2017年8月20日(日)10時52分
2017年8月20日(日)10時52分
その日、私たちは甲府駅で落ち合い、特急あずさに揺られて新宿を目指していた。
窓の外を流れていく夏の山々は、どこか名残惜しげに濃い緑をまとい、雲の切れ間から差す光にきらめいている。列車の窓ガラスに重なるように映った私たちの姿は、まだどこかぎこちなく、けれど柔らかな陰影に包まれていた。
「お茶、飲む?」
隣に座る瑞希が、手にしたペットボトルを差し出してくる。
今日の彼女は私服で、淡い色のワンピース。部活で見せる鋭さや張りつめた空気はなく、肩の力を抜いたように自然で――それが逆に新鮮だった。普段は決して見られない、少し柔らかく、素顔の瑞希がそこにいた。
思えば、こうして二人きりで出かけるのは初めてだった。
いつもは瑠璃や雪ちゃんと一緒で、瑞希とは学校や部活という枠の中でしか関わってこなかった。仲が悪いわけではない。むしろ信頼している。だけど、その関係を「友達」と呼ぶのはしっくりこない。――「戦友」や「同じ舞台に立つ人」。そんな関係が、私達の適切な表現であった。
「ありがとう……ございます」
ついよそよそしく敬語を使ってしまい、差し出されたお茶を受け取る。瑞希は一瞬驚いたように目を瞬かせ、それからくすりと笑った。
「なに、それ」
少し困ったように眉を下げたその笑顔は、意外なほどやわらかくて。私は胸の奥がふっと温かくなるのを感じながら、自然と微笑みを返していた。
――その瞬間、不意に数年前の記憶が胸の奥から立ち上がった。
山梨では、県内の公立高校で「吹奏楽推薦」などという制度は、ほとんど存在していなかった。強豪県では当たり前のようにあるシステムも、この土地ではまだ遠い話。けれど、例外はある。熱心な顧問が「この子を迎えたい」と強く思えば、非公式にスカウトをかける――そんな暗黙の慣習が、ごくわずかに残っていた。
私がトランペットを始めたのは中学に入ってからだ。ピアノを習っていた延長で、ただなんとなく音楽に惹かれ、ただなんとなく金色の管を手に取り、そしてただなんとなく三年間を過ごした。幸運にも、西関東大会まで進むことができたのは、偶然の積み重ねと、何より部長としての茜の采配があったからだ。
本番のソロも、深く考えることなく吹き切ってしまった。会場の拍手に胸は熱くなった。けれど、今振り返れば、その熱は自分自身から立ち上がったものではなく、どこか他人事のように冷めた浅さが否めなかった。
――だからこそ、あの日。瑞希たちの演奏を初めて耳にした瞬間は、まさに雷に打たれるような「衝撃」だった。
同じ山梨代表として臨んだステージ。
ホールに響いた瑞希のクラリネットソロは、今も記憶の中に生々しく残っている。
「和田……やっぱすごい……」
隣で茜が、ぽつりと呟いた。あの時の茜の声色すら、まだ耳に残っている。
瑞希の澄みきった音色。迷いのない息遣い。中学生とは思えぬ確かな技術と、聴衆の心をまっすぐ掴みにいく表現力。
まるで、その音だけがホールの空気から切り離され、異なる次元に存在しているようだった。ああ、私の「なんとなく」は、この人の「必然」に決して追いつけない――そんな悔しさすら感じていた。
しかし、結果は皮肉だった。
私たちの学校は銅賞。そして、瑞希たちは全国へは進めない、いわゆる「ダメ金」。その瞬間、会場全体に小さなどよめきが走り、誰もが審査員の判定を呑み込めずにいた。私自身も、唖然とするしかなかった。
そしてその西関東大会で、客席の片隅にいたひとりの男が、私と瑞希のソロを食い入るように見つめていた。その時はただ「前のめりに聴く人がいるな」程度に思っただけだったが、後になってあの視線の意味を知ることになる。
部活動を引退した後の私は、地元の高校へ進学するつもりで、漠然と受験勉強に取り組んでいた。目的があったわけではない。むしろ、もう高校では部活すらやめたかった。茜の件で散々心をすり減らし、吹奏楽から離れたい、もう全部を忘れたいとさえ思っていた。
しかし――そんなある日。
