2016年9月20日(火)6時2分
2016年9月20日(火)6時2分
早朝の甲府駅には、どこか特別な空気が漂っている。
胸の奥にかすかに残る眠気を、そっと撫でていくような、そんなやわらかな静けさが、あたり一帯を包んでいた。空はまだほんの少しだけ暗くて、街全体が、薄い青のヴェールをまとっているように見える。時間の流れすら、どこかゆったりとしていて、目の前の風景だけが、静かに進んでいるようだった。
とはいえ、夏の残り香をはらんだ空気の中で、空はすでに白み始めている。駅前の通りも、次第に“朝”という輪郭を帯びはじめ、その気配に応じるように、人々の気配がにじみ出していた。
南口のエスカレーターを降りたとたん、ポロシャツの襟元から忍び込んできた風が、素肌をさらりと撫でる。信玄公の像は、変わらない表情のまま、今日も静かに街を見守っていた。
そのすぐ脇にある地下の駐輪場へ向かい、自転車のロックを外す。「カチャ」という控えめな音が、まだ眠っている街の静寂を、そっと切り裂いたような気がして、私は思わず、肩をすくめた。
駅から西へ。
まっすぐ道なりに進むと、やがて気象台東の交差点が見えてくる。そこを左へ折れた瞬間、視界がぱっと開ける。まっすぐにのびるアルプス通りの向こう、新荒川橋が朝の光を受けて、淡く、静かに輝いていた。
その景色に、自然と背筋が伸びる。
無意識のうちに、ほんの少しだけ、身構えてしまう自分に気づく。苦笑いのように、小さく笑った。
――そういえば、あの日の帰り道も、ここを通ったんだっけ。
そんな記憶のかけらが胸をよぎる。
私は気持ちを切り替えるように、ペダルに力を込めた。
体を少し前傾させ、立ちこぎへと変える。空気を切る音が、耳元をすり抜けていく。
もう、西関東大会は、先週終わった。
そう思ったとたん、県大会の表彰式――あの光景が、まぶたの裏に静かに浮かび上がった。
「……以上、代表校の発表でした」
――え?
言葉にならない息が、会場のあちこちで漏れた。
私たちだけじゃない。観客席全体が揺れたのを、はっきりと覚えている。
まるで空気が一瞬で変わったみたいに、ざわめきと沈黙が入り混じって、会場全体を包みこんでいた。
今年の夏、私たちは、大きな賭けに出た。
今まで演奏したことのない、難易度の高いコンクール曲。
それでも、勝てると思っていた。いや、勝つつもりだった。
自信はあった。練習を重ねるうちに、その曲が少しずつ自分たちのものになっていく手応えがあったから。
特に、同じパートの三年の井上先輩や、西関東大会を経験している先輩たちが、私たちの中にいた。
「県大会は、通過点」――誰もが、そう信じていた。
本番も、悪くなかった。いや、むしろ過去最高の演奏だった。
音が一つに重なって、あのステージでしか出せない響きになっていた。
拍手は長く、大きく、確かな熱を持っていた。
私も満足していた。やりきった実感があった。
演奏後に瑠璃とトイレに行ったとき、洗面所の鏡の前で、知らない他校の子たちが言っていた。
「第二甲府、間違いなく代表だよね」
……その一言が、嬉しかった。ほんの少し、誇らしかった。
――なのに。
結果は、上に行けない金賞。通称「ダメ金」。代表には、選ばれなかった。
客席に座ったまま、言葉を失った。体の芯まで凍りついたような、呆然とした時間。静まり返った会場の中、ただただ信じられなくて、耳の奥でずっと、「あの音のない音」が鳴り続けていた。
音楽には、スポーツのような明快な勝敗はない。
でも、「落ちた」という現実は、明白に突きつけられる。
誰も、声を出さなかった。俯いたまま、顔を伏せて、感情を閉じ込めていた。
そんなときだった。突然、誰かに背中から抱きしめられた。瑠璃かと思ったら、違った。――井上先輩だった。
「ごめんね……みんなを、上に連れていけなくて……」
その震えた声が、私の胸を貫いた。
ああ――。
この瞬間、先輩たちの夏は終わったんだ。
私たちが、終わらせてしまったんだ。
喉の奥が熱くなった。
心が軋んだ。
悔しかった。
