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2027年8月18日(水)10時25分

 2027年8月18日(水)10時25分


「ねえ、奥さん。“撮影”に戻る気にはなりましたかね?」

「……春。この時代に“奥さん”呼びはだめでしょ。レイシスト?」

「いや、草」

 むっと口を尖らせた私の表情に、渚はお腹を押さえるようにしてクスクスと笑った。笑い声は以前よりも張りがあり、透き通るように響いている。相変わらず、よく笑う人だ――けれど、前に会ったときよりもずっと元気そうだった。それが何より、私自身の心をふっと軽くする。

「よく来たね。……学校」

「まあね。夏期講習、出ないとだし。さすがに浪人や私立で家庭への負担は増やせないし」

 渚はそう言いながら、ふと窓の外に視線を移す。南館四階の一年生の教室は、午後から使用される予定だが、それまでは自由に開放されている。夏の光に照らされて、くっきりと富士山の稜線が浮かび上がり、グラウンドからは威勢のいい掛け声が絶えず響いてきていた。

「春……野球部、もう新体制になったのかな」

「声が前よりも若い感じするね」

 真夏の空気を震わせる掛け声は、まだ不器用で、でも真っ直ぐな力を孕んでいる。耳を澄ませているだけで、汗と土の匂いがここまで届きそうで――懐かしさと同時に、何か置いていかれるような焦りが胸をかすめた。

「甲子園かあ……」

 渚がぽつりと呟く。声には、少しだけ憧れと距離感が混ざっていた。

「……うん。撮影は無事に終えたよ」

「うん。宮木君たちからも聞いた。筒井さんに”大大大感謝”だね」

「筒井さん?」

「ほら、プロ野球選手の。太陽ドルフィンズのエース」

「ああ、知っているよ。クラウドファンディングでも応援してくれてるし。でも、なぜ”大大大感謝”?」

「あれ? 言ってなかったっけ? 彼が中心になって、高野連を説得してくれたのよ」

「はあ!? 聞いてないんだけど! てっきり渚のパワーかと」

「あはは。私でも、あの組織は無理だよ。ただ、筒井さん、本当に頑張ってくれて。元プロの金丸さんとか、同じくプロで、大気さんの中学時代の後輩の樋口選手とか……みんなでまとめて掛け合ってくれたの」

 渚の声が少しだけ柔らかくなる。

「特に筒井さんね。……”自分自身がいじめに関わる部分の話だからこそ、しっかり描いてほしい。俺の責任を果たしたい”。そう強く訴えてくれたんだよ。本当に……選手としてもすごいけど、本当に“強い人”だと思う」

 そう言った渚の視線は、ゆっくりと落ちた。笑みは残っているのに、その影にはわずかな揺らぎがあった。――もしかしたら、自分のいじめられた過去を思い出しているのだろうか。そう考えると、私の胸にも小さな痛みが走り、つい彼女の横顔を気にしてしまう。

「渚……」

「春、気にしないでね。私のことも知ってるでしょう? おおよそは」

「うん……。その、転校してからいじめられて……そして……」

 7月下旬のことが、ふと胸に蘇る。目まいで倒れた渚のお見舞いに行ったあの日。静かな部屋で渚の母親は落ち着いた声で、でもどこか覚悟を含めて、そっと告げてくれた。

 ――「橘さんだけなら」って。

「……自分の部屋で……自殺しかけたんでしょ……」

「……うん」

 渚はいつもの調子を消して、静かに答えた。

 その沈んだ声に、きっと私の顔色も曇ったのだろう。渚は一拍置いて、ふっと笑みを浮かべる。

「でも、もう気にしないで。あの時は……本当にバカなことをしたなって思ってる。泣いてる両親の顔を見て、ようやく気づいたの。自分がどれだけ浅はかだったかって。……それに、しっかり立ち直れたし、こうして映画を作り上げることができたから、もう満足なんだ」

