2017年8月10日(木)熱闘②
――この試合、初めてのピンチだな……。
うっすらと、マウンド上の筒井はそう感じていた。
砂埃を巻き上げてベンチへ戻っていく、第二甲府のキャッチャーの背中が見える。打ち取られた彼は、悔しさを表に出さず、静かにヘルメットの庇を指で押さえながら歩いていった。だが、その後ろ姿には、どこか自信のようなものが滲んでいる。
三浦……か。
確か金丸さんが言っていた名前だ。
中学で対戦したときは、もっとアグレッシブな印象だった。だが今は違う。短い打席を終えたにもかかわらず、姿勢には落ち着きがある。
それでも、俺はあいつには感謝している。金丸さんの言葉は正しかった。信頼に値する男。だからこそ、工藤を救えたのだろう……。俺の代わりに。
そして、バッターボックスに新たな影が立つ。
ヘルメットを軽く直し、バットを肩に乗せた工藤。
視線を合わせると、難しそうな顔をしている。だがその奥に、燃えるような光があった。
あはは……工藤。楽しもうぜ、この展開。
唇の端にかすかな笑みが浮かぶ。
まさか、ここまで成長しているとはな。才能はあった。けど――これはもう、別格だ。
工藤を初めて知ったのは、俺が高校一年の秋だった。
監督に呼ばれて部室に足を運んだが、そこには誰の姿もなかった。
静まり返った部屋にただ、机の上のパソコンと、数枚のプリントだけが置かれている。プリントには中学生のスカウト候補の名前が並び、パソコンにはどこかの球場で行われた過去の試合映像が流れていた。
……こいつの試合か。
映っているのは、永瀬という内野手。守備範囲が広く、堅実なグラブさばき。好守備とプリントにも記されていた。
だが俺の視線は、別のところに引き寄せられていった。
一点ビハインド、満塁。
緊張が渦巻く場面で、マウンドに立つ男は遊び球を一切使わず、立て続けに内角へストレートを叩き込む。対角線を描く球筋に打者がのけぞり、観客席がどよめく。そしてラスト、ためらいなく大きく曲がるスライダーを内角低めに突き刺し、空振り三振を奪った。
「しゃああああ!」
少年の声が球場に響き渡る。
土煙の中で拳を握りしめるその姿は、ピンチでこそ輝きを増すように見えた。
まだ粗削り。フォームも力任せで、投球の幅も狭い。だが――その全力の一球一球に、強烈な既視感を覚えた。
――あいつだ。輿水……大気。中学三年のシニア全国大会で、俺が初めて恐怖を覚えた投手と同じ匂いだ……。
背筋に、ひやりと冷たいものが走った。
「おい、筒井。何を見ている?」
気がつけば監督が戻ってきていた。だが俺は振り返りもせず、映像に釘付けのまま、口が勝手に動いた。
「――監督。こいつ、取るべきです」
自分でも驚いた。他人に興味を持つことの少ない俺が、こんなふうに熱を込めて言葉を吐き出すなんて。全く、おかしな話だった。
そして四月、工藤が入部してきた。
実際に目の前で投げるスライダーを見た瞬間、俺の確信はさらに強まった。まだコントロールは荒い。ストレートに伸びもない。だが――スライダーだけは一級品だった。
――こいつは……もしかしたら、俺を脅かす存在になる。
胸の奥で、恐怖と同時に高揚が芽生えた。
その感覚は、あの試合の輿水大気と対峙したときに覚えたものと、限りなく近かった。
だが、その年の秋頃から部の空気は少しずつ濁り始めていた。
夏。何年ぶりかに甲子園へ出場し、奇跡のように準優勝まで駆け上がった。
それを境に、一部の控えの同級生たちが態度を大きくしていったのだ。
「俺たちは甲子園準優勝だぞ!」
ベンチにすら入っていなかった連中が、妙に胸を張ってそう言い放つ。最初は冗談めかして笑っていたが、やがてそれは日常の空気になり、皮肉のように心に刺さった。
――俺たちは何をやっている? こんなチャンスが回ってきているのに、自分たちはスタンドで声を枯らすだけか。
その苛立ちや虚しさが、あいつらをそうさせたのかもしれない。
けれど俺は……そこから目を逸らした。あまりにも低レベルだと思ったから。
アンダーの高校日本代表への召集、高校の垣根を越えて大学野球部の練習に混ざる機会。外の空気に逃げ込む理由はいくらでもあった。いや、正確に言えば――あの淀んだ部室にいたくなかっただけだ。
「どうせ夏の熱が冷めれば、また元に戻るだろう」
そんな言い訳を自分に押しつけ、俺はチームから距離を取った。
だが、戻らなかった。
むしろ……悪化した。
練習中に漏れるため息、裏で交わされる陰口、後輩へのあからさまな嫌がらせ。気づけば、部の空気は完全に壊れていた。
