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2017年8月16日(水)7時58分

 2017年8月16日(水)7時58分


 俺たちの甲子園は、初戦敗退という形で終わった。

 新幹線の中、信二は窓の外を眺めながら、ぽつりと「後悔はないよ」とつぶやいた。その横顔はどこかすがすがしく、一度でも甲子園の土を踏めたことが、彼にとって何よりも大きかったのだろう。

 それにしても、あの日の千紗先輩とのハグが、まさかこんなに話題になるとは思わなかった。

『【朗報】甲子園球児、彼女に慰められる』

 そんなタイトルでネットに写真が拡散され、顔こそ隠されていたものの、背番号の『17』は隠れておらず……結果的に、周囲からは散々茶化された。

 特に信二には「俺の彼女を奪ったな」などと、冗談にもならない言いがかりをつけられる始末。

 その結果、りんややはじめまでが「光、お前やるなぁ!」「略奪婚かぁ!!」と背中を叩いてきて、極めつけは監督だ。

「工藤……。大人になったら、そういうの絶対やめろよ。これ、まじでな。相手、本当に傷つくから」

 真顔でそう言われて、俺は「監督まで敵ですか!?」と声を裏返した。

 だが、そんな話題も甲子園の熱気と共に次第に収まり、今は静かな山梨のお盆が広がっている。

 ぼんやりとベッドに寝転び、天井を見つめる時間ばかりが増えていた。

 妙な達成感と、何かを失ったような空虚感。その二つが心の中でせめぎ合っている。

 そんな中で唯一の救いは、千紗先輩とようやく心から繋がれたこと。それだけが、今の俺を支えているような気がした。

 ――もう少しだけ、先輩と一緒にいられたらいいのに……。

 ふと、そんな考えがよぎる。

 正直、今の俺は輿水大気としての意識が強い。それは、千紗先輩の存在が近くにあるからだろう。でも、記憶の減退は気づかないうちに進んでいるはずだ。これも神様との約束の”一つ”だからこそ、しょうがないといえば、しょうがない。

 ――それでも、妙な話だ。神様が、あんな約束を他にもさせるなんて。そもそもこれ自体、有り難いことではある。だが、残酷と言えば、あまりにも残酷だ。

 そして、それがどうにもならないからこそ、俺は、ただ受け入れるしかないのかもしれない。

 その瞬間だった。

 スマホが軽やかな通知音を響かせ、静かな部屋の空気を破る。

 画面に浮かぶ名前を見た瞬間、心臓が跳ねる。

『起きています! 今から出かけますよ!』

 何の迷いもなく返信を打ち、俺は駅へ向かうため家を出た。

 真夏の早朝、蝉の声が遠くに響いている。

 その音さえも、今日は妙に心地よく感じられた。





「待った?」

 駅前で声をかけられ、振り返ると――千紗先輩が立っていた。

「え……」

 思わず間抜けな声が出る。

 時計を見れば、待ち合わせの15分前。なのに、もう先輩はそこにいる。

「どうしたの?」

 水色のワンピースに麦わら帽子。軽やかに風を受けて裾が揺れ、日差しにきらめく髪が肩で跳ねている。先輩の姿は、清里駅に集まる観光客のざわめきの中でひときわ鮮やかだった。まるで、そこだけ切り取られた映画のワンシーンみたいだ。

「いや、その……」

 言葉が、喉の奥で固まってしまう。

 普段より少し整えられたまつ毛に、淡い色のリップ。ほんのり化粧をしているのか、先輩はいつもより大人っぽく見える。視線を合わせるのが、やけに難しい。

「ん?」

 小首を傾げる仕草に、胸の鼓動が跳ねる。

「……か、かわいいです……」

 声が震えていた。自分でも分かるくらい。

 先輩はぱちっと瞬きをしてから、ふいに頬をわずかに赤く染め、つばの影に視線を落とした。指先が帽子のリボンをいじる仕草も、どこか照れくさそうで。

「……そっか」

 たった一言。でも、その声色に隠された照れと柔らかさに、胸の奥がじんわり温かくなる。

 ふたりの間に流れる沈黙は、決して居心地の悪いものじゃない。むしろ、懐かしい心地よさに満ちていた。

「あー!」

 その空気を破ったのは、観光客らしき五歳くらいの女の子だった。小さな指をまっすぐこちらに向け、声を弾ませる。

「照れてるー!」

「「えっ!?」」

 思わず声が重なった。駅前のざわめきに混じって、俺と先輩の驚きがまるでコントみたいに響いた。

「お兄さんとお姉さん、照れてるね!」

 女の子はケラケラと鈴のような笑い声を響かせる。その隣で母親らしき女性が「ちょっと、何言ってんの! すみません……」と慌てて謝ってきた。

 先輩は視線を伏せ、長い前髪を指先でいじりながら、小さな声で「……もぅ……」とつぶやいた。帽子の影に隠れた頬がうっすら赤いのに気づく。耳までほんのり染まっていて、彼女自身も隠しきれていない。

