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2016年10月28日(金)12時22分

 2016年10月28日(金)12時22分


「はぁ……」

 昼休みの教室。ため息をついた瞬間、それを餌にするハイエナたちがすかさず食いついた。

「おいおい、どうした大気?」

「プロテイン切れか? 禁断症状?」

 声の主は、野球部の同級生ふたり。レフトのりんと、ライトのはじめ。

 丸坊主のシルエットがまるでコピーみたいにそっくりで、ぱっと見は双子。けれど実際は赤の他人。そこがむしろ妙に気持ち悪い。

 りんはクール寄りの皮肉屋、はじめは……まあ、バカ。でも、みんなに愛されるタイプの。

「……はあ」

 俺がもう一度ため息をつくと、今度は目の前で二人が芝居じみた反応を見せる。

「なあ、こいつ俺たちの顔見ながらため息ついたぞ」

「美男子二人を拝みながらランチタイムとか、むしろ贅沢じゃね?」

「いや、違うんだよ。別にお前らが嫌とかじゃなくて……」

「なに言ってんだよ。俺たち親友だろ。な、はじめ?」

「当然。この夏、一緒に戦った仲じゃねーか」

「……戦ったって言っても、ベンチ入りしてたのは俺だけだけどな」

「細かいこと言うなよ、大気。で? なんだよ、ため息の原因は?」

「……そのさ、今日、千紗先輩とパン屋に行くことになってて」

 言った瞬間、二人の目が見開かれる。

「あーーー、はいはいはい、なるほどね?」

「うんうん、完全に理解。これはもう恋の病、確定案件」

 顔を見合わせてから、ふたりして意味深にうなずき、同時に俺の肩に腕を回してきた。

「やれやれ……はじめよ。この男、自分が学校のヒロイン・橘千紗先輩と“知り合い”だなんて、壮大な勘違いしてるらしいぞ」

「哀れだな。きっとストレートの制球が安定しないせいで、脳までブレ始めたんだ……恋占い担当の向居先輩に見てもらうか? バド部の」

「いやいや! 本当に知り合いなんだって! 毎朝、自主練してるときに会ってるし!」

 俺がムキになって言い返した瞬間、りんとはじめは無言でガタリと椅子を引いて立ち上がり、次の瞬間には、左右から俺の学ランの襟をがしっと掴んできた。

「てめぇぇぇぇ!! 学校の世界遺産こと、橘先輩に――なにしとんじゃああああッ!!」

「マジで許されへんわボケカス!! 消えろ!! この地上から消えてなくなれッ!!」

 叫びながら揺さぶってくる二人に、俺は首がもげそうになりながらも反論の余地を探していた……が、そんな修羅場に、冷めた声が割って入った。

「……あんたら、なにやってんの?」

 呆れたように腕を組んで立っていたのは、クラスメイトの田中雪。学級委員長で、男子への口調はきつめだけど、成績もいいし、信頼も厚い。

 俺は襟を掴まれたまま、苦しげに雪の方へ視線だけを向けた。

「こ……こいつらが……俺と千紗先輩が知り合いなわけないって……」

「あーはいはい、もういいから。こら、りんとはじめ、離しなさい。事実よ、それ」

「まじか、雪」

「本気か、それ」

「本気も本気。千紗先輩から、何度か大気の名前聞いたことあるし」

 その瞬間、二人は「うそだろ……」と小さくつぶやきながら、ぴたりと動きを止め、俺の襟からそっと手を離した。

 そして、お互いの顔を見て、次の瞬間には――

「……ちょ、無理……トイレ行く……」

「オレも……花積みに……赤いバラを……ッ!」

 目頭を押さえながら教室を飛び出していく後ろ姿には、どこか魂が抜けたような哀愁が漂っていた。

 ……よほどショックだったんだろう。

「……あいつら、なんなんだよ」

「まあまあ、大気も災難だったわね」

 俺はほっと息をつきながら、雪に訊いてみた。

「そういや、お前、千紗先輩と面識あったのか?」

「……は? それ、マジで言ってんの?」

「え、あ、ああ……?」

「わ・た・し、吹奏楽部なんだけど?」

「えっ?」

「さらに言うと、トランペット。千紗先輩は一個上のパートリーダー。しょっちゅう顔合わせてるし、普通に喋るし」

「……知らんかった……」

「こっちのセリフよ。てっきりさ、大気のことも、野球部の三浦先輩経由で、千紗先輩も聞いたんだと思ってたの。けどまさか……本当に先輩と接点あったとはね」

「いや、その……面識って言うか……たまたまというか……」

 言葉を濁す俺に、雪の目が細くなった。

「は? ちょっと待って。どこで接点できたわけ? そもそもどういう経緯なの?」

 質問の圧に押されながら、俺は観念して、少しだけ記憶をたぐった。

 ……たしか、夏の大会が終わった直後のことだった。

 決勝まで進んだとはいえ、自分の投球には満足なんて到底できなかった。点の取られ方も悪かったし、終盤には球速も落ちていた。あれは明らかに、俺の力不足。もっとフォームの改善が必要だと、身をもって痛感した。

