2017年8月10日(木)熱闘③
試合は佳境に入っていた。
大気の打順は一つ繰り上がっていた。元々三塁を守っていたカット打法の上野先輩を二番に置き、打率の高いメンバーを上位に固めた布陣。少しでも得点の可能性を上げたい――そんな監督の狙いが見える。
そして、その巡ってきたチャンスが自分だという現実。胸の奥で、ぞくりと震える。だが恐怖よりも、妙な高揚感が勝った。思わず、口元に笑みが浮かぶ。
打席に立った瞬間、ふっと、全ての音が消えた気がした。
グラウンドのざわめきも、観客の声援も、風が頬をなでる音すらも遠のいていく。
残ったのは――マウンド上で構える筒井先輩と、自分だけ。
その視線は氷のように冷徹だった。未来をも見透かしているかのような眼差し。何かを試すように、問いかけてくる。俺は無意識に息を呑む。
――これが、プロに行く人間の眼差しか。
だが同時に、心のどこかで闘志が燃えた。
俺は……俺で勝負する。
自然と、ベンチの監督へと視線を送っていた。
だが監督は何も言わない。ただ静かに頷いた。
――好きに打て。
言葉にならない言葉が、確かに胸の奥に響く。
放任主義。けれど、そこにはただの突き放しではなく、「お前自身に考えろ」という願いが込められていることを知っていた。
『社会人になったらな、勉強と違って、前例がないことばかりだ。やったことがない、訳がわからない。……でも、そういうものにぶつかった時にどう立ち向かうか。その時の態度、周囲をどう巻き込むか。それをスポーツの”ベースボール”ではなく、活学の”野球”から学べ』
監督が繰り返し口にしていた言葉。
当時は理解できなかったが――今、この瞬間、ようやくその意味を掴めた気がした。
結果だけじゃない。勝敗を超えて、自分の姿勢が問われている。
ただの試合じゃない。これは、自分自身の生き方そのものだ。
俺はゆっくりと笑みを浮かべ、監督に頷いた。
だが心のどこかで、ふと影が差す。
――監督、本当はどう思ってるんですか。
あの日……12月15日。
偶然、練習が休みになったから、俺はいつもより早く帰ることができた。だが、その先で起きた出来事は――「死」だった。
ニュースで知った。監督が、部活動を休みにしたことに、責任を感じていることを。
あの言葉の裏には、どれほどの重みが隠されていたのだろう。
バツイチで、一人暮らしの監督。誰にも弱音を吐けず、自分の行動が招いた結果を一人で背負い込んでいる。
俺は……そんな姿を思うと、胸が締め付けられるほど心配になる。
「プレイ!」
その声が、まるで自分の心を引き戻すかのように響く。
だがな……、監督のせいでもない。どう考えても、俺を殺したあのクソ野郎のせいだ。あいつさえいなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
拳に力を込め、怒りを振り払い、バットに集中する。目の前の投球だけを見据える。
「ボール!」
外角低め、ギリギリで逸れる。
甲子園のスタンド全体が、一瞬、息を呑む。歓声とため息が入り混じり、砂埃がピッチャーズマウンドの周りを舞う。
電光掲示板に球速が映る――156キロ。瞬間、観客席からどよめきが沸き上がる。バットを握る手に、思わず力が入る。
――あははは……笑えねえ、これは。
筒井先輩の目が、光を帯びてギラギラと輝く。勝負を楽しんでいる――そんな空気が、マウンドから伝わってくる。全身にビリビリと緊張が走る。
打席に立つ以上、逃げ場はない。
それでも、少しだけ不思議な感覚がある。
目の前に広がる緑の芝、白いライン、歓声の渦――自分が甲子園の打席に立っていることが、信じられないほどに現実離れしている。
あの出来事がなければ、あの未熟な一年の俺は、この場所にすら立てなかっただろう。
「ファール!」