 胸の奥が熱くなる。――ああ、この人、本当にかわいい。

 俺はつい、子どもと同じ目線になろうとしゃがみ込み、苦笑しながら声をかけた。

「うん。お姉さんが可愛いから、照れちゃったよ」

 その瞬間、空気がぴたりと止まった。

「っ……!」

 先輩の瞳が大きく揺れ、唇がわずかに開く。麦わら帽子のつばの影に隠れても、頬の赤みは隠しきれない。まるで心の奥を覗かれたみたいに、慌てて視線を逸らした。

「ちょっ――なに言ってんの!」

 次の瞬間、先輩は俺の腕をぐいっとつかみ、力任せに引っ張った。思ったよりも強い力。けれど、その手のひらは少し汗ばんでいて、指先が震えているのが伝わってくる。

 怒っているようでいて、本当は照れ隠し。そんな気がして、胸の奥がくすぐったくなる。

「い、行こう! ほら、バス来たから!」

 先輩は顔を真っ赤にしたまま、半ば強引に俺を駅の外へ連れ出した。

 目の前には、黄色の車体が特徴的なピクニックバス。観光客たちが乗り込む中、俺たちも後方の席に押し込まれるように腰を下ろした。

 先輩は黙ったまま、窓の外に視線を固定している。肩越しに見える横顔はあまりにも素っ気なく、さっきまでのやりとりが嘘のようで、少し不安になる。

 けれど、耳の先がまだ赤いのを見つけてしまった。

 ――怒ってるんじゃない。ただ、照れてるだけなんだ。

 そう思った瞬間、胸の奥がふわっとあたたかくなった。

「先輩、大丈夫ですか?」

 少し気にかけるようにしつつ、でも半分はからかう気持ちで声をかける。

「……、……しい」

 小さく呟くような声が耳に届いた。

「え?」

 思わず聞き返す。

「……か、しい……」

 かすかな声。けれど必死に隠そうとしているのが分かる。

「すみません、よく聞こえなくて……」

 わざと首を傾げて重ねると、先輩が勢いよく振り向いた。麦わら帽子のつばがふわっと揺れ、頬まで真っ赤に染まっている。

「恥ずかしい! って言ってんの!」

 真っ赤な顔で俺を睨みつける。その瞳は怒りよりも、どうしようもなく取り繕えない照れ隠しの光を宿していた。

 その瞬間、周囲の乗客がどっとこちらを振り返る。中には口元を押さえて笑いをこらえている大人までいて、俺と先輩は同時に縮こまった。

「……たしかに、恥ずかしいですね」

 小声で言うと、先輩はまだ顔を赤らめたまま、少しだけ唇を噛んでから――

「……ばか」

 呟くようにそう付け足した。

 そして、バスはゆっくりと動き出す。窓の外には緑の高原が広がり、風に揺れる草花がまるで二人の心をからかうように、きらきらと輝いていた。

「それでも良かったのですか?」

 少し気を遣いながら訊くと、先輩がゆっくりと振り返る。

「ん?」

「その……夏休みって、受験勉強とかあるんじゃないかなって」

「うーん。まあ、それもあるけどね。まだ西関東大会が残ってるし、そこを終えてからかな」

 千紗先輩は窓の外に視線を向けたまま、ゆるく答えた。緑の流れゆく風景に目を細める横顔は、どこか淡い影を帯びている。

「そうなんですね。大学は、東京に行くつもりなんですか?」

「ん……まだ考え中。将来の夢とか、はっきりしてないからね……」

「へえ……」

 つい漏れた言葉に、先輩がぱっと振り返る。

「ん? どうしたの? その『へえ』って?」

「いや、先輩って、目的に猪突猛進しているイメージだから……もう決めてるのかと思って」

「いやいやいや、それ完全に”脳筋”扱いだから!」

 唇を尖らせる仕草が、意外にも子どもっぽくて可愛い。

「でも、事実でしょう? 先輩、意外と”脳筋”のところあるし……」

「は?」

「……冗談です」

「ふふ。……それでいいよ」

 からかうように笑ったあと、先輩は少しだけ表情を引き締めた。

「でもさー、不思議だね」