死ぬほど悔しかった。
もっと練習すればよかった。
もっと本気になっていればよかった。
もっともっとやるべきことはあったはず。
そして何より……。
もっと……先輩たちと、思い出を作ればよかった……。
だからこそ、決めた。――もう、二度とこんな思いはしたくない。
8月4日。あの日が、私を変えた。
もう、誰にも負けたくない。ただ勝ちたいんじゃない。圧倒的に勝ちたい。誰にも何も言わせないほど、完璧な演奏で、見返したい。
秋の県の文化祭。冬のアンサンブルコンテスト。来年の夏のコンクール。全部、この手で取り返してやる。
それで始めた、始発朝練。家を出るのは、まだ空が白む前、5時半少し前だった。
正直、少しだけ後悔している。眠いし、眠いし、とにかく眠い。もう一度ふとんに戻ってしまいたくなる朝も、数え切れない。でも、あの日、泣きながら瑠璃と瑞希に「もう妥協なんかしない!」と啖呵を切った自分を思い出すたび、それを簡単に裏切ることができなかった。多少……新副部長という肩書きのせいでもある。
そんな風に、自分に言い聞かせるようにしてペダルを踏んでいると、気づけば、信号が点滅していた。
意識がどこか遠くにいっていた。もう何度目かもわからない、この新荒川橋を渡るたび、私は決まってあの8月4日のことを思い出す。本当によく飽きないものだと、我ながら笑えて来る。
橋を渡りきり、角の駄菓子屋を過ぎると、左手に校門が見えてくる。
校舎の窓はすべて閉じられていて、静けさの中に少しだけ緊張感が漂っている。
奥のほうでは、用務員さんが一人、竹ぼうきを引きずるようにして落ち葉を集めていた。シャッ、シャッ、と規則正しい音が、まだ眠っている学校の空間にリズムを与えている。
校舎の時計は、きっかり6時30分。
この時間に登校してくる生徒は、ほとんどいない。だからこそ、まだ誰にも触れられていない朝の匂いを独り占めするみたいに、静かで、贅沢な時間だった。
自転車を手で押しながら駐輪場へと向かい、楽器ケースを引き出して、校門近くの朱雀会館へ歩き出す。あの古びた建物は、合宿所としても、会議室兼練習場として、私たち吹奏楽部に貸し出されている。
だけど私たちは、それをただの練習場とは呼ばない。ここは、私たちの“ホーム”だった。
入口前でケースを一度床に置いて、私はふと立ち止まる。そして、深く息を吸い込んだ。
風に乗って、どこか懐かしい草の匂いが鼻をくすぐる。夏が完全に過ぎ去るにはまだ早く、でも秋の輪郭が、確かに空気の中に混じっていた。
やっぱり、この朝が好きだ。まだ誰にも見つかっていない、まっさらな時間。たったひとりで過ごせる、静かな誓いの場所。
――そう思っていた、そのときだった。
「た、橘千紗先輩!」
突然背後から名前を呼ばれて、肩がぴくりと跳ねた。
振り向くと、校舎の影からひとりの男子生徒が姿を現した。
野球部の練習着に身を包み、肩で息をしている。顔は運動のせいだけじゃなさそうなほど赤く、額には汗がびっしりと浮かんでいた。
「あ……、えっと……」
言葉に詰まりながらも、彼はこちらを見て、ぎこちなく頭を下げた。
「お、おはようございますっ!」
少しだけ声が裏返っていた。私は思わず微笑んでしまう。
「うん、おはよう」
そう返すと、彼の動きが一瞬ぴたりと止まった。
それでもすぐに、視線があちこちに泳ぎはじめる。私と目を合わせようとして、でもすぐ逸らして。何かを言いたそうに、唇が何度か小さく動いた。
けれど、結局その言葉は出てこなかった。
「で、ではっ!」
突然、顔を逸らして一礼すると、そのまま駆け出して行ってしまった。
その背中をぽかんと見送る。何だったんだろう、あの子。
驚いたのはこっちのほうだった。
こんな早朝に生徒に会うなんて、初めてだった。
それにしても――どうして私の名前を知っていたのだろう? しかも、フルネームで。
彼の顔を思い返す。
でも、心当たりはまったくない。同じ学年の野球部に、あんな子はいなかったし、三年生はもう引退しているはず。
――もしかして、まだ一年生なのか?
