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2017年8月22日(火)11時52分

 2017年8月22日(火)11時52分


 二学期二日目。

 夏の残り香をほんのりとまといながら、私たちは最後の高校生の夏休みを終え、再び「教室」という名の現実に押し戻された。

 受験まで、あと数か月。鉛のように重い空気が、机の間を静かに漂っている。部活動を引退し、残りの高校生活でできることが受験勉強しかなくなった分、その空気はさらにずしりと重くなった。

 それでも、誰かが小さな冗談を口にすれば、ささやかな笑いが生まれる。皆、それぞれの不安をやり過ごす術を覚えはじめ、クラスの空気がふっと軽くなる瞬間は、何よりの救いだった。

 そういえば最近、ふとした瞬間に視線を感じることが増えた。

 教室では、また信二と隣の席になった。

 事情を知っている周囲は、それとなく気を遣ってくれている。けれど信二は変わらず自然体。無理に話しかけるわけでもなく、距離を置くわけでもない。ただ、以前と同じように隣に座り、ノートを開き、そして笑う。

 信二は本当に、いい人すぎる。

 心から、彼には幸せになってほしい――そう、改めて強く思った。

 そして、休み時間。

 机に伏せかけていた私たちのもとに、ぞろぞろとクラスの男子たちが押し寄せてきた。

 松田君、須賀君、向居君、川場君、そしてその仲間たち。

 まるでコントのはじまりのような、にぎやかな登場。

「で、さ。君ら、どうすんの?」

 松田君がわざとらしく肩を揺らしながら言う。

「……何が?」

 瑠璃が怪訝そうに問い返すと、須賀君が両手を広げ、大げさなジェスチャーを交えて叫んだ。

「花火だよ! 青春だよ! そして今週末は、石和の花火大会だよ、ワッショイワッショイ!」

 ああ、そういえば――。

 頭の隅に追いやられていた記憶が、不意に浮かび上がる。

 それにしても、彼らは本当に楽しそうだ。

 学園祭に続き、夏休みは全員で某国会議員の学生秘書を務め、外交問題レベルの何かを起こしかけたらしい。それでも、彼らは不屈の精神で毎日を楽しく過ごしている。見ているこちらが、思わず「ほんのちょっとだけ」羨ましくなるほどだ。

「花火大会は、特に行く予定はないかな」

 瑠璃が肩をすくめると、元ボートレース部の川場君は目を丸くした。

「ええ!? 山見さんがそれは意外だなぁ……。そんなんじゃ、アオハルを損しちゃうぞ♡」

 その彼の反応を全員で無視し、今度は元バトミントン部の向居君が信二の方へ身を乗り出す。

「で、信二は?」

「俺は野球部の連中と行くよ」

 その答えに、松田君が何かを待っていたかのように声を張る。

「そーかそーか。お前には大切なベースボールファミリーがいるもんなぁ! いや〜、もし暇なら俺たちと回ろうぜって誘おうと思ってたのに〜! 甲子園出場した選手がいれば、ナンパに使えるかなと……」

「あはは。そうなんか、すまんな」

 信二があっさりと笑って返すと、男子たちは「やっぱ、同志中田にナンパ作戦でも考えてもらうか〜」と、満足そうに笑いながら去っていった。

 教室に静けさが戻り、私はふと口を開いた。

「今週末、そういえば、石和の花火大会だったね……」

 ぽつりと呟くと、瑠璃が呆れたように眉を上げる。

「マジで? 千紗ってそういうとこ、ほんと適当だよね」

「ごめん、ごめん、完全に忘れていた」

 私が苦笑すると、彼女もつられて笑った。

「私はバスケ部の古木ちゃんたちと行こうかな〜。で、千紗はどうするの?」

 問いかけられた瞬間、視線が自然と隣に向いた。

 信二はそれに気づいて、軽く肩をすくめ、にっこり笑った。

「おい、こっち見るなって。……千紗、せっかくだし彼氏を誘えば? なかなかいい思い出になると思うぜ?」

 その言葉に、瑠璃が私を見て、力強く頷く。

 私はその顔を見つめながら、心の中で何度も「ありがとう」と繰り返していた。

 ――やっぱり、信二って、いい人だ。





 その日の午後、朱雀会館には、演奏以上に深い静けさが満ちていた。

 私たちは再び、曲の解釈やイメージのすり合わせに取り組んでいた。

 西関東大会を目前に控えたこの時期に、それが最優先の課題かと問われれば、きっと違う。

 けれど、あの日、渋谷で聴いた音が、瑞希と私の中の何かを明確に変えてしまった。

 ただ譜面を正しくなぞるだけでは足りない。音には、言葉では説明しきれない情感や意志が宿る。それを知ってしまった今、私たちは目を逸らすことができなかった。

 けれど――。

「あははは、花火行くよね」

「てーか、もう受験しんどい」

 どこかに微かな綻びがあった。

 特に三年生の空気には、集中しきれない揺らぎのようなものが漂っていた。

 机に突っ伏してため息をつく者、単語帳をチラチラ覗く者、視線を宙に泳がせる者。

 それぞれが無意識に不安や疲れを紛らわせようとしているのがわかる。

 それを察したのだろう。顧問の土橋は軽くため息をつき、「一度、三年生だけで話し合ってきなさい」とだけ言って、私たちを朱雀会館二階、普段は合宿場として使われる和室へ送り出した。