第二甲府、吹奏楽部顧問の土橋が、中学校に現れた。わざわざ、私一人のために。
「西関東で聞いた。君の音が欲しい」
その言葉は、今でもはっきりと覚えている。
目を逸らさず、まっすぐにこちらを見つめる眼差し。押しつけがましくないのに、どうしようもなく熱い声。音楽にすべてを賭けてきた人間だけが持つ真剣さだった。
胸の奥がざわめいた。
やめたいのに。逃げたいのに。
けれど、あの言葉はまるで心の奥底に残っていた火種に息を吹きかけるように、確かに響いてしまった。認められた喜びと、再び足を踏み入れる恐れ。その矛盾した感情が入り混じって、しばらくは自分の心すら持て余した。
それでも、気づけば私は地元ではなく、第二甲府を志望していた。
あの瞬間の決断こそが、運命の分かれ道だったのかもしれない。
そして入学前、第二甲府の部活動体験に参加したとき、さらにサプライズがあった。それは瑞希がそこにいたことだった。
彼女は福岡の名門校へ進学する、という噂が広まっていた。半ば伝説のように語られていた名前が、目の前にある現実としてそこにあった。
それだけでも十分衝撃だったが、実際に耳にした演奏は、それ以上だった。
音が、さらに違う。
響きが、さらに違う。
あの西関東大会の時以上に、呼吸のひとつひとつに、揺るぎない意志と感性が宿っていた。まるで「音楽そのもの」が彼女を通して生まれているようで、聞いているこちらが試されている気さえした。
その瞬間、私は思った。
――この人に、勝てる日は来るのだろうか、と。
けれど入学後、そんな彼女は、同級生の中でどこか孤高だった。圧倒的な実力と、近づきがたいストイックさ。演奏だけでなく、その存在そのものが周囲とのあいだに目に見えない壁をつくっていた。そんな彼女を、憧れと畏れが入り混じるなかで、私はただ遠くから見ていた。
そして季節がめぐり、一年の冬が近づいたある日。
瑞希が、突然私に声をかけてきた。
「私、クラリネットで一人のソロコンテストに出たいんだけど。ピアノの伴奏、お願いしていい?」
「……はい?」
思わず、なぜ私に? という言葉が喉元までこみあげた。
瑞希なら、誰にだって頼めるはずだ。彼女の周囲には優れた先輩も、頼れる人もいる。それなのに――なぜ、私?
「お願い」
その無駄のない一言に、私は抗えなかった。いや、抗う理由を見つけられなかった。だから私は、ただ小さく頷いた。
それが、私たちの関係の始まりだった。
伴奏を通して、私は瑞希の演奏に何度も触れた。
触れるたびに、胸の奥で小さな熱が生まれ、それが静かに広がっていった。気づけば夜遅くまでピアノの前に座り、何度も繰り返しては指の動きを確かめていた。楽譜の細部まで食い込むように見直し、ほんの僅かな呼吸の揺らぎにさえ反応できるように。
――ただただ、瑞希の音楽に、置いていかれたくなかった。
その影響か、自然とトランペットにも力が入っていった。
もちろん、これまでも日々欠かさず練習はしていた。だが、どこか義務の延長にすぎず、ただ積み重ねているだけの時間だったのかもしれない。けれど瑞希と向き合ううちに、音の一つひとつに意味を求め、音楽そのものと対話するようになった。
瑞希の音には、言葉にできない「真」がある。その強さと、孤独なまでの情熱が、音そのものに宿っている。その音に触れる度に、自然と私の中の炎も勢いを増していった。
――私も、こうなりたい。
心の底から、そう思った。
だからこそ、ある意味で瑞希は私の恩人なのかもしれない。
吹奏楽を「続ける理由」ではなく、「のめり込む理由」を与えてくれた人。情熱の質そのものを変えてしまった人。そして、今も私を走らせ続けている人。
「……そろそろじゃな?」
瑞希の声に、はっと我に返る。
視線を窓の外へ移すと、夏の光に滲む新宿のビル群が、陽炎のように揺れながら目の前に迫っていた。
*
渋谷、オーチャードホール。
その圧倒的な姿を前に、私は立ち尽くしていた。
荘厳な天井、深く沈む赤い絨毯、そして圧倒的な静けさ。ここに立つだけで、日常が遠く、軽く感じられる。まるで別世界の入り口に立たされたようだった。