 だから、すぐに信二に相談した。

「フォームより、まず身体。お前さ、基本的に細すぎんだよ。まずは肉体作りな」

 と、いきなり怒鳴られた。

 確かに言われてみれば、納得である。一年でレギュラーに食い込めたのは、速球と変化球だけで何とかごまかしてきたからだ。その後、すぐに実践練習に入ったため、基礎体力練習は、ほとんどやっていない。

「今のままだと三年間もたねえし、その先もねえ」

 信二のその言葉は、図星すぎて、何も言い返せなかった。

 で、俺は次の日から朝練メニューを変えた。誰より早く学校に来て、校舎の外周を何周も走る。もともと体を動かすのは嫌いじゃないし、朝の空気は意外と好きだった。

 けど――ある朝、気付いた。

 いつも決まった時間になると、遠くから楽器の音が聴こえてくる。

 それもただの音じゃない。凛と澄んだ、まっすぐな、”あの”トランペットの音色だった。

 気になって音の方へ足を向けてみると、朱雀会館の前。やはり、そこに、制服姿の千紗先輩がいた。

 朝の光の中で、トランペットを構える横顔は、なんというか、ちょっと現実離れしていた。

 ……ああ、夏のあの試合だ。応援スタンドでソロを吹いていたのが彼女だった。

 それを思い出して、俺の中で、何かがカチッと繋がった。

 ただ、それっきりだ。話しかけたわけでも、名前を呼んだわけでもない。俺はそのまま走り去った。見て見ぬふりをして。

 本当は、話してみたかった。今でも覚えてるくらいだ、あの試合のこと。たぶん――いや、絶対、感謝すべきだと思ってる。あのときの自分を奮い立たせてくれたのは、間違いなく、あのソロだったから。

