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『17の夏/27ノナツ』  作者: 橘千紗
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2017年8月10日(木)熱闘③

 試合は佳境に入っていた。

 大気の打順は一つ繰り上がっていた。元々三塁を守っていたカット打法の上野先輩を二番に置き、打率の高いメンバーを上位に固めた布陣。少しでも得点の可能性を上げたい――そんな監督の狙いが見える。

 そして、その巡ってきたチャンスが自分だという現実。胸の奥で、ぞくりと震える。だが恐怖よりも、妙な高揚感が勝った。思わず、口元に笑みが浮かぶ。

 打席に立った瞬間、ふっと、全ての音が消えた気がした。

 グラウンドのざわめきも、観客の声援も、風が頬をなでる音すらも遠のいていく。

 残ったのは――マウンド上で構える筒井先輩と、自分だけ。

 その視線は氷のように冷徹だった。未来をも見透かしているかのような眼差し。何かを試すように、問いかけてくる。俺は無意識に息を呑む。

 ――これが、プロに行く人間の眼差しか。

 だが同時に、心のどこかで闘志が燃えた。

 俺は……俺で勝負する。

 自然と、ベンチの監督へと視線を送っていた。

 だが監督は何も言わない。ただ静かに頷いた。

 ――好きに打て。

 言葉にならない言葉が、確かに胸の奥に響く。

 放任主義。けれど、そこにはただの突き放しではなく、「お前自身に考えろ」という願いが込められていることを知っていた。

『社会人になったらな、勉強と違って、前例がないことばかりだ。やったことがない、訳がわからない。……でも、そういうものにぶつかった時にどう立ち向かうか。その時の態度、周囲をどう巻き込むか。それをスポーツの”ベースボール”ではなく、活学の”野球”から学べ』