「何がですか?」

「なんか、ずっと前からこうして一緒にいた気がするの。なのに……全然、久しぶりって感じがしないんだよね」

 真っ直ぐな言葉に、一瞬だけ息が詰まる。

「……そうですね。不思議です。本当に」

 そのとき、バスがゆっくりと停車した。到着したのは清泉寮。木の温もりを感じさせる山小屋風の建物と、その背後に広がる牧草地が目に飛び込んでくる。

 バスを降りると、視界いっぱいに青空が広がっていた。高原の風が頬を優しく撫で、胸いっぱいに吸い込んだ空気は驚くほど冷たく、澄み切っていた。

「うぉー、すげえ……!」

 思わず声が漏れる。清泉寮のテラスから望む景色は圧巻だった。遠くには富士山が悠然と姿を見せ、学校から見慣れたそれとはまるで別物に見える。標高の高さを物語る澄んだ空気、どこまでも広がる視界。胸が自然と高鳴った。

「先輩が言ったように、ここは本当に違いますね! いつも見ている景色と!」

「そうなのよ。普段はあの下にいるけど、こうして上から見渡すと、まるで世界が違って見える。だから……好きなんだ」

 風に麦わら帽子が揺れ、陽射しを浴びた先輩の横顔が一瞬まぶしく映った。

「それ、めっちゃ分かります! でも、思ったんですけど……」

「ん?」

「俺たち、けっこう“空に近い場所”ばっかり来てませんか?」

「そうかな?」

「そうですよ。愛宕山のプラネタリウムだって」

「あ……そうだったね。ふふ、確かに」

「ここも、夜になったら星空がすごそうですよね」

「絶対綺麗だよ……うん……」

 先輩の声が、ほんの少しだけ翳る。その奥に、言葉にできない何かを感じた。

「じゃあ……また、来ましょうよ」

「え?」

「また、来たいです。ここに」

 言った瞬間、胸がじんわり熱くなる。夏の光が肌を刺すように柔らかく、空気の澄み方までも特別に感じられた。

「……それ、本当に思っているの?」

 先輩の声が少し掠れる。その瞳は冗談を探すような色は微塵もなく、まっすぐ俺の答えを求めていた。

 一瞬だけ迷った。けれど、視線を逸らさずに口を開く。

「……本音です」

「……そっか」

 その瞬間、先輩の表情がふっと緩んだ。わずかに頬を染め、こらえきれない笑みを零す。

 風が頬を撫で、光が彼女の笑顔を透かしていく。胸の奥に、忘れられない夏の一コマが刻まれていくのを、はっきりと感じていた。





 その後、名物のソフトクリームを頬張り、ポール・ラッシュ記念館を見学したあと、次の目的地――萌木の村へ向かった。

 木造の小道に沿って並ぶ小さな飲食店や土産物屋は、どこか絵本の世界のようで、訪れる人々の笑い声が柔らかく響く。

 昼食には評判のカレーライスを選び、熱々の香りが立ち上る中で先輩と顔を見合わせて「うーん!」と頷き合う。スプーンを口に運ぶたびに笑みがこぼれ、何も言わずとも共有できる幸福に胸が温かくなる。腹を満たしたあとは、気の向くままに緑あふれる村を散策した。

 夏のはずなのに、空気はどこかひんやりとしていて、木々の間を吹き抜ける風には澄んだ新緑の香りが濃く漂っていた。葉が揺れるたびに細かな波紋のように光を跳ね返し、その輝きを目で追うたびに、胸の奥で何かがふわりと溶けて広がっていく。

「……なんだか、マイナスイオン感じるね」

 先輩が隣で、少し照れ隠しのように呟いた。

「確かに。夏なのに、こんなに涼しいなんて」

「まるで“魔”だよね」

「“魔”?」

 思わず聞き返すと、先輩は木漏れ日の下で立ち止まり、真剣な声色で言葉を重ねた。

「うん。現実みたいじゃない山……だから、“魔の山”。不快な暑さも、難しいことも、嫌なことも、やらなきゃいけないことも、ここにいると全部溶けていく。今っていう時間だけが、すごくはっきりして……遠い現実を忘れさせてくれる……」