 でも、いきなり「夏はありがとうございました」とか言っても、向こうは俺のことなんて知らないだろうし……。

 そもそも「試合中に応援歌に気を取られてるとか、なめてんの?」って怒られそうだし。そんな妄想が頭をぐるぐる回って、どんどん面倒くさくなっていった。

 で、その思考がピッチングにも悪影響を与えるようになった。

 お悩みタイムの三日目の朝。ブルペンで軽く投げていたときだった。俺の投げた球が、明らかに気の抜けた棒球だったのだろう――

「おい!? ふざけてんのか!」

 信二が怒鳴るやいなや、全力ダッシュでやってきて、飛び蹴りが俺の背中をぶち抜いた。

「うぎゃっ!?」

「お前さあ、腑抜けた球投げるくらいなら、俺、東の球受けるから。マジで」

「ちょ、ちょっと待てって! ごめんって! 悩んでることが……」

「フォームか? リリースか? 何?」

「いや……その……千紗先輩のことで……」

 一瞬、沈黙。

 信二は「はあ?」と眉をひそめたあと、「ああ……」と、何かを思い出した顔になった。けれど次の瞬間には、完全に引いた表情になって、俺の顔をまじまじと見てきた。

「……お前、マジで千紗を狙ってんの?」

「いや、ちが……! いや……ちが……くもないけど……」

「うわ……。お前、千紗だぞ?」

 痛いとこ突かれた。分かってる、俺みたいな一般球児がどうこう言っていいレベルじゃないのは百も承知だ。

 だが信二は、少しだけ真面目な表情になって言った。

「まあ……一応、キャッチャーってのはピッチャーの女房だからな。秋の大会中だし、お前が調子崩すのは困る」

「う……」

「だからって、俺が仲介して千紗に紹介するのは、さすがにおかしいし……第一、千紗そういうの、マジで嫌がるタイプだしな」

 信二が少しだけ目をそらしながら言った。

「……だからまあ、まずは普通に挨拶からでいいんじゃねーの? 人として」

 ……意外と、まともなこと言いやがる。

 とはいえ、当時の俺にとって、それでも充分ハードルは高かった。何せ相手は、学校のヒロイン。顔を合わせるだけで手汗が出るのに、声をかけるとか、無理ゲーにも程がある。

 でも、やるって決めたのは、俺自身だ。

 次の日の朝、ランニング後、朱雀会館の方に行く。

「おはようございます!」

「おはよう」

 それだけ。

 また次の日も。

「おはようございます!!」

「おはよう」

 ……それだけ。

 さらにその次の日も。

「おはようございます!!!」

「おはよう」

 本当にそれしか言ってないのに、こっちの心拍数は毎回120を超える。

 結果、気付けば一か月が経っていた。

 進展は――ゼロ。何の成果も得られませんでした……。

 会話もなし。連絡先も知らない。ただ「おはようございます」と言って、「おはよう」と返ってくるだけ。

 でも、なんていうか、それでもよかった。

 不思議と、それだけで一日が少しだけまっすぐ始まる気がしていた。

 けど、すべてが変わったのは、ある日のことだった。

 10月頭。カレンダーは秋を示していたけれど、その日は珍しく空気が湿っていた。

 山梨では台風が、早朝から接近していたのだ。

 傘なんて一瞬でひっくり返るし、レインコートのフードもすぐに脱げる。

 自転車のペダルを踏みながら、どこか苛立っていた。

 天気に、この状況に、そして……、なによりもこんな日に、わざわざ家を出てきてしまった自分自身に。

 前日、信二に「おい、ヘボピッチャー」と軽く煽られた。

 悔しくて、見返したくて、それだけの意地で朝のランに出たはずだった。

 そんな時だった。

 新荒川橋の手前。スマホが、ブッと鈍く震えた。

 ポケットから取り出すと、画面には無機質な通知が表示されていた。

《件名:【連絡】休校通知のお知らせ》

「……マジかよ。今さら?」

 思わずつぶやいた声は、風に呑まれて消えた。

 苦笑すら出ない。

 無駄足もいいところだ。

 肩をすくめて引き返そうと、ハンドルに手をかけた——そのとき。

 ふと、視界の端に誰かが立ち止まっているのが見えた。

 スマホを見つめたまま、風に煽られながら、小さく身をすくめている。

 どこか、心細そうな後ろ姿。

「……大丈夫ですか?」

 自分でも気づかぬうちに、自転車を止めて、声をかけていた。

 その瞬間、強い風が横から吹き抜け、彼女のレインフードが外れた。

 濡れた髪が揺れ、見えたその横顔に、心臓が跳ねた。

 ——千紗先輩だった。

 え、なんで……。

 言葉が喉につかえた。

 まさか、こんな嵐の中で、しかもふたりきりで、出会うなんて。

 彼女はスマホの画面を見つめながら、ぽつりと言った。

「……あ、えっと……学校、やってないね」

 その声は、いつもの朝の「おはよう」よりも、ずっとやわらかくて、少しだけ揺れていた。

 俺は小さくうなずきながら、気づけば頬が火照っていた。

「連絡……俺もさっき見たばっかで。ほんと今さらすぎですよね」

 彼女は、少しだけ口元をゆるめて、ふっと笑った。

 その笑顔に、一瞬だけ、世界が静かになった気がした。

 気がつけば、自然と俺たちは並んで歩いていた。

 どこへ向かうでもなく、ただ、なんとなく——学校へ。

 どうせ校舎が閉まってるのは分かっていた。

 けれど、それでも一緒に歩こうとしてしまったのは、きっと、ほんの少しでも千紗先輩と一緒にいたかったからだと思う。

 学校に着いたときには、案の定、誰もいなかった。

 鍵は固く閉ざされていて、当たり前のようにどこからも入れない。

 それでも俺たちは何も言わず、そのまま玄関前のひさしの下に腰を下ろした。

 台風の雨は、容赦なく降り続いていたけれど、ここだけは風が防いでくれていた。

 たぶん、三十分くらいだったと思う。

 ただ雨音を聞きながら、ぽつりぽつりと、会話を交わした。

 意外なことに、先輩は俺のことをちゃんと認識してくれていたらしい。

「ぜひ、来年の甲子園で活躍を見せてほしい。楽しみにしているね」

 そのひと言に、俺の中の何かが一気に燃え上がった。モチベーション、爆上がり。内心ではガッツポーズだ。

 さらには、俺が初めて朝に挨拶をしたときのことも覚えていてくれて、

「いや、あの時間に誰かと会うなんて思わなかったから、びっくりしたよ」

 と、ほんの少し目を丸くして笑っていた。

 それから先輩自身の話も聞くことができた。

 信二や他の連中の話から、吹奏楽部でもエース的な存在なんだろうと勝手に思っていたが、実際には瑞希っていうクラリネット担当の部長の方が、演奏技術はかなり上手なんだそうだ。

