2016年7月24日(日)15時23分
2016年7月24日(日)15時23分
「死にてえなら、せめて一人で死ねよ」
試合後のバス。エンジンの微かな唸りと、押し殺された嗚咽だけが車内を満たしていた。そんな静けさの中、隣に座る三浦信二が、まるで独り言のように呟いた。
「……は?」
思わず聞き返すと、彼は前を見たまま繰り返す。
「そのツラで隣に座られてるくらいなら、いっそ一人で死ねって言ってんの」
一瞬、冗談かと思った。いつものように、怒りの裏に照れや気遣いを隠しているのだろうと――けれど、信二の目には、いつもの温度がなかった。どこか、遠くを見つめるように虚ろで冷たい。
中学から四年間。バッテリーとして苦楽を共にし、喧嘩もしてきた。勝った日も、負けた日も、信二はずっと俺の隣にいた。その彼が、こんな顔で俺を見るのは、初めてだった。
2016年7月24日。
甲子園予選決勝――第二甲府高校、対、甲斐学院。
相手は全国屈指の強豪校。緊張はしたが、調子は悪くなかった。肩も軽かったし、気持ちも前を向いていた。……そう思っていた。
けれど、今日のマウンドは、まるで別世界だった。中学とは違う、全身を締めつけるような観客の視線。慣れない取材陣のカメラ。応援席の熱。
思考は冷静なつもりだったが、手元の感覚は曖昧だった。
投げても、投げても、手応えがない。
気づけば、呼吸は浅くなり、身体は重く、まとわりつく汗は水を吸ったユニフォームのように肩を沈めた。
修正しようと焦れば焦るほど、フォームは乱れ、力でごまかそうとする自分がいた。
「……一年ながら、よく投げた。数字も悪くない、って言われたろ?」
信二がぼそっと言い、視線だけこちらへ向けた。
「でもな、その顔は、マジでうぜえんだよ」
淡々と吐き捨てるような口調に、言い訳もできなかった。
「一年のくせに、全部背負った気になってんじゃねぇよ。俺たちの夏まで、全部自分の責任にして、勝手に沈んで……。そういうのが、一番ムカつく」
その瞬間、バスの奥で誰かがすすり泣く声がした。
三年の先輩たち――今日で高校野球人生を終えた人たちの、押し殺した嗚咽。
それなのに俺は、最後の一球の感触ばかりを反芻していた。
向き合えていなかった。
チームでも、先輩たちでもなく、自分の投球だけに囚われていた。
信二には、それが許せなかったのだろう。
気づいた瞬間、胸の奥に重い何かが沈んだ。
「……ごめん」
ようやく、喉の奥から絞り出せた言葉。それしか言えなかったし、それ以上の言葉なんて、いくら考えても出てこなかった。
信二はしばらく黙っていた。ふっと小さく息を吐いて、肩をすくめる。ついさっきまで冷たく凍っていた目が、ほんのわずかに、和らいだ気がした。
「……まあ、まだまだ、やることはあるだろ。でもさ、それって“やれることがある”ってことだ。伸びしろってやつ」
そう言って、信二は窓の外へ視線を投げた。
夕暮れにはまだ少し早い。でも、午後の陽が傾きはじめ、街の輪郭がうっすらオレンジ色に染まりかけていた。
「それに……七回のあの打席。よく打ったな、金丸さんのインロー。あれだけは褒めてやるよ」
頭の中で、あの瞬間が再生される。
〇対三。七回ツーアウト三塁、俺の打席。
それまで、甲斐学院のエース・金丸さんに完全に抑え込まれていた。
バットが空を切り、ボールの軌道さえ掴めなかった。
単なる不調じゃない。中学の紅白戦で打席に立ったとき、手も足も出なかった記憶が、今でも骨の芯に残っていた。
「……あぁ、あれな」
自分でも何を言いたいのか分からないまま答える。
「あの場面、俺は正直、大気に代打が出ると思ったわ」
「うっせぇな……でも、あの時は、ほら、あれだ」
「“あれ”?」
「……だから、あれだって」
「なんだよ、“あれ”って」
口の中でもごもごと言葉を探していたら、自然と口が動いた。
「……応援歌」
「はあ!?」
思わず信二が振り向く。俺も、自分が何を言っているのか分からなかった。
でも、あの打席で、たしかに――意識が、トランペットの音へと向いた。
このままじゃ、やられる。