 監督が繰り返し口にしていた言葉。

 当時は理解できなかったが――今、この瞬間、ようやくその意味を掴めた気がした。

 結果だけじゃない。勝敗を超えて、自分の姿勢が問われている。

 ただの試合じゃない。これは、自分自身の生き方そのものだ。

 俺はゆっくりと笑みを浮かべ、監督に頷いた。

 だが心のどこかで、ふと影が差す。

 ――監督、本当はどう思ってるんですか。

 あの日……12月15日。

 偶然、練習が休みになったから、俺はいつもより早く帰ることができた。だが、その先で起きた出来事は――「死」だった。

 ニュースで知った。監督が、部活動を休みにしたことに、責任を感じていることを。

 あの言葉の裏には、どれほどの重みが隠されていたのだろう。

 バツイチで、一人暮らしの監督。誰にも弱音を吐けず、自分の行動が招いた結果を一人で背負い込んでいる。

 俺は……そんな姿を思うと、胸が締め付けられるほど心配になる。

「プレイ!」

 その声が、まるで自分の心を引き戻すかのように響く。

 だがな……、監督のせいでもない。どう考えても、俺を殺したあのクソ野郎のせいだ。あいつさえいなければ、こんなことにはならなかったはずだ。

 拳に力を込め、怒りを振り払い、バットに集中する。目の前の投球だけを見据える。

「ボール!」

 外角低め、ギリギリで逸れる。

 甲子園のスタンド全体が、一瞬、息を呑む。歓声とため息が入り混じり、砂埃がピッチャーズマウンドの周りを舞う。

 電光掲示板に球速が映る――156キロ。瞬間、観客席からどよめきが沸き上がる。バットを握る手に、思わず力が入る。

 ――あははは……笑えねえ、これは。

 筒井先輩の目が、光を帯びてギラギラと輝く。勝負を楽しんでいる――そんな空気が、マウンドから伝わってくる。全身にビリビリと緊張が走る。

 打席に立つ以上、逃げ場はない。

 それでも、少しだけ不思議な感覚がある。

 目の前に広がる緑の芝、白いライン、歓声の渦――自分が甲子園の打席に立っていることが、信じられないほどに現実離れしている。

 あの出来事がなければ、あの未熟な一年の俺は、この場所にすら立てなかっただろう。

「ファール!」

 筒井先輩のストレートにかすり、手がビリビリと痛む。打球の感触が指先から腕に走り、脳裏に鮮明に刻まれる。痛みが逆に集中力を研ぎ澄ませる。

 一年の夏。少し天狗になっていた自分を思い出す。

 エースナンバーを背負い、炎天下の練習を重ね、汗と泥にまみれて結果を出すたびに胸が高鳴った。

 指先にボールが馴染む感覚――それは、全世界の何物にも代えがたい快感だった。

 だが、全てを失って初めて気づいた。

 ――俺は、どれほど恵まれていたのか。

「ボール!」

 日常は、驚くほど簡単に消え去った。

 マウンドに立つこと、ただ野球ができること、それがどれほど尊く、貴重なことか、痛いほど理解した。

 特に今の家族には、感謝の気持ちで胸がいっぱいだ。

 裕福とは言えない家で、母親はシングルマザーとして、休む間もなく俺を支えてくれた。

 グローブやスパイクの購入費、泥だらけのユニフォームの洗濯、毎日の食事――すべてを一人でやりくりしてくれた。

 祖父母も、何も言わずただ温かく見守ってくれた。庭先での「がんばれよ」の笑顔、帰宅時のささやかな笑顔。その小さな優しさの一つひとつが、今になって胸に深く染み込む。

 そして何より、他人の家から注がれる無償の愛情こそが、これまで自分が受けてきたものの価値を、より気づかせてくれたのだ。

「ファール!」

 だけど、だからこそ――だ。

 俺はもう、いなくならなければならない。

 この身体を、しっかりと工藤光に返さなければならない。

 本来注がれるべき愛情は、俺ではなく、工藤光にこそ向けられるべきなのだ。

 胸がぎゅっと締め付けられる。心臓が跳ね、喉が詰まる。

 悲しいことに、死者にはもう居場所はない。

 世界は、自分がいなくても、何事もなかったかのように回り続ける。

「ファール!」

 それでも、この試合だけは――わがままを言わせてほしい。

 あの世から舞い戻ってきたように、甲子園は大きな未練だった。だから、この試合だけは、どうか許して欲しい。

 何よりも、心残りの一つ――本当の親のためだ。

 きっと、今この瞬間も俺のプレイをどこかで見ているだろう。

 父親も野球が好きだったはずだ。

 今まで、何一つ返せなかったけれど、これが、あまりにも不器用で一方的な親孝行になるのかもしれない。

 でも、きっと本当の親だからこそ、心の奥で俺だと気づいてくれる――いや、気づいてくれると信じている。

「ファール!」

 思えば、まだ未練はある。

 光……身体を使ってしまって、本当にごめんな。

 せっかくイケメンだったのに、あんまりその強みを活かせてなかったかも。華のセブンティーンが、ちょっと台無しだな。

 けど、人生って、思ったより楽しいって思わないか?

