2017年8月18日(金)14時12分
2017年8月18日(金)14時12分
「一旦ストップ!」
土橋の指揮棒が空中で静止する。
指揮台から放たれる鋭い視線が、各パートを容赦なく見渡す。お盆明けの練習だというのに、空気は本番直前のように張り詰めていた。
「ペットのファースト!」
「はい!」
土橋の視線が私を捕らえた瞬間、背筋が自然とピンと伸びる。緊張で心臓が少し早鐘を打つのを感じた。
「……第四楽章、良くなった。この調子でいこう」
「……はい!」
思わず心の中でガッツポーズを決める。前を見ると、振り返った瑠璃が微笑み、親指を立てていた。その瞬間、ずっと続いていたトンネルの出口にたどり着いたような、軽やかな感覚が胸に広がる。
「千紗先輩、今日の音、本当に最高でしたよ!」
合奏が終わるや否や、雪ちゃんが弾む声で駆け寄ってきた。無邪気な笑顔に、自然と頬が緩む。
「ありがとう〜雪ちゃん。一緒に練習してくれた雪ちゃんのおかげだよ〜」
「そんな、そんな、先輩の実力ですよ〜。私、信じていましたし……」
雪ちゃんの頬が少し赤くなり、笑顔がぱっと弾けた。その表情だけで、こちらまで心が温かくなる。
「あはは、ありがとう。でもね、今日は調子が良かっただけかもしれない。この感覚を忘れないように、ちゃんと練習しないと」
「本当にそうですね。マグレじゃなければいいですが」
近くを通った熊谷君が小声でぽつりと言うと、雪ちゃんはすぐに「は?」と目を見開き、にらむ。そして、二人の小さな口論がふわりと場を揺らし始めた。
だが、私はそのやり取りを、微笑みながら眺めていた。
やっと、ようやく胸の奥に小さな喜びが広がる。あの日々の焦燥や葛藤が、遠くで柔らかな光を帯びているのを感じる。心の中に灯った炎が、自分の成長をそっと祝福してくれているようだった。
そのとき、不意に肩を軽く叩かれた。
「ねえねえ」
「……わっ」
振り返ると、瑞希が相変わらず真剣な表情で立っている。
「土橋先生が職員室に来てってさ」
指揮台の方をちらりと見るが、土橋の姿はもう消えていた。
「何で職員室……面倒くさいなあ」
だるそうに言いながら歩き出すと、隣を歩く瑞希の表情がふっと和らぐ。
「まあね、でも何か大事な話かもよ?」
朱雀会館を出ると、甲府の熱風がまとわりつく。もうすぐ8月の後半だというのに、暑さは一向に収まる気配がない。
「でもさ、千紗」
「ん?」
「やっぱり音が良くなったね。全然違う」
瑞希が少し照れくさそうに言う。
その一言に、思わず足を止めそうになった。
彼女は普段、めったに人を褒めない。
それはきっと、自分に厳しいから。他人に対してもその基準を持っている。でも、だからこそ、彼女は嘘をつかない。
思わず、口元がほころぶ。
「え? 何?」
「いや、瑞希が人を褒めるって珍しいなって」
「本音だよ?」
瑞希は少しムッとした表情で振り返る。
その顔がなんだかおかしくて、私はまた笑ってしまった。
「和田、橘、すまんな。職員室まで来てもらって」
職員室に入ると、土橋が立ち上がり、隣の会議室を指さした。どうやら、誰にも聞かれたくない話らしい。
瑞希と並んで席に着くと、土橋も向かい側に腰を下ろす。
少し緊張しながら言葉を待つと、意外な話が飛び出してきた。
「急な話だが、明後日、渋谷のホールでプロの吹奏楽団の演奏会がある」
土橋は淡々と続ける。
「そこで、バーンズの『交響曲三番』がフル演奏される」
その瞬間、瑞希と顔を見合わせた。
「たまたま、その楽団に俺の教え子がいてな。気を遣って急遽チケットを二枚くれたんだ。ただ、俺はその日、急な職員会議で行けなくなってしまった。それで、お前ら、ちょっと行ってみないか?」
明後日の日中は、練習と夏期講習の予定だけ。受験勉強も気になるが、それよりも胸が高鳴った。
「正直、甲子園の後から、お前らの演奏は確実に変わった。曲に振り回されるんじゃなく、必死に食らいついている感じがする。ただな、お前たちなら、もっと上に行ける気がする。だから、部を代表して二人で行ってこい。何かを掴んでこい。夏期講習は俺から先生たちに話をつける。交通費も出してやる」
土橋は厳しい。昭和の教師そのものだが、時折こうした心遣いを見せる。だから卒業後も彼を慕う生徒が多いのだ。
瑞希と私は顔を見合わせる間もなく、即答した。
「ぜひ、行きます!」