そう思った瞬間、耳に飛び込んできたのは金属バットでも捕手のミットでもない。
応援席から聞こえる、自分の名前のメロディだった。
……打席で、音に反応したのは、たぶん初めてだった。
「張り詰めてたのが、ふっと抜けたんだ。息ができるようになって、指先にちゃんと力が入って――あぁ、バットって、こうやって握るんだったなって思い出した。特にさ……ランナー三塁の場面なら、普通はあのチャンステーマだろ?」
「うん、あの無限ループみたいなやつ」
「それ。でも、あの時だけは、俺の応援歌だった」
「マジかよ……全然気づかなかったわ」
信二は少しだけ目を見開き、それから、声を押し殺して笑った。
「お前……試合中にそんなこと考えてたのかよ……」
「いや、たまたまだっつーの。でも、なんか……悪くなかったんだよ。特に今日のトランペットのソロがさ……。空気が合ったっていうか、変な話だけど」
「空気ねぇ……気色わりぃな」
「マジで言ってんだって。あれがなかったら、たぶん打てなかった。マジで。感謝しとくわ、吹部に」
「ペットねえ。あー……そういや今日のソロ、千紗が吹くって言ってたな」
「誰それ?」
「俺と同じクラス。橘千紗」
「知らねーよ。てかさ、ソロって普通、三年がやるもんじゃね?」
「いや、知らねーし。吹部のルールなんか知るかよ。でも、千紗はガチらしい。部活命で、楽器もめっちゃ上手いって話」
「へえ……」
なんとなく相槌を打ったその時、信二がズボンのポケットからスマホを引っ張り出す。
何度かスワイプして、俺の目の前に突き出してきた。
「お前さ、応援歌変えない限り、来年も世話になるだろ。顔くらい覚えとけ。今度紹介してやるよ。ほら、これ。学園祭の時の写真」
「……ったく、そういうのはめんどくせぇっての……」
その瞬間だった。
息が止まった。
スマホの小さな画面に映る、一人の少女。
吹奏楽部のステージ衣装。高く結んだポニーテール。
白い肌にはじけるような汗がきらめいていて、頬はほんのり赤い。
トランペットを手に、眩しすぎるくらいの笑顔で何かを吹いている。
その笑顔を見た瞬間――心臓が、暴れた。
「ズキュン」じゃない。本当に、「ドンッ」と胸の真ん中をぶち抜かれた。
野球しかなかった俺の心に、いきなりストレートが叩き込まれた。
目が離せない。
見るだけで、息が詰まる。
顔が熱い。指先まで、火がついたみたいに熱い。
視界がぼやける。耳がキーンと鳴る。
鼓動がうるさくて、自分の呼吸すら聞こえない。
さっきまで見ていた世界が、何か決定的に変わってしまった。
「……おい?」
信二の声が、遠くの方で聞こえた。
「あ……」
なんとか口が開いたが、声にならない。
ただ、写真を凝視したまま、動けなかった。
「おまえ、まさか……」
「あ……いや……」
「は? おまえ……マジで?」
「ち、ちげーし!!」
反射的に叫んだ。
でも、声は裏返って、情けないほど震えていた。
信二が吹き出す。
笑い声はからかうようでいて、妙にやわらかく響いた。
「……負けた直後に恋とかさ。おめーらしいな」
「うるせぇ!!!!」
顔が熱い。頭も心臓も耳まで熱い。
言い返しながら、思わず窓の外に顔をそらした。
試合の疲れは、まだ体に残っている。
あのとき投げきれなかった一球。あの回の配球。
全部が、頭の隅にこびりついている。
先輩たちの涙も。
自分の責任も。
簡単には消えない。
――なのに。
目の奥には、あの笑顔が焼きついて、離れない。
橘千紗。
名前なんて今、初めて知ったばかりなのに。
呼吸が浅くなる。胸が苦しい。
けれど、それすら心地いいと思ってしまった。
痛いような高揚感。
泣きそうなくらい、嬉しかった。
ああ、これが「好き」って感情なんだな――なんて、口に出せば照れで死にそうになるけど、心では確かにそう思っていた。
夕焼けにはまだ早い時間。
それでも街全体が、やけに温かい色に見えた。
試合には負けた。
夏は終わった。
そう思っていた。
けど今、この胸の奥では、別の夏が、確かに始まっていた。
そして……、終わりの始まりであったとも、今だから言えると思う。