 段々とお前の記憶が見えるようになり、何があったのか、全部わかったよ。

 特にお前が自殺しようとした瞬間、お前が何を感じ、何に絶望し、そして何に助けを求めていたのか……よく分かったよ。

 同じ高校生でも、こんな人生を送っている奴がいるって知って、ただ驚いた。本当に辛かっただろう……でも、よく頑張ったな、光。

 何も知らない他人から、こういうことを言われると嫌かもしれない。

 だけど、当事者の目線で見えてきた俺だからこそ、少しは心を開いてほしいんだ。

 本当に人生って、何があるか分からないよな。

 光にとっての絶望は、いじめられて、自殺。

 俺にとっての絶望は、殺されて、孤独。

 どちらが辛いかは言えないけれど、でも――お互いに、そこからまた前を向いていける気がするんだ。

 まあ、俺を見ていて、苦しそうだと思うかもしれないけどな。

 でもさ、こうやっていつか、最高の瞬間に巡り合えることがある。自分にとって適切な居場所に、そして、素敵な人たちがいる瞬間に。

 だからこそ、きついときほど周りを頼りつつ、それでも希望があると信じて、前を向いていこう。筒井先輩が言ったように。

 死ななければ、こうやってまた挽回のチャンスは回ってくる。

 最後に逆転できたら――それでいいんだ。

「ファール!」

 そして信二――お前ともう一度、野球ができて、俺は本当に悔いがない。

 正直、最初は驚いたんだ。お前が金丸さんの誘いを断ったときには。

 金丸さんはお前を信頼していたし、何より、お前が甲斐学院に行けば、俺も一緒に行くと思っていたから。

 でもすぐに、お前は笑いながら言った。

「お前も金丸さんをぶっ飛ばした方がおもろいだろ?」

 その一言に、思わず吹き出してしまった。

 ああ、やっぱり俺たちは変わらない――そう、心の底から思えた瞬間だった。

 本当に、いい夢を見させてもらった。

 充実した高校二年間だったな。

 いつも一緒にいて、話し合い、喧嘩し、冗談を言い合った。

 正直、一つひとつの出来事は鮮明には覚えていないかもしれない。

 だけど、汗と笑い声、涙や悔しさ――全部が身体の奥に詰まって、俺の一部になっている。

 それが、確かな証なんだ。

 そして何より――お前は、本当にいい奴だ。大人だよ。

 大切な人の前では、自分の心を押し殺し、相手を優先してしまう。

 だからこそ心配になるんだ。大学生になれば、変な女も出てくるだろう。

 そんな奴を、好きにならないと思うけど――気をつけろよ。

 そして、幸せになれ。心から、だ。

「ファール!」

 最後に……千紗先輩。

 あんまり話せなくて、ごめんなさい。

 一方的に打ち明けちゃって、ごめんなさい。

 でも、先輩なら分かってくれるって、ちょっとだけ信じてるんです。

 もう、俺の記憶は少しずつ消えていくけど――だからこそ、今だけは、先輩に言わせてください。

 ――幸せになってください。

 本当に、心から、そう思います。

 先輩が信二と付き合うなんて、正直思ってもいなかったんです。

 だから、つい卑屈になってしまったり、意地を張ったりもしました。

 でも、それは全部、反省しています。勝手に期待して、思い通りにならなくて怒ったりして……最低でした。

 でも、先輩には未来があります。

 幸せになる権利があるんです。

 俺と違って――あなたはまだ生きている。

 だから、これからも、ちゃんと笑って生きてほしい。

 死んだ俺だからこそ、生きているあなたに、勝手に期待してもいいと思うんです。

 ただ、あの時、告白の返事を12月15日に聞けなかったのは――ずっと心残りでした。

 別に、もう「付き合う」が特別な意味ではない、そんな関係になれていたかもしれません。

 それでも、どうしても――もう一度、先輩に「好き」って伝えたかった。

「うわっ!」

 ――その瞬間、ボールが顔のすぐ脇をかすめた。

 風が耳元を切り、頬にヒリヒリと当たる。危うく倒れそうになる自分の身体を必死で支える。

 球場全体が一斉にどよめき、応援席から息を吞んむ音が連鎖した。

「ボ、ボール!!」

 マウンド上の筒井先輩は、眉を深く寄せ、唇をかみしめながら、鋭い視線で俺を射抜いている。

(勝負に集中しろ……工藤!)

 その眼は、そう訴えていた。

 ……まったく、投手って、本当にわがままな生き物だな。

 そう思いながら、打席に入り直す。

 でも……、もう少しだ。

 見えてきたな、先輩のストレート。

 筒井先輩もムキになってきている。

 それにしても……ストレートと分かっていても、ついていくだけで精一杯だ。

 この人、本当に人間か?

 すげえな。これは正面から戦ってもきついかもしれない。

 さて、どうすればこの人に勝てるだろうか……。

 ヒットか?

 いや、無理だな。

 じゃあ……フォアボールでも狙いつつ……。

 あ、そうか! ……そうだよ!!

 俺の得意分野じゃないか!!!

 カット打法で、フォアボールを狙うなんて……なーんだ。

 あの時の都大会の試合みたいにやればいいじゃないか。

 そうかそうか……。え?

 ん?

 あれ?

 え?

 ……俺って、カット打法……するタイプだったっけ?

 ん?

 これ……何の記憶だ?


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