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2017年8月22日(火)17時58分

 2017年8月22日(火)17時58分


「瑞希、待って……! お願い、止まって!」

 南校舎の裏手、家庭科室の奥に、小さな雑木林が広がっている。

 夕暮れが差し込み、木々の間から朱色の光が揺れていた。

 瑞希はその林へと駆けこみ、逃げるように枝葉をかき分けると、やがて足を止めた。

 肩で荒い息をしている背中に、私も少し遅れて追いつく。

「……瑞希」

 呼びかけた声に、彼女の背中が小さく震えた。

「あはは……ごめんね」

 笑おうとした気配はあったけれど、声は掠れて震えていた。

 そんな彼女に、私はそっと近づきながらも、顔を覗き込むことはしなかった。ただ、彼女の声が落ち着くのを待つように、静かに耳を澄ませる。

「ううん、謝らなくていいよ」

 自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。きっと瑞希が想像しているよりも、穏やかに響いたはずだ。

 それでも、その穏やかさが瑞希の胸の奥を震わせていることを、私は確かに感じていた。

「私……やっちゃったよね」

「それは……うん……そうかもしれないね」

「……なら、ここに来ちゃって良かったの?」

「えっ……」

 瑞希が振り向いた。その瞳には、涙の粒が浮かんでいた。

 彼女がこんなふうに感情をむき出しにするのを、私は初めて見る。

「千紗はさ……みんなの方にいた方がいいんだよ。副部長だし、みんなから認められてるし……」

「……そうかもしれないね。でも――」

 私は一度息を吸い込み、夕暮れの光を受けるその瞳をまっすぐに見つめ返した。

「瑞希は、この部の部長だから。あなたがいなきゃ、だめだよ」

 その言葉に、瑞希は目を見開いた。驚きと戸惑いの混じる表情。

 けれど、それは確かに彼女の心に届いたように見えた。

「……ごめんね、瑞希。あの場で、一瞬迷っちゃった。でも――私は、あなたが正しいと思っている」

 息をのみ、瑞希の肩がわずかに揺れる。震えが伝わってくるようで、私の胸も強く締めつけられた。

「そ、そうかな……。でもみんなの言うことも正しいと思う。それはよく分かる……」

 握りしめられた瑞希の拳。爪が手のひらに食い込むほどの力が、彼女の迷いを物語っていた。

「うん。私もそう思う。受験もそうだし、そもそも部活に力を入れない人だっているし、みんながみんな、瑞希のようにはなれない」

「なら……」

 瑞希が問いかける声は、風にかき消されそうに小さい。

「けどね、瑞希。もちろん時間もない。渋谷の演奏会のように、目指すレベルも高いかもしれない。でもさ、ベストを尽くせるのなら、やるしかない。ごちゃごちゃできるかどうか、難しいことを考えてもしょうがないよね……。何よりも、私はもっと苦しい状況でそれを乗り越えてきた人を知っているし、彼と同じように頑張っている瑞希を応援したい。ただ、それだけだよ……特に……そうできなかった、過去の自分の戒めにも」

 口にした瞬間、胸の奥に沈殿していた苦い記憶が蘇り、喉がかすかに震えた。

「戒め?」

 瑞希の声は涙に濡れ、木漏れ日の中でその瞳がきらめいていた。

「うん。中学時代の同級生でね、部長がいた。誰よりもストイックで、でもあまりにも求めるものが高く、最終的に彼女は孤立してしまった。その時、私は逃げた。それは、彼女からでもなく、ただ単にその目の前の問題から……」

 自分の唇が乾いていくのを感じながら、私は言葉をつなぐ。

「問題?」

「うん……。私は中学も副部長だったし、何よりも茜に注意されて、嫌な想いをする部員の気持も理解できた……。でも、そうじゃない。それでもいい演奏をやろうと、嫌われ役をしていた、茜の気持もどこか、分かっていた。だからさ、ようやくさっき、瑞希を見て気が付いたんだけど……当時の私に求められていた、解決すべき問題。それは、その部員と茜との橋渡しを、どちらの気持も分かる私がすべき。本当にそれだけだったと思う」

 吐き出すように言い切ったとき、瑞希の張りつめた表情がふっと緩んだ。

「だからさ、瑞希。あなたを私は応援します。って偉そうなこと言っても、何もできていないから、これからなんだけどね。頼りない副部長でごめんね、ふふふ」

 わざと力の抜けた調子で笑うと、瑞希はくすりと小さく吹き出した。だがそのすぐあと、瞳はまた真剣さを取り戻す。

「……やっぱり、千紗は千紗だね。……“強い”」

「“強い”……?」

「うん。中学のころから変わらない」

 その意外な言葉に、私は思わず瞬きをした。

 瑞希は、遠い記憶をたぐるように、ゆっくりと語り始める。

「実はね、私、中学では福岡の高校から推薦が決まっていたんだ。でも、その条件は全国大会への出場。だから三年の時は必死で……幼馴染が副部長だったから、『絶対に全国へ行こう』って二人で約束した。でも気づけば、私は自分のペースで引っ張るばかりで、周りの声を無視していた。焦って、視野が狭くなってたんだと思う」

