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2027年8月10日(火)4時32分

 2027年8月10日(火)4時32分


「あ、あの、その……はい、こっちからバスに乗って下さい!」

 夜が明ける前の、第二甲府高校。

 こんなにくそ朝早いことにも内心苛立ちつつ、それ以上に自分が今、この場を仕切らないといけないことに、悪戦苦闘していた。

 全く……陰キャに仕切りをさせるなんて、頭どうかしている。でも……、まあ仕方がないことだけど。

 そして早朝から男子ども……うるせえよ。黙って乗れ。

 肩越しに視線を送ると、彼らはまだ眠そうに目をこすりながらも、楽しげに騒ぐ。くそ……もうちっと静かにできねぇのか。

「あらあらあら、橘さん、大変そうだね」

 振り返ると、こんな早朝なのに、ばっちりとした服装と、すきのない化粧。まるで夜明け前の混乱など存在しないかのように立っていた。

 いつも通り、かっこいいなと思う。記者の田口さんが立っていた。

「おはようございます。こんな早朝に」

「いーえー。こちらこそ、本当にびっくりしましたよ。まさか、甲子園でのシーン撮影ができるなんて」

 田口さんは軽く笑みを浮かべ、両手でカメラ機材を抱えている。夜明け前の空は濃紺のまま。蝉の声はまだ届かず、静けさが辺りを包んでいた。

「あはは。私自身もです。どうやら、昨年から渚が高野連と交渉していたらしくて……最初は無視されていたそうですが、活動が盛り上がったこともあって、ようやく承認されたみたいです。まあ、渚の言葉を借りると、『撮影には、甲子園に出場できなかった生徒にも参加してもらいつつ、野球人口が減っているこの時代に、本作品は”ベースボール”ではなく、日本の”高校野球文化”そのものの面白さを伝える』……とかなんとか。まあ最終的に、スポンサーにもお願いして、お金を払って、雨天の予備日をこうしていただけました。本当に有り難いものですが、ますます渚という女が分からなくなります。宇宙人なのですかね?」

「うーん、どうだろう。普通の女子高校生……いや、普通と言うのも変かもしれないけど、でもそのおかげで、弊社としてもいい記事が書けそうです」

「いえいえ。こちらこそ、いつもお世話になっております」

 私は少し身を正しながら、軽く会釈した。まだ夜明け前の空気は冷たく、少し背筋が伸びる。

「あはは、橘さんも小野寺さんに似てきたね(笑)」

「それは嫌です」

 冗談に笑えず、短く答えた。

「そっか……で、今日、彼女は来ないの?」

「ああ……そのちょっと……」

「ちょっと?」

「最近、立ち眩みがひどくて、撮影にもほとんど参加できていなくて……」

「そうなんだ……」

 実際に事実である。

 渚は最近、撮影にほとんど参加していない。

 でも、病院に行っても、特に異常は見つからなかったらしい。

 渚のお母さんは「撮影が終盤に入って疲れが一気に出ただけ」と言っていたけれど……私は、どうしてもそれだけじゃない気がしてならなかった。胸の奥に、言葉にできないざわめきがずっと残っていた。

「……過去のことを、最近、よく思い出すんだ」

 ある時、生徒会室で渚はぽつりとそう言った。窓の外に視線を投げて、まるで遠いところに置き去りにされたみたいな顔をしていた。あのときの渚は、私が知っている渚じゃない気がした。

 私は自分なりに整理しようと、ネットで調べたり、先生にそれとなく聞いてみたりした。……やっぱり、過去のいじめやトラウマ。そういうのが今になってぶり返すケースは、結構あるらしい。

 現状を踏まえると、そう結論づけるのが自然なんだと思う。

 だって事実として、映画作りはもう「学生の手作り」って言えない部分が増えている。大人や企業がどんどん入ってきて、私たちの手からはみ出すところも多い。

 でも、表向きは「学生主体」だから、前に立つのは渚。責任も、視線も、全部彼女に集中する。

 しかも、この活動が全国で有名になったことで、ネットには一定数の誹謗中傷――いや、もっとはっきり言えば“クソコメント”が出始めた。私は気にしないようにしてるけど……渚は違う。トラウマを抱えている渚にとって、それはナイフみたいに心を削るものなんじゃないか。

 考えすぎかもしれない。でも、そう思ったら居ても立ってもいられなくて、私は意を決して渚に電話をかけた。

 でも――出なかった。呼び出し音がむなしく繰り返されるばかりで。

 その代わり、夜になって、一通のラインが届いた。

『心配かけてごめん。私がいない間お願い。そして……春の最後の仕事として、納得して、最後までやり通して。お願い』

 その文字を見た瞬間、息が止まった。

 ――納得。

 確かに、もう十分といえば十分だ。私は脚本を書き切ったし、物書きのスランプも克服して、さらに姉の願いでもあった「大気さんとの思い出」を仲間と共に映画として残してきた。今の毎日は、苦しいだけじゃなく、楽しいと思える瞬間もちゃんとあって……高校生でこんな経験をできるなんて、普通じゃない。

 それでも、胸の中で引っかかる。「納得」という言葉。

 渚は、何に納得してほしいんだろう。

 私自身のこと? この脚本のこと? それとも、もっと別の――。

 考えれば考えるほど、行き着く先はいつも同じだった。信二さん。

 いや、正確には――信二さんの隠している“謎”。

 ――なぜ、大気さんは最初に正体を言えなかったのか。

 ――なのに、決勝戦のあとで自分からばらしたのはどうしてか。

 日記のこともそうだ。もし仮に何らかの理由で正体を隠したいなら、あんな内容を書くはずがない。むしろそのノートを誰かに見られたら、リスクでしかない。

 しかも、最初は練習記録ノートだったのに、神社で記憶を取り戻してからは、どんどん「日記」としての色が濃くなっている。

 それは一体、何を意味しているのだろう。

 私は、まだその答えにたどり着けずにいた。

「大丈夫? 橘さん」

 顔を上げると、田口さんが心配そうに見つめていた。朝の濃紺の空に、少し冷たさが残っている。

「い、いえ……ちょっと眠気が……」

 声がかすれ、私は肩を小さくすくめる。

「あはは。お疲れ様。でもそろそろバス出るから、行こうか」

 田口さんの声は、柔らかく、少しだけ励ますようだった。

「……はい。分かりました。甲子園に行きましょう」

 私は深呼吸をひとつして、背筋を伸ばす。まだ眠気が残る頭の奥で、今日の撮影に向けた緊張と覚悟がゆっくりと広がっていく。

 バスに乗り込む生徒たちのざわめき、制服の揺れ、夜明け前の空気の匂い――すべてが、今日の物語の始まりを告げていた。



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