2017年8月10日(木)熱闘⑤
「飯島さん。今日の試合はいかがでしたか?」
「スコアとしては、四対一。大森中央学院が勝利を収めましたが、これがただの結果だけでは終わらない、素晴らしい試合でしたね」
「序盤から終始緊迫した展開でしたが、やはり筒井君の活躍が目を引きました。特に、ダメ出しのツーラン。あれはもう、言葉が出ないほどの見事な一発でした。そうすると、今日のMVPは筒井君ということになりますか?」
「もちろん、筒井君の活躍も素晴らしいですが、今日は間違いなく第二甲府の工藤君ですね」
「工藤君ですか?」
「はい。あの打線相手に、あのように粘り強く投げ続けた工藤君の姿勢は、正直、言葉に尽くせないほど感動的でした。守備の堅実さや三浦キャプテンのリードも光りましたが、それ以上に工藤君のピッチング。あの一球一球には、心からの拍手を送りたい」
「本当に、私も鳥肌が立ちました。そして試合が終わった今でも、こうして拍手が続いていますね。試合は終わっているのに、この温かい拍手は、まさに工藤君をはじめ、選手全員の頑張りに対する賛辞です」
「ええ、勝った大森中央学院も、負けた第二甲府も、どちらも素晴らしいチームでした。両チームともに、試合後にそれぞれの観客席に向かって挨拶をしています。その姿が、また観客を感動させているのでしょう。今、両方の観客席からの拍手が、どんどん大きくなっていっていますね」
*
「うぉ!!! 感動した!!!」
松田君の声かと思った。しかし、振り返ると、そこにいたの土橋だった。
まるで少年のように拳を突き上げ、目を輝かせている。土橋が、こんなにも熱くなっているなんて。信じられないほど、素晴らしい試合だった。
「ほら、下に行こう!」
瑠璃に手を引かれ、選手たちのもとへと近づいていく。
瑞希の隣を通る瞬間、ふと声をかけた。
「瑞希も一緒に行こう」
彼女は笑いながら、私の隣を歩き出し、一緒に階段を降りる。
少し気になって、尋ねてみた。
「なんでさっき、あの曲にしたの?」
「あ……。いや、野球部のマネージャーから頼まれてね」
「そっか。びっくりしたよ」
「もともと、亡くなった輿水君の応援歌だから、いつかここぞというタイミングで流したいって言われてたし。千紗なら、いきなりでもいけるかなって」
「ははは、きついよ、さすがに。でも……ありがとう」
「けど、あれね」
「何が?」
「千紗、あの音は”喜び”にあふれていたよ」
瑞希はそう言って、先に階段を降りて行った。
あれ? 私、喜んでいたんだろうか。
そんなことを考えながら、瑠璃たちと一緒に野球部のみんなに向かって手を振る。
「お前ら好きだぞ!!!」
一瞬、松田君の声かと思った。でも、振り向くと、号泣していたのは須賀君だった。
あれ? こんなキャラだったっけ。
ふと目をやると、信二とも目が合う。
お互い、不思議な気持ちのまま、穏やかに手を振った。
まるで、昔の友人に戻ったかのように、ただ自然に。
心の奥に、あたたかい安心感が広がっていく。
でも、次に目が合ったのは工藤君。いや、大気君だ。
その瞬間、大気君が見せたのは、これまで一度として見たことのない、嘘のない、心の奥から湧き上がった笑顔だった。
それはもう、工藤光の仮面をかぶった誰かのものではない。
紛れもなく、輿水大気という一人の少年が、生きて、ここに在ると告げるような、鮮やかな微笑みだった。
何かが、一瞬にして胸の奥深くに刻みつけられた。
時間も、名前も、記憶さえも、すべて風化していく大気君の世界の中で、ただこの時間は、確かに存在している。
――大気君の記憶が失われていくなんて――そんなの、嘘だ。
心の底から、そう思った。願いではなく、祈りでもなく、それは確信だった。
たとえ時間が奪い去っても、この瞬間に宿った熱だけは、消えない。
この試合も、私たちの交わした想いも、どこまでも深く、大気君の胸の奥に焼きついている。
永遠に、それを忘れられるはずがない。
その確信が胸に灯った次の瞬間、気づけば、私はスタンドを飛び出していた。
足が、勝手に動いていた。いや、心が、叫んでいたのだ。
何かを求めて、何かを取り戻すために。
このままじっとしてなんか、いられなかった。
風を切り、陽を背に受けながら、私は球場の外へと駆け出した。
*
「……おい、光のやつ、ベンチ裏に走っていったな」
はじめの声が球場の片隅で響いた瞬間、周囲の空気がふっと揺れた。誰もがその意味をすぐには理解できず、目を見交わす。
だが、誰よりも先に、信二が微かに呟いた。
「……うんこが、ヤバいらしい。物の片づけ、頼むってさ」
一拍の沈黙のあと、ぱっと花が咲くように、笑いがそこかしこでこぼれた。
