2027年8月26日(木)18時12分
2027年8月26日(木)18時12分
私は必死に走っていた。
夕暮れの風が頬を叩き、肺の奥が焼けるように痛む。病院までの道は知り尽くしているはずなのに、足はもつれるようで、息が上がるたびに心臓が胸を強く打った。
皮肉なものだと思った。
かつて小説を書くために下調べをし、この病院を訪れた。映画化が決まってからはロケハンで何度も来て、資料用に写真も撮った。あのときはただの取材対象だった場所を、今こうして全力で駆け抜けることになるとは――。
しかも、それがもう一年前の出来事だなんて。信じられないほど、時は速く過ぎ去っていく。
そして何より皮肉なのは――そう、2016年12月15日。かつて姉と同じように、私は今も大切な人のために走っているということだ。
胸の奥に込み上げる焦燥感は、あの日、姉が誰かの無事を祈って必死で駆けた気持ちと重なっていた。理解したつもりではあったが、今ようやくその気持ちが私の中でしっかりと腑に落ちていった。
「渚!」
病室のドアを乱暴に開けると、そこにはベッドに腰掛け、白衣の女医と話し込んでいる渚の姿があった。
「春?」
驚いたように目を丸くする渚。女医は「まあ、お友達かしら」と柔らかく笑ったが、私の頭は真っ白で、そんな言葉は耳に入らなかった。
「渚が――交通事故にあったって!」
必死の声に、渚と女医は一瞬顔を見合わせ、次の瞬間には声を揃えて大笑いしていた。
「じゃあ小野寺さん。検査結果も異常ありませんし、予定通り明日の午後に退院しましょう」
そう言い残して、女医はカルテを閉じ、軽やかな足取りで病室を出ていった。
取り残された私は呆然とし、やっと渚に詰め寄る。
「ど、どういうこと……?」
「春。病室で走るのはダメだって、学校の先生に習わなかった?」
「そ、それよりも! 渚は大丈夫なの?」
「だから全然平気だって。交通事故っていうか……自爆事故?」
「自爆?」
渚は少し気まずそうに肩をすくめ、それから苦笑いを浮かべた。
「下校中ね。うとうとしてたら電柱に突っ込みそうになって、慌ててハンドル切ったら逆走チャリに遭遇して……さらに避けたら植木に激突。コントみたいでしょ? 『世界びっくり映像』で流したら絶対ウケるレベル」
「で、でも……!」
「ほら出た。春の”メンヘラ春ちゃん”。先生も言ってたでしょ、異常なしって。明日には退院だし、心配しすぎ」
笑いながらそう言う渚の声に、私は首を振る。
「でも……心配するよ。だって――」
喉がつまって、声が震える。息を飲むたびに胸が痛んだ。
「私の姉は……交通事故で死んだんだよ」
病室の空気が一瞬で凍りついた。
渚の瞳が揺れ、次の瞬間、深く頭を下げる。
「……それは……本当に、ごめんなさい」
小さく息を吐き、言葉を探すように視線を渚に戻す。
「ううん。私も、勝手にパニックになったんだ。でも……」
静かに肩を震わせる渚を見つめ、私は問いかける。
「本当に、ただの”うとうと”だったの?」
その瞬間、渚の肩がわずかに揺れた。沈黙が、疑念を肯定するかのように重く、病室を覆う。
「最近、元気なかったよね。映画の撮影から外れたって言っても……ただの疲れとか、そういうことじゃないでしょう?」
「だから言ったでしょ、健康に問題ないって」
渚は口元を引き結び、静かに眉を寄せる。その眼差しには、言葉以上に静かな苛立ちが漂っていた。小さく肩を揺らすだけで、内心の怒りを抑えているのが分かる。
「で、でも……その過去の渚にあったこととか……そういうことも影響しているんじゃないかと……」
私の言葉に、渚は少し息を吐き、目を細めた。言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「春……過去のことを蒸し返される方が、よっぽどしんどいんだよ。だから、やめて」
声は穏やかだが、芯がある。怒りが静かに底に潜み、揺るがない。私に直接ぶつけるのではなく、しかし確実に伝わる、そんな強さを帯びていた。
「……ごめん」
「もういい。心配してくれてありがとう。私は大丈夫。ホールの撮影には行くし。それよりも……、春こそ、どうなの?」
「え?」
その急な質問に胸が詰まった。
「モヤモヤしていた謎、解けたの?」
あれから私は、信二さんに直接会いに行き、必死で何度も頭を下げた。何度も、何度も、繰り返した。でも返ってくるのはただ、「ごめん」という短い言葉だけ。
大気さんと信二さんしか知らない秘密――私にはもう、どうすることもできなかった。
「その顔……やっぱり」
「……ごめん。もう、手がかりがないの」
「はぁ……」
渚は深くため息をついた。息の震えがわずかに見え、窓の外の夕陽がその影を淡く伸ばす。
「私だってさ、この映画は自分のいじめの経験と重なるから、春の小説を映画にしたいって思ったんだよ? でもさ、原作者が撮影の終盤になってもまだモヤモヤしているなんて……正直、見てて辛いんだ」
「でも……ほんとに、もう分からないの……」
私の声は小さく、震えている。胸の奥がぎゅっと詰まるようだった。
渚は視線を窓の外に移した。夕陽に照らされた横顔は柔らかく陰影を落とし、静かな沈黙が二人の間にゆっくりと流れる。
「……もう”時間”がないか」
ぽつりと零れたその声に、私はハッと顔を上げた。
「春。どうせ信二さんにしか頼まなかったんでしょ? 大気さんがどうして生き返ったのか、神様と何を約束したのか」
「う、うん……。分かってるのは一つだけ。『誰かの身体に入って生き返った者は、時間が経つにつれ記憶を失っていく』ってこと。大気さんの日記にも書いてあった。でも、他の約束は、もう……」
言い終えると、渚はゆっくりと鞄から厚みのある封筒を取り出し、私に差し出した。紙の質感と重量が、これから開く世界の重さを静かに伝えてくる。
「春、自分で忘れてない? 『17の夏』を書くときにインタビューした人のこと」
「え……?」
「『俺は夢の中で映画を見るみたいに、第二甲府での出来事を見ていた』って言った人。その人なら、大気さんと信二さんしか知らないはずのノートの中身を実際に見てるはずだよ」
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。胸が熱く締め付けられ、心臓が一気に跳ね上がる。
「まさか……」
「うん」
渚は真っ直ぐに私を見つめる。その目に揺るぎはなく、静かな決意が宿っていた。
「会って来なよ。工藤光さんに」