 先輩自身も、この夏は思うような結果が出なかったらしく、最近は自分の才能の限界を感じる瞬間もあるんだと言っていた。成長にも少し行き詰まりを感じているらしくて、それで毎朝、朱雀会館に足を運んでいるらしい。

 けど、俺ははっきりと思った。

 才能がどうこうじゃなく、毎日ちゃんと練習を続けられること自体が、すでに一つの才能なんじゃないかって。

 だから、それをそのまま伝えた。

「だって、俺、毎朝聞いてますよ。先輩の音。……それだけじゃない。放課後だって、グラウンドまで先輩のトランペットの音が響いてます。どの楽器よりも、最後まで、ずっと」

 それを言ったとき、先輩はちょっと困ったような顔をした。まだ納得していないような表情だったけれど、それでもほんの少しだけ、照れたように笑ってくれた。その笑顔がやけに記憶に残っている。

 ——この日を境に、朝の挨拶だけじゃなく、先輩とちゃんと会話を交わすようになった。

 大人っぽくてしっかりしている印象の先輩だけど、話してみると、意外なほど天然で、わがままな一面もある。

 好きなバンドは『back number』。パンとハヤシライスが大好物。甘いものも好きなのに、生クリームだけはどうしても苦手。

 得意な教科は数学で、逆に家庭科は壊滅的らしい。特に裁縫にはまったくセンスがないとかで、エプロンの刺繍は「シンプルだから」という理由で、なぜかマッシュルーム。

 好き嫌いもはっきりしていて、俺の好みに対しても、「それは私は違うかな」とか、「私はこっちの方が好き」と、ストレートに言ってくるタイプだ。でも、ちゃんとこっちの考えも受け入れてくれる。押しつけじゃなくて、尊重。思った通り、やはり優しい人であった。

「で~、そんなうちの千紗先輩と、パン屋行くんだ?」

 雪が少しつまらなそうに、けれどどこかあきれたように言う。

 ああ、俺がキラキラ語りすぎたんだな、と自分でもちょっと反省する。でも、こういう時でも最後までちゃんと聞いてくれるのが、雪のいいところだ。

「そ、そうなんだ。今日の朝、通学途中で新しくできたパン屋を見つけたって話したら、『じゃあ今日、一緒に行かない?』って先輩に言われて……。ど、どうしよう……」

「何がよ?」

「いや、これって、デートなのかなって……。今日なんも準備してないし、汗臭かったらどうしよう……」

「はいはいはい。そういうの、いらないから。シーブリーズでもぶっかけときなよ」

 雪は軽く鼻で笑いながら、ちょっとだけ肩をすくめた。

「で? てか、それってデートなの? ……そもそもただのパン屋でしょ? 大気しか場所知らないのなら、道案内として誘うのが普通じゃん」

「あああ、そうか! 今すごく納得した!」

「えぇ……、そんなに?」

 雪は思わず眉を上げる。

「ああ、最初ね、パン屋見つけたって言ったとき、俺『瑠璃先輩と一緒に行ったらどうですか?』って、千紗先輩に言ったんだよ。だって千紗先輩、吹部の瑠璃先輩と仲良いんでしょ? でもそれ言った瞬間、先輩ちょっとだけ、なんか不機嫌っぽい顔になってさ……。えっ、もしかして二人が喧嘩でもしてるのかなって、不安になったわ。でも今の雪の言葉を聞いて、俺が案内しないことに怒ったのかもね。すっごい安心した!」

 その話を聞いた雪は、一瞬、目を見開いてから、ふっと何かに気づいたように表情をゆるめた。

 だけど、そこで何かを言い切るわけではなく、あくまで軽く流すように口を開く。

「……ま、まあ、頑張んなさいよ」

 そうだけ言って、くるっと踵を返し、どこかへ歩いていった。

 彼女の後ろ姿に、何か含んだものがあるように感じたけれど、それが何かまではわからなかった。

 ——そのタイミングで、教室のドアが勢いよく開いた。

「おーい! 大気! マック行ってポテト買ってきたぞー!」

 りんとはじめが、紙袋を手に教室にドヤ顔で戻ってきた。

 おそらく気分転換のつもりだろうが……昼休みは残り三分。

 次の授業は、俺たち野球部の顧問、高橋監督の日本史。

 彼らが何を考えているのか、俺にはさっぱり理解できなかった。


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