2017年8月10日(木)熱闘④
2017年8月10日(木)熱闘④
「次もチャンステーマで!」
マネージャーの声が、雷鳴のように響く。瑞希が素早く指揮を執ると、観客席の応援が一段と熱を帯び、ざわめきが一気に高まった。
今日、初めて訪れた好機。この瞬間を逃せば、次はもうないかもしれない――そんな緊張が球場全体を包む。声が重なり合い、ひとつの大きな波となって押し寄せてくる。
だが――
「ボ、ボール!!」
その一言が、張り詰めた空気を切り裂いた瞬間、球場全体がどよめく。私は思わず息を呑み、心臓が止まるかと思った。
なんて危ない球……!
「危険球だろ!!!!」
「何やってんだ、ヘボピッチャー! マイナーからやり直せ!!」
クラスメイトの松田君や須賀君たちが、世代ナンバーワンエースに向かって声を荒げる。それでも、打席の大気君は微動だにせず、再び構え直す。背中には静かな覚悟と頼もしさがにじむが、私の胸の鼓動は張り裂けそうで止まらない。
次の一球を待つ刹那、ふと目を向けると、マネージャーと瑞希が小さく言葉を交わしていた。
焦燥が伝わってくる。ただの応援ではない。全員が、この試合に心を懸けている証だ。
マネージャーの手元に視線をやると、カンペには次の曲の指示が記されている。
観客席の熱はさらに膨れ上がり、声援がひとつのうねりとなる。選手たちはその熱を背負い、次の瞬間にすべてを懸けていた。
*
――やべえ、もう時間がない……。
記憶が霧のように濃く、意識がふらふらと揺れ動く。頭の奥が鈍く痺れ、視界はうっすらと揺らぎ、現実が少しずつ溶けていくようだった。
無意識のうちに、バットの先でヘルメットを軽く叩く。
けれど、あれ? これ、前にもやったことがあるような気がする。
不安が胸の奥をぐっと締めつける。何かが、ひどく違和感を感じさせる。
(ん……?)
俺の変化に気づいたのか、筒井先輩が一度マウンドを外れ、足場を整える。ショートを守っている永瀬も、眉をひそめ、打席を見つめる目にわずかな不安が滲む。
それでも、じわじわと、焦燥の波が押し寄せる。息が浅くなり、喉が渇いて、まるで体の中から何かが消えかけているようだ。
――やばい、やばい、焦るな。
必死に頭を振って、目の前の一球に集中しようとするが、体が反応しない。どうにかして、この打席を乗り越えなければならない。
気が付くと、もう筒井先輩はモーションに入り、全身の血液が一気に凍りついた。
――やばい、タイムを取るタイミングを逃した。
冷たい汗が背中を滑り落ち、指先が震える。
慌てて構え直そうとするが、体が石のように固まり、どうすればいいのか分からなくなる。
バットの重みが、今まで感じたことのないような異質さを持って、手の中でひどく歪んでいるような気がした。
――やばい、やばい、やばい!
冷静さが音を立てて崩れ落ちていく。頭の中がぐちゃぐちゃに絡み合い、思考が途中で途切れてしまう。
せっかくここまで来たのに……。
クソッ!
クソッ!
……クソッ!
自然と、目に熱い涙が浮かぶ。やはり、俺はまたここでもあと一歩で届かないのか……クソ。
だが、その刹那、耳だけは異様に冴えていた。なぜか――それは、あの夏に、同じ感覚を経験したからかもしれない。
「パパパー! ~パパ……」
先輩……音!
胸の奥で何かが弾ける。瞬間、全ての雑音が霧のように消え去った。観客のざわめきも、風の匂いも、砂埃も、すべてが透明になり、世界が信じられないほど澄み渡る。視界は鮮明で、時間が止まったかのように感じられた。
無意識に体が反応する。迫るカーブに、恐怖も迷いも不安も、一切排除した。ただ、心を先輩のトランペットの音と同期させ、全身で球を迎え撃つ。
「ファール!」
乾いた打球音とともに、白球が三塁側スタンドへ鋭く弾け飛ぶ。思わず顔を向けると、耳に届いたのは――『必殺仕事人』のソロ。トランペットの音色が、球場のざわめきを切り裂き、宙に浮かぶように響いた。間違いない、これは……俺の応援歌だ。鼓膜を揺らすその音は、過去の扉を一気に開ける鍵のように胸に突き刺さる。
ああ、そうだ……そうだよ。朝の朱雀会館前、何度も耳にしたあの音色。千紗先輩がトランペットに魂を吹き込んでいた、あの夏の記憶。胸の奥が熱くなる。目を閉じ、深く息を吸い込む。肺の奥まで、夏の空気が満ちていく。ざわめいていた心は、潮が引くように静まり返った。
もう迷わない。俺がやるべきことは一つ――この一球を、自分のすべてで打ち崩すこと。
筒井先輩が首を振る。一度、そして二度。ほんの一瞬、迷いの影が走る。しかし、最後には小さくにやりと頷いた。その仕草を見て、俺は確信した。
――来る……。
ならば俺も、誇りを懸けて立ち向かう。決着をつけるんだ、筒井先輩。ここが、終点だ。
白球が放たれる。それはもはや球ではなく、線であった。時間は引き伸ばされ、世界はスローモーションになる。視線が捉え、意識が追いつき、体が反応する。
無心で、ただバットを振り抜いた。命の限り。
「うぉぉぉぉぉお!!!」
打った瞬間、腕に電流が走る。魂が歓喜の悲鳴を上げ、喉が裂けるように叫び声が飛び出す。今日一番――いや、人生で一番の叫びだった。
俺は夢中で、一塁へと駆け出した。風を切る音、砂の匂い、観客の歓声――すべてが一つになり、心を突き抜ける。
そして胸の奥に、確かな感覚が残った。
――あの夏と、今が、ひとつにつながった。