 その場の雰囲気は、教室以上に重く、畳の香りとひんやりとした空気が、妙に居心地の悪さを増幅させる。

 互いに視線を交わすこともなく、ただ静かに座る。畳のきしむ音さえ、耳に突き刺さるようだった。

 でも、やはり――というか、静寂を破ったのは瑞希の声だった。

「……みんな、正直、たるんでると思う」

 いつもと変わらぬ、冷静で誠実な声色。けれど、その裏には焦りとも苛立ちともつかぬ感情が滲んでいた。

「県大会の後、甲子園もあり、その上で今となっている。もちろん、上に行けたことは悲願であり、演奏自体もよくなってきている……。けど、さらに良くしようという想いというか、姿勢が感じにくい」

 いつもなら、皆が瑞希の言うことに納得して従ってきた。

 何せ誰よりも正しく、努力を怠らず、楽器も一番上手。

 その声には、自然と耳を傾け、胸に刻む重みがあった。

 しかし今日は、どこか違う。

 言葉が響くたび、和室の空気がぎゅっと張り詰める。

 窓から差し込む午後の光の中、畳の香りや微かな椅子の軋みまで、いつもより鮮明に感じられた。

 部員たちは視線を床に落とし、互いにそっと目を合わせながら、言葉の余韻に沈んでいる。まるで空気そのものが、瑞希の声を測るかのように張りつめ、微かに震えていた。

「ちょっといい?」

 一人の部員が、躊躇しながらも手を挙げて、口を開く。

 声には緊張が混じりつつも、どこか決意めいた響きがあった。

「もちろんさ……、そういう空気感は、なんとなく分かってたし、瑞希たちが必死に変えようとしてくれているのも分かる……。けど、うーん……これ以上、何がいるんだろう?」

 しんと静まり返った和室に、その言葉が静かに、でも鋭く響いた。

 案外その意見に頷く部員も多く、ちらほらと同意の視線が見受けられた。

「私たち、もちろん今まで努力してきたし、頑張ってきたよ。けど……もういいんじゃない? 瑞希は音大とか目指すかもしれないけど、ここにいる大半は国公立とか私立の受験を控えてるし。練習も大事だけど、それ以上に受験勉強を優先したい。だって、これからの人生がかかってるもん」

 静寂が、和室の畳を這うように隅々まで染み渡った。

 その正しさが、残酷なほどにまっすぐで、私の胸を鋭く貫いた。

 反論できる余地がなかった。

 だけど――。

「だったらさ……なんで県大会の後に引退しなかったの? もちろん、勉強が大切なことも分かってるし、みんなが難しい大学を受けることも知っているよ。でもさ、今、部活動で、しかも県の代表として西関東大会に出るんだったら……真剣に、できる限り最高の演奏を目指すのが普通じゃないの? 土橋先生が言ってた通り、記念出場みたいな気持ちなら、他の学校にも失礼だと思う」

 瑞希の言葉には、いつもの冷静さではなく、鋭さと熱が混じっていた。

 正論なのは分かる。けれど、その強さに和室の空気はさらにずしりと重くなる。

 部員たちは息を呑み、時折ちらりと互いの顔を確認する。

 瑞希の言葉が、普段のクールな印象とのギャップで、余計に胸に刺さった。

 それでも――別の部員がポツリと呟いた。

「それは、瑞希が誰よりも部活に思い入れがあるからでしょ。みんながみんな、そうじゃないし……」

 その一言で、和室の空気が一瞬凍った。

 発言した本人もすぐに、その重さを理解したらしい。

「しまった」と目に浮かべた後悔の色は、どうしても拭えなかった。

『みんながみんな、部活に思い入れがあるわけじゃない』

 それは、理解している。皆も、きっと理解している。

 特に、強豪や名門と呼ばれない部活動ほど、部員の温度差は顕著だ。

 半端な結果を残しつつも、強豪と呼ばれない部活では、こうした感情のずれが日常茶飯事のように起きる。

 それでも、暗黙の了解として触れずにいたからこそ、部員たちは互いを信頼し、努力し、部活動を続けてこられた。

 その根幹を否定する――正しいとしても、口にすべきでない言葉だった。

 その瞬間、瑞希は唇をわずかに動かした。

 何か言おうとしているのだろう。

 けれど……、最終的に言葉は出なかった。

 黙ったまま、静かに立ち上がり、そして、何も言わずに、和室を後にした。

 背中を見送る時間が、やけに長く感じられた。

 瑞希が出ていくと、「なに感情的になっちゃって」と小さく呟く者や、思わず目に涙を浮かべる者もいた。

 本来副部長の私が、ここで残る彼女たちのフォローをすべきだろう。

 それでも――。

 渋谷で見た、あの瑞希の真剣な表情が、ふいに頭をよぎった。

 その瞬間、思わず体が立ち上がり、まるで意志とは関係なく足が動き出していた。

 あの背中を、追わずにはいられなかった。

 記憶の中で、そう……。中学三年の茜の後ろ姿が、鮮明にフラッシュバックしていたからだ。


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