そんな考えが浮かんだ瞬間、信二の顔が頭にちらついた。
きっと信二が、何か後輩に吹き込んだに違いない。信二め、勝手に話を広げているんだろう。
だが、それでも彼の顔は、どこかで見た気がする――。
記憶の底から、夏の強烈な日差しの中でのあの試合の光景がふと蘇った。
私たちが応援に駆けつけた、甲子園予選の球場。
あの時、マウンドでひたむきに投げていた、孤高のピッチャーがいた。
彼のことは、入学前から噂されていた。
『巨人・堀内の再来か?』
そんな見出しが紙面を踊るのも、無理はなかった。
中学時代、シニアリーグの全国大会で活躍し、アンダーの日本代表に。結果、名だたる強豪校から次々とスカウトが届いたという。
けれど、「大気は、俺と甲子園を目指すために第二甲府に入ったんだとさ~」と、信二が言っていた。
作り話のように聞こえるかもしれない。でも、それは事実だった。
彼は一年の6月からエースナンバーを背負い、創部以来初となる、甲子園予選の県大会決勝までチームを導いた。
私も、その試合をよく覚えている。
突如、夏風邪で体調を崩した井上先輩の代役として、私は応援歌のトランペットソロを任された。任されたという嬉しさもありつつ、プレッシャーも多少あった。
だがそれ以上に印象的だったのは、マウンドに立つ彼の姿に、影が差していたことだ。
素人の目にも明らかだった。彼は何かを抱えながら、それでもなお投げていた。
「クソッ、クソがあああ!!」
試合後、彼は球場の外で壁を叩きつけるように悔しがっていた。
外から見れば、一年生がよくここまで投げ切ったと思うはずだ。
それでも彼自身は、それ以上に苛立ち、悔しさをあらわにしていた。
その激しい感情が、どこか羨ましくも感じられた。
――ああ、だからか。
私はようやく気づいた。
彼の姿を見たからこそ、私は初めて心の底から、本気で悔しさを味わうことができたのだと。
中学時代も何度か代表を逃したことはあったけれど、あんなに激しく、痛切に悔しがる自分を見たことはなかった。
おそらく、彼に触発され、私の中に眠っていた本物の闘志が目を覚ましたのかもしれない。
そう考えると、もしまた会う機会があったら、彼にもなにか、感謝の気持ちを伝えたいな。
でも、いきなり「ありがとう」なんて言うのは、なんだか変だと思ってしまう。
私はその後、何も言わず、楽器ケースを開けた。
冷たい金属の感触に、朝の静けさが染み込んでくる。
朱雀会館の前、まだ朝の冷たさが残るこの時に、私はそっとトランペットを構えた。
久しぶりの、あの応援歌のソロ。
楽譜は手元にないけれど、身体はちゃんと覚えていてくれた。
澄み渡る音が朝の静寂に溶けていくたび、あの夏の記憶が静かに心の奥でよみがえる。
それはまるで、未来へ踏み出す力のエンジンみたいに、私の背中を押してくれている気がした。