 その横顔には、どこか淡い影が差していた。軽い冗談のように言ったはずなのに、胸の奥に秘めた本音が、ふとにじみ出てしまったかのようだった。

 ――日記は信二から渡されたはず。だから言葉にしなくても、先輩が、俺に対して抱えているものは理解できる。そのことに、俺は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、どうしようもない感覚が芽生えた。

 その後、しばらく二人で森の小径を歩いていると、不意に視界の奥に鮮やかな色彩が差した。

 少し古びたメリーゴーランド。カラフルな装飾が木漏れ日に柔らかく溶け込み、森の静けさの中でぽつんと光を放っている。周囲の緑に溶け込むその光景は、まるで童話の一場面を切り取ったかのようだった。

「なんで、こんなところに……?」

 思わず声に出すと、千紗先輩は目を細め、柔らかく笑った。

「乗りますよ?」

「えっ、まさか……」

 けれど、先輩の表情を見れば、拒否権など最初から存在しないことは明らかだった。

 小さな係員舎でチケットを購入し、二人でゆっくりと足を踏み入れる。メリーゴーランドの中に人影はなく、森の空気だけがそよぐ。

「……他の人、誰もいないんですね。まあ、外から覗いている人はチラホラいますが……」

「うん、たぶん見世物になるし、恥ずかしいからでしょ」

「えっ!」

 俺の声が裏返る。先輩は楽しそうに口元を隠し、端の白馬にひらりとまたがった。

 慌てて俺も隣の馬に腰を下ろす。慣れない姿勢に体がぎこちなく揺れた瞬間――

「ウィーン……」

 低い機械音とともに、メリーゴーランドが静かに回り始めた。森の奥で回るそれは、現実から切り離された夢の残響のように、ゆっくりと時を刻んでいる。

「森の中のメリーゴーランド……なんだか、不思議ですね。まるで絵本の中に迷い込んだみたいで」

 そう言うと、千紗先輩は目を細め、柔らかく微笑んだ。

「でしょ? ちょっと現実離れしてる。まるで、夢の世界にいるみたい」

「さすが、“魔の山”ですね」

 茶化すように言うと、先輩は思わず吹き出す。

「あはは……やっぱり、からかってるでしょ」

「いや、真剣に言ってますって!」

 ふたりの笑い声が、森の風にふわりと溶けていく。やがて先輩は少し真顔に戻り、目線を遠くの木漏れ日に落とした。

「でもね……こうして見ると、なんだかすごく楽しいんだ」

「楽しいって……?」

「うん……実は、私、もともとメリーゴーランドって好きじゃなかったんだ」

「そうなんですか?」

「うん。お父さんがよく言ってたの。『メリーゴーランドは同じ場所をくるくる回るだけ。仕事みたいでつまらない』って。大人になると、そう見えちゃうのかもしれないね」

「なるほど……でも、“人生のメリーゴーランド”って曲もありますよね。あれは、退屈っていうより、切なくて、でもどこか美しいっていうか」

 俺の言葉に、先輩はそっと微笑む。

「そう……そうかもね。でも、今日思ったの。たとえ同じ場所を回っているだけでも――大好きな人と一緒なら、全然違うものになるんだって。全く飽きないどころか、むしろ何度でも回りたいって思える」

 その言葉のあと、先輩はふっと目を伏せ、そっとこちらを見上げるように微笑んだ。胸の奥に、ぽわりと温かいものが広がる。その笑顔を前にして、俺の心は自然と定まり――残された時間がどれほどあっても、この人のために捧げよう、と無意識に誓った。

 そして、帰り道。

 駅へ向かう小道を歩くうち、空は茜色に染まり、沈みゆく太陽が山影を朱に染めていく。風に乗って、かすかに線香の香りが漂う。

 ――そうか、今日はお盆の最終日。

 この世に戻ってきていた人たちが、またあちらの世界へ帰っていく日だ。

 そんなことを思いながら電車に揺られる。隣で静かに眠る先輩の寝顔を、そっと見つめる。小海線の車窓に映る横顔は、淡い残光に照らされて儚く、それでいて愛おしかった。

 列車はやがて終着駅、小淵沢へと、静かに走り続けていた。


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