていた。