筒井先輩のストレートにかすり、手がビリビリと痛む。打球の感触が指先から腕に走り、脳裏に鮮明に刻まれる。痛みが逆に集中力を研ぎ澄ませる。
一年の夏。少し天狗になっていた自分を思い出す。
エースナンバーを背負い、炎天下の練習を重ね、汗と泥にまみれて結果を出すたびに胸が高鳴った。
指先にボールが馴染む感覚――それは、全世界の何物にも代えがたい快感だった。
だが、全てを失って初めて気づいた。
――俺は、どれほど恵まれていたのか。
「ボール!」
日常は、驚くほど簡単に消え去った。
マウンドに立つこと、ただ野球ができること、それがどれほど尊く、貴重なことか、痛いほど理解した。
特に今の家族には、感謝の気持ちで胸がいっぱいだ。
裕福とは言えない家で、母親はシングルマザーとして、休む間もなく俺を支えてくれた。
グローブやスパイクの購入費、泥だらけのユニフォームの洗濯、毎日の食事――すべてを一人でやりくりしてくれた。
祖父母も、何も言わずただ温かく見守ってくれた。庭先での「がんばれよ」の笑顔、帰宅時のささやかな笑顔。その小さな優しさの一つひとつが、今になって胸に深く染み込む。
そして何より、他人の家から注がれる無償の愛情こそが、これまで自分が受けてきたものの価値を、より気づかせてくれたのだ。
「ファール!」
だけど、だからこそ――だ。
俺はもう、いなくならなければならない。
この身体を、しっかりと工藤光に返さなければならない。
本来注がれるべき愛情は、俺ではなく、工藤光にこそ向けられるべきなのだ。
胸がぎゅっと締め付けられる。心臓が跳ね、喉が詰まる。
悲しいことに、死者にはもう居場所はない。
世界は、自分がいなくても、何事もなかったかのように回り続ける。
「ファール!」
それでも、この試合だけは――わがままを言わせてほしい。
あの世から舞い戻ってきたように、甲子園は大きな未練だった。だから、この試合だけは、どうか許して欲しい。
何よりも、心残りの一つ――本当の親のためだ。
きっと、今この瞬間も俺のプレイをどこかで見ているだろう。
父親も野球が好きだったはずだ。
今まで、何一つ返せなかったけれど、これが、あまりにも不器用で一方的な親孝行になるのかもしれない。
でも、きっと本当の親だからこそ、心の奥で俺だと気づいてくれる――いや、気づいてくれると信じている。
「ファール!」
思えば、まだ未練はある。
光……身体を使ってしまって、本当にごめんな。
せっかくイケメンだったのに、あんまりその強みを活かせてなかったかも。華のセブンティーンが、ちょっと台無しだな。
けど、人生って、思ったより楽しいって思わないか?
段々とお前の記憶が見えるようになり、何があったのか、全部わかったよ。
特にお前が自殺しようとした瞬間、お前が何を感じ、何に絶望し、そして何に助けを求めていたのか……よく分かったよ。
同じ高校生でも、こんな人生を送っている奴がいるって知って、ただ驚いた。本当に辛かっただろう……でも、よく頑張ったな、光。
何も知らない他人から、こういうことを言われると嫌かもしれない。
だけど、当事者の目線で見えてきた俺だからこそ、少しは心を開いてほしいんだ。
本当に人生って、何があるか分からないよな。
光にとっての絶望は、いじめられて、自殺。
俺にとっての絶望は、殺されて、孤独。
どちらが辛いかは言えないけれど、でも――お互いに、そこからまた前を向いていける気がするんだ。
まあ、俺を見ていて、苦しそうだと思うかもしれないけどな。
でもさ、こうやっていつか、最高の瞬間に巡り合えることがある。自分にとって適切な居場所に、そして、素敵な人たちがいる瞬間に。
だからこそ、きついときほど周りを頼りつつ、それでも希望があると信じて、前を向いていこう。筒井先輩が言ったように。
死ななければ、こうやってまた挽回のチャンスは回ってくる。