場の緊張が一瞬でほぐれ、周囲に軽やかな空気が広がる。
信二は静かに口角を上げた。いつもの、飄々とした笑み。けれど視線は、誰とも合わず、遠く空を見つめていた。
その眼差しの奥で揺れていたのは、寂しさか、それとも祝福か。おそらく、どちらもだったのだろう。
そして、目を伏せたまま、信二はそっと――誰にも届かないくらいの小さな声で独り言のように呟いた。
「お二人さん。お幸せに」
その言葉は、誰にも聞かれず、ただ風にそっと消えていく。
けれど信二自身には確かに届いていて、その胸の奥で静かに温かく響いていた。
*
訳も分からず、ただ走った。
足は千切れそうで、呼吸は限界を超えているのに、それでも止まらなかった。
まるで何かに引き寄せられるように――いや、魂の奥底から湧き上がる衝動が、俺を突き動かしていた。
係員の制止も、叫び声も、スパイクが脱げる感覚も、すべて遠く霞んでいく。
残っていたのは、ただひとつ。心の奥の衝動――会いたい、会わないと、会いに行かないと、という想いだけだった。
出口が見えた瞬間、胸の鼓動が破裂しそうになる。
そこに――千紗先輩が、きっといる。
ま、まだだ……。
まだ、記憶があるうちに……。
何としてでも……。
――あんな表情の先輩と、お別れなんて絶対にできない。
息が苦しい。頭はふらふらする。それでも、生きているあの人に、会わなきゃ、会わなきゃ……絶対に。
出口の先、光の中へ駆け出すと、外は喧騒だった。
他校の生徒、観客、スタッフ。ざわめきと歓声が入り混じる。
あまりにも焦った俺の様子に、周囲の人々は驚いた表情を見せ、スマホを構える者もいる。
でも、そんなことはどうでもよかった。今、会わなくちゃ――いや……伝えなきゃ。
遠くの方に、息を切らした誰かがこちらを見つめていた。
まるで夢の中の幻のようで、夏の陽炎のように柔らかく揺れながらも、確かにそこに立っていた。
千紗先輩。
目と目が合った瞬間、時間が凍りついた。
歓声も風の音も消え、世界はふたりだけのものになった。
そして、俺は無我夢中でその人に向かって走った。
頭の中は真っ白で、言葉も意味も持たない。ただひとつ、彼女に触れたいという本能だけが、全身を動かしていた。
ようやく辿り着いたその場所で、俺は何も言わずに、ただ抱きしめた。
体が震える。けれど、その震えさえ、彼女の温もりがすべて包み込んでくれた。
涙が滲む。だけど、今は泣きたくなかった。ただ、この瞬間が、永遠に続いてほしかった。
「……先輩っ」
喉の奥で言葉が揺れた。
その震えに応えるように、先輩がそっと囁く。
「……私も」
たったそれだけで、胸がいっぱいになった。
こんなに満たされるなんて、思ってもみなかった。
「……ありがとうございます」
何度も伝えたかった想いは、たった一言にしかならなかった。
ようやく……。ようやくだ……。
あの日、昨年の夏。あのバスの中から、一年以上もかかった。
手が届きそうで届かず、もどかしく、苦しかった日々。
それでも、こうして今、目の前にいる。
幻想でも、夢でもない。現実だ。
ようやく……ようやく……。
「先輩……」
胸の奥がいっぱいで、言葉が溢れそうになる。それでも、伝えたかった。
「……いい音色でした」
千紗先輩が顔を上げる。
あの日、そう、11月15日と同じ――いや、あの日よりもずっと深く、静かで、美しい微笑みだった。
「そうでしょ。……誰かさんが、”喜び”を届けてくれたからね」
彼女の瞳が揺れて、優しい光を放つ。それを見た瞬間、心の奥がじんわりと熱くなる。
「でも、負けちゃいました」
「本当にね。でも……かっこよかったよ」
その一言で、すべてが報われた気がした。
今日の傷だらけの自分も、この瞬間には誇らしい記憶に変わっていく。
「……だから、ご褒美、あげなきゃね」
彼女がそっと顔を寄せ、耳元で囁く。
「待たせてごめんね、大気君。……私、ずっとあなたを想ってたよ」
その声が、体の隅々まで染み渡る。
細胞ひとつひとつが、その言葉に応えて震えている。
離したくない――
ようやく再開した、大切な人を、この腕の中から手放したくなかった。
彼女も、強く抱き返してくれる。
ようやく、ようやく、ここにたどり着けた――。
「……このまま、ずっと」
口にしたその言葉は、祈りのように空へ溶けていく。
心から愛おしいと思える人と、こんなにも近くにいられる奇跡。
その奇跡の中で、世界が静かに満ちていき、胸の奥の重さが、すーっと溶けて軽くなっていくのを感じた。
まるで、長い旅路の終わりにようやく羽を広げたように。
呼吸も、鼓動も、すべてが穏やかに流れ、時間さえも柔らかく包み込むようだった。