そして……俺自身もその空気に呑まれ、調子を崩し、怪我をして……気がつけば工藤は転校していた。間に合わなかった。手を伸ばしたときには、もう隣にいなかった。
――俺は、恥じた。
『投手以前の問題だな、それ』
金丸さんに相談したとき、その言葉が胸を貫いた。
振り返れば、すべてが後悔だった。
それでもだ。
あの日、部室で工藤をいじめていた連中が、鼻で笑いながら言った。
「工藤のやろう、結局逃げていったな」
その瞬間、頭の奥で何かが切れた。
でも……、拳を握った俺よりも早く、永瀬が立ち上がり、そいつらをぶん殴った。
反射的に、俺も加勢していた。次の瞬間には椅子が倒れ、騒然となり……気づけば、大事になっていた。
チーム全体に迷惑をかけた。
だが不思議なことに、誰一人として俺や永瀬を責めなかった。むしろ「自分たちにも責任がある」と、みんな口を閉ざして俯いていた。
それでも胸は苦しかった。
さすがはマスゴミだ。雑誌系にすぐに嗅ぎつけられ、『筒井が暴力事件を起こした』と大きく書き立てられた。
家族や友人にも迷惑が及んだ。それでも、みんなは俺を信じてくれた。「お前なら大丈夫だ」「お前は間違ってない」と支えてくれた。
だからこそ思う。この学校も、この地域の人たちも、俺は本当に好きだ。
――だから、いつか必ず恩返しをする。永瀬と二人、そう語り合った夜を思い出す。
「タイム!」
意識が現実に引き戻される。監督が守備のタイムを取っていた。
内野陣が砂煙をあげてマウンドに集まる。近づいてきた仲間たちは一様に汗を拭いながら、俺の顔を覗き込む。
「筒井さん、大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫だよ。むしろ、今がおもろい」
力強く答えると、皆の顔に張りついていた緊張がわずかに緩み、苦笑が漏れた。
そこへ伝令役が一歩前に出て、短く言い切る。
「工藤は今日、やたらと一発を狙ってきています。ただ、元々はカットで粘れる打者ですし……何より今日はやたらとノリノリで、正直、怖い雰囲気があります。そこで、監督からの指示です。くさいところを徹底的についていきましょう。正面から勝負はせず、最悪フォアボールで構わないと」
皆は頷き合い、各々の守備位置へ散っていく。その背中を見送りながら、俺は一人の名を呼んだ。
「……永瀬」
呼び止められた永瀬が、振り返る。
「なんですか?」
「バッターは工藤だな」
「ええ。俺、今んとこ、工藤に三タコですよ。あの野郎、俺と筒井さんの打席のときだけ徹底的に投げやがって」
苦々しく吐き捨てながらも、その表情にはどこか悔しさよりも楽しさが混じっている。
「あはは……でもなあ、永瀬。俺たちは――工藤に取り返しのつかないことをした。やっぱ……いじめは止めるべきだったな。見て見ぬふりをした時点で、加害者と同じだ。……正直、あの時の俺は、逃げただけだ」
永瀬の表情が凍りつく。喉が詰まったように言葉が出ず、やがて絞り出すように声を落とした。
「……そうですね。俺なんか、見ていただけじゃなくて……間接的に加担すらしました。最低です。俺の罪は、一生消えないと思っています」
その告白に、胸の奥がずしりと痛む。けれど同時に、心のどこかが共鳴する。
「だからこそだ。あいつが、こうして元気に打席に立って、俺たちに真正面から挑んでくる。それが、どれだけ救いか……。心の底から、嬉しいんだ」
永瀬は唇をかみ、俯いたまま肩を震わせた。数秒の沈黙のあと、かすれた声で呟く。
「……あいつは”強い”ですね。俺たちより、ずっと」
「ああ。だからこそ――俺はここで、あいつと真正面から勝負したい」
強い声でそう告げると、永瀬が顔を上げ、目を見開いた。
「……本気ですか? でも監督の指示は……」
「わかってる。けどな、これはただの勝負じゃない。逃げたままじゃ、俺は一生前に進めない。永瀬”キャプテン”……俺の暴走を、許してくれるか?」
砂埃が舞う。観客のざわめきが遠のく。ほんの数秒の沈黙が、永瀬の胸をえぐっていた。
やがて永瀬は深く息を吸い、しわがれた声で吐き出す。
「……俺たちが背負ってるものは、簡単に消えません。でも……だからこそ、ここで逃げたら一生後悔します。行きましょう、筒井さん。俺も背負います」
背を向けて守備位置に戻る永瀬。その足取りは、不思議なほど軽やかだった。重たい過去をほんの少しだけ、仲間と分け合ったかのように――。