「……天井、高いね」
思わず漏らした声に、隣の瑞希は小さく頷いた。
しかしその瞳は、すでに舞台の先を貫いている。私には理解できないほどの集中と覚悟を宿していた。
演奏が始まる。瞬間、ホールのすべてが音に満たされた。
ジェイムズ・バーンズ作曲。
『交響曲第三番』。
カットなし。
今までもフル演奏はYouTubeで聴いたことはある。それでも生の音は、想像をはるかに超えていた。
音は生きていた。
色を帯び、温度を持ち、空気を揺らす。
囁くような弱音、怒涛の強奏――すべての音に意味が宿り、ひとつたりとも余分なものはない。息遣い、指のわずかな動きさえ、物語を語る声だった。
特に第三楽章。
静かで深く、濃密な光のように音が流れる。
私は完全に飲み込まれた。
観客の目に光るもの、ひそめられた呼吸が伝える感情の色。
この音楽は、確かに人の魂を揺さぶっていた。
そして、第四楽章――華やかで、希望に満ちていた。
だが、その明るさは単純な歓喜ではなく、胸にひっそりとした痛みを伴っていた。
「やさしい哀しみ」――失ったものを抱えながらも、前へ進もうとする決意。
残された者が背負う、静かな”強さ”――それが、音の一つひとつに滲み出ていた。
その瞬間、心の奥で気づく。
私たちの第四楽章は――ただ勢いで押し切っただけではなかったか。
第三楽章から第四楽章への橋渡しは、私たちの手から静かに零れ落ちていた。
楽譜通りに音を並べることと、音楽の本質を表現すること――その距離は、想像以上に遠く、私たちはまだ……そう、”まだまだ”その海の浅瀬に立っているにすぎなかった。
そして終演後、私たちはホールの外へ出た。
夜の渋谷は、テレビで見るように喧騒に満ちていた。
けれど今の私には、そのざわめきは遠くの世界の音でしかなく、胸の奥で渦巻くざわめきに比べれば、まるで届かない声のようだった。
「……ねえ、千紗」
瑞希の声は低く、かすれていた。夜風に混ざり、微かに震えている。
「私たち……あれを、どうすればいいんだろう」
答えに迷い、私はただ肩をすくめることしかできなかった。
「どうって……」
「あの音……あんな景色、どうやったら私たちで表現できるんだろう。まだ、私たちは何もできていなかったのかもしれない……」
街灯に照らされた瑞希の顔は、普段の彼女とはまるで別人のようだった。
瞳には焦燥と絶望が、ひとつの塊となって宿っている。
「練習……もっとすれば、届くかな……」
私の声は、ほんのかすかな囁きだった。
それに対して、瑞希は苦い笑みを浮かべ、首を横に振る。
「あれは……勢いで『やれる』なんて思えるレベルじゃない。あの音には、技術や練習だけじゃ追いつけない、別の次元の何かがある……」
「そ、そうかな……」
「うん……。バーンズ自身、娘を亡くした経験を、この曲に深く反映させているといわれている。でも、彼が見ていた景色は、私たちにはまだ見えていない――いや、まったく見えていないし、そもそも私たちは、理解しているつもりになっていただけなのかもしれない……。それに――もし私たちが、彼が表現したかった何かを表現できたとしても――それは、本当に私たちが求めていた答えなのだろうか……」
私は言葉を失い、無言で深く頷くしかなかった。
胸の奥がひりつくように熱く、目の前には手の届かない理想が、静かに広がっている。
「ねえ、千紗……」
瑞希の声が、ぽつりと独白のように零れた。
「私たちに、表現者になる時間は……まだ残っているのかな……」
問いかけではなく、自分自身に投げかける、重く静かな呟きだった。それに対して、私は答えられず、唇をかみしめることしかできなかった。
その後、駅へ向かう人混みの中、瑞希はそれ以上、何も言わなかった。感動の余韻に浸るのではなく、むしろ自分たちの演奏に足りなかったものを痛切に受け止め、残された西関東大会までの時間を、重く数えているようだった。
私はただ、そんな彼女の横顔を横目に、渋谷の夜を歩き続けた。