 笑顔はいつもと同じなのに、どこか遠くを見つめるような響きだった。

「……だったらさ」

 私は重い口を開いた。

「なんで、クラウドファンディングサイトの責任者から、名前を消したの?」

「……」

 渚は無言のまま視線を落とす。机に差し込む光が、まつ毛の影を長く伸ばしていた。

「りんさんとはじめさんから聞いたんだよ。渚自身がそうして欲しいって頼んだって。映画づくりも安野さんや宮木君、富田君に任せて……広報は私。……ねえ、なんで」

 気づけば声が早口になっていた。言葉を重ねるほど、胸の奥の不安が形を持ち、勝手に口から飛び出していく。

 ずっと――まるで渚が、どこかへ旅立つ準備をしているみたいで、胸がざわついていた。

「……春……」

 渚も、重い口を開いた。目は真剣で、訴えるようにこちらを見つめる。その瞬間、胸がひやりと凍った。やはり――予感していた何かが来るのではないかと、身体が硬直する。

 けれど、返ってきた声は思いがけず穏やかで、軽く茶化すような響きを帯びていた。

「春って……メンヘラ?」

「……は?」

「いやいや、重すぎるって。あはは。考えすぎだよ、それ」

 さっきまでの緊張が一瞬でほどけるように、渚はクスクスと笑った。

「で、でも……最近、どこかぼーっとしてることも多かったし。昔のこと思い出すとか言ってたし……」

「ああ、それね。はいはい。誤解させちゃったか」

 渚は肩をすくめて、からかうように目を細める。

「私、普通に7月で生徒会長の任期が終わったから、もう映画作りに関われないだけだよ。……ちなみに“昔のこと”ってのは、昨年の選挙の話ね」

「……は?」

「覚えてない? 教頭と映画作りで揉めたとき、条約みたいなの作ったじゃん。『第二甲府高校部活動横断型地域活性化映画制作プロジェクト設立の覚書』――日本人が大好きそうな、あの固い名前のやつ」

「あ……あったな……」

「でしょ? あれに書いてあったの。文字フォントのサイズが“2”で、『現場責任者は現役の生徒会長に限る。前任者は指導のみに留め、運営から外す』って……読めるかそんなの! ったく、あの教頭の野郎、最初から私が任期中に完成できないって踏んで、文面に仕込んだんだよ。きたねえ大人だわ」

 渚は苦笑した。悔しさを滲ませながらも、どこか吹っ切れた、柔らかい表情を浮かべている。

 私がぽかんと見つめていると、渚はさらにくすくすと笑った。

「だからさ、張り合いがなくなったっていうか……いや、違うな。自分の中ではもう十分やり切ったんだよ。映画は形になったし、あとはホールの撮影だけでしょ? そこはエキストラで参加するくらいだし……そりゃあ、ちょっと一息ついて、ぼーっともするわけ」

 渚の横顔を見つめると、夏の光に照らされた髪の毛が揺れて、胸の奥の重さが少しずつほどけていく。

「な、なんだ……」

 思わず漏れた私の声には、安堵と拍子抜けが入り混じっていた。

「でもさ……、一つ、心の残りはある」

「それは……なに?」

「春は脚本を書き終えて、納得している?」

「え……」

「私、ラインで送ったでしょう? 最後まで納得してやり通してほしいって。だってさ、私はもう満足しているのに、まだどこかもやもやした表情を浮かべる春ちゃんがいるんだもん。それを見ると、こっちもどこかしこりが残るのよ」

「あ、ああ……そういうことだったのね」

「うん。だから、そのもやもやをしっかり解消して、この一連の取り組みを、春の“成功体験”にしてほしい。自分のためにも、これからのためにも」

「成功体験?」

 渚は少し間を置き、真剣な眼差しで私を見つめる。その瞳はただの励ましではなく、未来を託すような力を帯びていた。胸の奥に、静かだけれど確かな熱が流れ込む。

「春……あなた、作家になりなさい」

「え……?」

 あまりにも唐突で意外な言葉に、言葉が詰まった。視線を逸らせず、ただ渚の瞳に吸い込まれるように見つめるしかない。

 すると、渚はゆっくりと微笑んだ。その笑顔は優しく、けれど揺るぎない確信を帯びていた。

「作家に必要なのはね……どれだけ時間がかかっても、自分の作品に傷つけられても、それでも前に進み続けること。それは普通の人には大変すぎて、諦めてしまうかもしれない……でも、あなたはもう、その才能を存分に示している。一定の成果も上げた。何よりも……あなたの作品で、こうしてみんなが動いたんだよ。これはもう、立派な才能だと思う」

 渚はふと窓の外の青い空を見上げる。光が髪に当たり、背筋まで透き通るように感じた。

「だから、この作品を後悔で終わらせないで。自分の生きる力に変えてみせなさい」

 その顔は、いつもより大人びていて、優しさと強さが同居していた。

 私は言葉を失い、ただ深く頷くしかなかった。心の奥で、何かが静かに震え、そして確かに変わった瞬間だった。


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