最後に逆転できたら――それでいいんだ。
「ファール!」
そして信二――お前ともう一度、野球ができて、俺は本当に悔いがない。
正直、最初は驚いたんだ。お前が金丸さんの誘いを断ったときには。
金丸さんはお前を信頼していたし、何より、お前が甲斐学院に行けば、俺も一緒に行くと思っていたから。
でもすぐに、お前は笑いながら言った。
「お前も金丸さんをぶっ飛ばした方がおもろいだろ?」
その一言に、思わず吹き出してしまった。
ああ、やっぱり俺たちは変わらない――そう、心の底から思えた瞬間だった。
本当に、いい夢を見させてもらった。
充実した高校二年間だったな。
いつも一緒にいて、話し合い、喧嘩し、冗談を言い合った。
正直、一つひとつの出来事は鮮明には覚えていないかもしれない。
だけど、汗と笑い声、涙や悔しさ――全部が身体の奥に詰まって、俺の一部になっている。
それが、確かな証なんだ。
そして何より――お前は、本当にいい奴だ。大人だよ。
大切な人の前では、自分の心を押し殺し、相手を優先してしまう。
だからこそ心配になるんだ。大学生になれば、変な女も出てくるだろう。
そんな奴を、好きにならないと思うけど――気をつけろよ。
そして、幸せになれ。心から、だ。
「ファール!」
最後に……千紗先輩。
あんまり話せなくて、ごめんなさい。
一方的に打ち明けちゃって、ごめんなさい。
でも、先輩なら分かってくれるって、ちょっとだけ信じてるんです。
もう、俺の記憶は少しずつ消えていくけど――だからこそ、今だけは、先輩に言わせてください。
――幸せになってください。
本当に、心から、そう思います。
先輩が信二と付き合うなんて、正直思ってもいなかったんです。
だから、つい卑屈になってしまったり、意地を張ったりもしました。
でも、それは全部、反省しています。勝手に期待して、思い通りにならなくて怒ったりして……最低でした。
でも、先輩には未来があります。
幸せになる権利があるんです。
俺と違って――あなたはまだ生きている。
だから、これからも、ちゃんと笑って生きてほしい。
死んだ俺だからこそ、生きているあなたに、勝手に期待してもいいと思うんです。
ただ、あの時、告白の返事を12月15日に聞けなかったのは――ずっと心残りでした。
別に、もう「付き合う」が特別な意味ではない、そんな関係になれていたかもしれません。
それでも、どうしても――もう一度、先輩に「好き」って伝えたかった。
「うわっ!」
――その瞬間、ボールが顔のすぐ脇をかすめた。
風が耳元を切り、頬にヒリヒリと当たる。危うく倒れそうになる自分の身体を必死で支える。
球場全体が一斉にどよめき、応援席から息を吞んむ音が連鎖した。
「ボ、ボール!!」
マウンド上の筒井先輩は、眉を深く寄せ、唇をかみしめながら、鋭い視線で俺を射抜いている。
(勝負に集中しろ……工藤!)
その眼は、そう訴えていた。
……まったく、投手って、本当にわがままな生き物だな。
そう思いながら、打席に入り直す。
でも……、もう少しだ。
見えてきたな、先輩のストレート。
筒井先輩もムキになってきている。
それにしても……ストレートと分かっていても、ついていくだけで精一杯だ。
この人、本当に人間か?
すげえな。これは正面から戦ってもきついかもしれない。
さて、どうすればこの人に勝てるだろうか……。
ヒットか?
いや、無理だな。
じゃあ……フォアボールでも狙いつつ……。
あ、そうか! ……そうだよ!!
俺の得意分野じゃないか!!!
カット打法で、フォアボールを狙うなんて……なーんだ。
あの時の都大会の試合みたいにやればいいじゃないか。
そうかそうか……。え?
ん?
あれ?
え?
……俺って、カット打法……するタイプだったっけ?
ん?
これ……何の記憶だ?