 瑞希は握りしめた手を見つめ、かすかに息を吐いた。夕暮れの光がその横顔を照らし、陰影を濃くする。

「でも結局、全国には行けなかった。推薦もなくなって、全部が消えた。仲間からは冷たい目を向けられ、幼馴染との関係も壊れて……最後に彼女に言われた言葉は、今でも胸に刺さってる。『あんた、最低だよ』って」

 彼女の声は小さく震えていた。林を渡る風が葉を鳴らし、その音にさえ切なさが滲む。

「その瞬間、自分がどれほど愚かだったのか、痛いほどわかった。だからもう、二度と繰り返したくなかったんだ。誰にも迷惑をかけず、自分のペースで、ただ演奏に集中できる場所……それが、第二甲府だった」

 そう言って顔を上げた瑞希の瞳には、悔しさと同時にどこか安堵の色も宿っていた。

「土橋先生からも、吹部に入らなくてもいい、音大を目指して練習していけばいいって言われてた。でも、一応見学だけしてみろって勧められて……そこで、千紗がいたの」

「え……」

 咄嗟に声が漏れる。瑞希はまっすぐに私を見つめ、微笑んだ。

「本当よ。中学の西関東大会でね、千紗のソロが強く印象に残っていた。まだ荒削りで適当に吹いていたけど、音の響きや音色に惹かれたの。だから、すぐに気づいたんだ。――『あ、この子だ』って。……この子と一緒なら、また、もしかしたら、もっと上を目指せるかもしれないって」

 胸の奥が熱くなり、私は思わず視線を落とした。知らなかった過去を告げられるたび、心臓が小さく跳ねる。

「でもね、私、本当に不器用で……。あの中学の出来事があってから、どう千紗と接していいか分からなかった。だから――強引にソロコンの伴奏を頼んだの」

「え? そうだったの? 不器用すぎない?」

 驚く私に、瑞希がクスっと笑った。

「あはは……そうかもね。ごめん。でも、あの練習は本当に楽しかった。あんなふうに真剣に向き合ったのは初めてで……面白かったんだよ。千紗って意外と強引で、自分の意見を曲げない。でもそれが、不思議と心地よかった」

「……こっちはピアノで必死だったのに」

「ふふ……だから、ごめんね。でも、そのあと気づいてしまったんだ。情熱を持って頑張ろうとしても、結果が裏切ることがあるって。二年生の夏のコンクールのときも、千紗が彼のことで落ち込んでいたときも……私は何もできなかった。支えたいと思っても、手を伸ばせない自分が悔しくて。気づいたら――努力することそのものが、怖くなってた」

 瑞希の声はかすかに震え、握りしめた指先が白くなっている。

 長い間、胸の奥で絡まっていた想いが、ようやく言葉に姿を変えはじめていた。

「だから……今年の夏のコンクールも、どこか諦めてた。まあ、こんなものよね……と。でも――やっぱり諦められなかった。プロの演奏も、甲子園で吹いた千紗のソロも、私の心にもう一度火をつけたんだ。……まだ、まだ終わりたくないって」

 そう言って顔を上げた瑞希の瞳には、涙の雫が残りながらも、確かに光が宿っていた。

「みんなの気持ちは分かる。受験だって大事だし、上の大会に出る達成感だって理解できる。でも――高校三年生って、もう二度と来ないんだ。今のメンバーでできるのも最後なんだから……私はやっぱり前を向いて、全力で頑張りたい」

 その言葉が零れるたびに、瑞希の背筋は少しずつ伸びていった。怯えて縮こまっていた肩が、ようやく自分の重さを受け止めるように開かれていく。そこに立っていたのは、迷いに沈んでいた少女ではなく、未来を見据える「部長」の顔だった。

「だから千紗……お願い」

 瑞希はそう言うと、かすかに唇を噛み、震える両手を胸の前でぎゅっと握りしめながら、深く頭を下げた。

「私の……わがままにつきあって欲しい」

 その必死な姿に、胸が締めつけられる。気づけば私は、言葉よりも先に、そっと彼女を抱きしめていた。瑞希の体はまだ小刻みに震えていたけれど、その鼓動が私の胸を通して伝わってきて、不思議と私の方が安心していく。

「どうなるかは分からない。最悪、退部者も出て、西関東大会どころじゃなくなるかもしれない。でも――」

「うん……」

「一緒に心中するつもりで、足掻こう。必死に」

「……うん」

 瑞希の返事は小さいけれど、そこには確かな熱があった。震えの奥に潜んでいた火種が、いま小さく息を吹き返したのを、私は確かに感じた。

「ふふ……共犯者だね」

「ふふふ……よろしくね、相棒」

 顔を見合わせた瞬間、ふたりの頬に自然と笑みが広がった。その笑みは決意の証であり、これからの困難を分かち合う約束のようでもあった。

 気がつけば、夕暮れの木立の隙間から射し込む橙色の光が、二人をやわらかく照らしていた。その光は、さっきまで漂っていた重苦しい空気を消し去り、未来へ進むふたりを祝福しているかのように――まるで永遠の約束を刻む証のように、優しく包み込んでいた。


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