2017年7月23日(日)16時22分
2017年7月23日(日)16時22分
「ゲームセット!」
「うぉ、第二甲府がやりやがった!」
球場が、今日一番の歓声に包まれる。スタンドの観客が立ち上がり、手拍子や歓声が渦のように巻き上がる。応援団の旗が風に揺れ、チアリーダーたちの声も一段と弾む。
スコアボードには、一対〇の数字。第二甲府高校が東山大付属甲府高校を破った。
二年連続の決勝進出。正直、今年の夏に第二甲府がここまで残るとは、誰も予想していなかった。いや、俺自身もそうだ。
東が抜けた時点で、せめてベスト8にでも進めれば万々歳だと思っていた。
でも、そんな暗い穴を、予想もしなかった形で埋めてくれたのが、工藤光だった。
4月の終り、彼は親の転勤で山梨に引っ越してきた。
初めて見た時の印象は、思わず声が出るほどだった。
「なんだ、こいつは……モデルか?」
長身で整った顔立ち、均整の取れた手足、そして都会育ちのオーラ。まぶしいほどの存在感に、俺たちはただ圧倒されていた。
「ポジションは、ピッチャーです!」
まさか、投手か……。俺たちは半信半疑のまま、光とのキャッチボールに臨んだ。
最初は、受けるボールの感触に戸惑いながらも、内心で「まあまあ普通の投手だろう」と思った。
だが、いざ座ってボールを受けてみると、全身の血が一瞬にして逆流するような感覚に襲われた。鳥肌が立ち、呼吸が止まりそうになる。
球速は特別速くない。ボールのキレも、飛び抜けているわけではない。
しかし、その投球フォーム――腕の振り、ステップの踏み方、リリース後の腕の戻し方――すべてが、あの大気とそっくりだったのだ。
「おい、ちょっと待て……」
思わず漏らした声に、空気が一瞬止まった。
高橋監督も、東も、光のフォームを目の当たりにした瞬間、息を呑んで動けなくなる。
――何者だ、こいつ?
問いは頭の大半を占め、他のことなど考えられなかった。
それから光は、驚異的な速度で成長していった。
まるで、新しいことを学んでいるのではなく、何かを思い出しているかのように。彼は、誰よりも早く学校に来て、練習を始め、地道なトレーニングを着実にこなしていった。
ただがむしゃらに身体を酷使する「筋肉バカ」ではない。最新の野球理論を駆使し、必要な技術を一つずつ吸収していく姿は、大気とはまた違ったタイプの選手だった。
だが、それだけに不安もあった。
全体的に見れば、彼の努力は正直、オーバーワーク気味だった。俺も監督も、その点について何度か注意をした。だが、光はどこまでも真剣だった。
「大丈夫です。これが今の俺に必要なことだとわかっています」
そう言い切る目には、揺るぎない決意が宿っていた。
サプリメントやストレッチも含めた自己管理の徹底ぶりは申し分なく、最終的に俺たちは彼を信じ、見守ることにした。
そんな彼の姿を見て、チームメイトたちも少しずつ変わっていった。周囲の選手たちも次第に光を「仲間」として認め、信頼を寄せるようになった。
しかし、どうだろう。今、このチームの実質的なエースは光だ。東が抜けた後、その穴を埋めるどころか、光は新たな柱としての役割を果たしている。
そのスタイルは、大気とは違う。大気のように球威でねじ伏せるタイプではないが、光には「安定感」という強みがある。コーナーを丁寧に突き、確実にアウトを取る。その堅実さが、チームに安心感を与えている。
さらに、彼は配球の意図を正確に汲み取り、こちらのリードに応えてくれる。キャッチャーとして、これほどリードしがいのある投手はなかなかいない。
そして、光が最も輝くのは、ピンチの場面だ。ランナーが得点圏に進むと、彼の集中力は一段と研ぎ澄まされる。まるでギアを一段階上げたような気迫を感じる。ホームベースの後ろから見ていても、その空気の変化は明らかだ。
今日の試合でも、光はその真価を発揮した。七本のヒットを打たれながらも、失点はゼロ。抑えるべき場面ではきっちりと抑え、力を抜いてもいい場面では抜く。そのメリハリの効いた投球は、先発投手として非常に理想的だった。
相手からすれば、「打てているのに点が入らない」という、ストレスの溜まる状況だっただろう。
キャッチボールを終え、光がベンチ裏に戻るのを見て、俺は声を掛けた。
「アイシングしとけよ」
光は振り返り、短く「わかりました」とだけ答えると、手際よく道具を片付け始めた。汗を拭いながらも、無駄のない動き。まるで、明日のためにずっと準備していたかのような、落ち着きと集中力だった。
その姿を見届け、俺も自分の用具を片付け始める。隣に並ぶ空気は、妙に張りつめている。無言の時間が一瞬長く感じられ、心臓の鼓動だけが耳の奥で響いた。
ふと、監督がポツリとつぶやいた。
「いよいよだな」
その声に、俺の視線は自然とベンチ奥へ。
掲げられた大気のユニフォームが、薄暗い光に照らされてそこにあった。静かに、しかし確かに存在感を放っている。
今、この瞬間、まるで近くから大気が俺たちを見つめているような気がした。視線の先で微かに鼓動が感じられるような、そんな錯覚にさえ陥る。
胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
――とうとう決勝だ。
去年、俺たちが取りこぼしたあの悔しさを、今度こそ取り返す時が来た。そして何より、この勝利を、天国で見守る大気に捧げるために。
ベンチ裏の空気が、少しだけ熱を帯びる。光の背中、ユニフォーム、そして俺たち自身――すべてが、次の一戦に向けて鼓動していた。
*
「お!」
明日の決勝に備え、いつもより早くミーティングを終えた。そのせいか、いつも以上に汗が肌にまとわりつく。だが、空はゆっくりとその色を変え、柔らかい夕焼けの兆しが差し始めていた。校門を出る頃には、陽射しはオレンジ色に変わり、肩に落ちる影は長く伸びている。
主力メンバーが集まり、足元に熱を感じながらも、少しでも涼を求めるように歩みを進める。その先、校門前には千紗が静かに立っていた。風に揺れる髪、少し首をかしげた姿が、夕日の光に柔らかく縁取られていた。
「キャプテン~。パートナーがお待ちしていますぞ!」
はじめの声が、軽やかに校庭の空気を裂く。どこか調子の良い響きに、思わず眉がぴくりと跳ねる。
「うっせえ」
軽く睨む。けれど、心の奥では思わず笑いがこみ上げる。はじめやりんたちの無邪気な態度が、勝負前の緊張をふわりと溶かしてくれる。まるで、決勝を明日に控えていることなど忘れたかのように。
千紗とは学園祭以来、なかなか二人きりで会えなかった。夏休みに入ってからは、それぞれの予定や練習で忙しく、しばしの別れが続いた。それでも、こうして偶然とはいえ再会できることが、胸に小さな温もりを灯す。千紗が自分に時間を割いてくれたこと、それだけで心が少し軽くなった。
「ほら、お前ら先に帰れよ。俺はゆっくり帰るから」
「キャプテン、明日がありますから、ほどほどにねー!」
はじめとりんたちは、嬉しそうに笑いながら、はしゃぐような声をあげ、軽く千紗に会釈すると、校門を後にした。二人の背中が遠ざかるたび、砂利の音と靴音だけが夕暮れに吸い込まれていく。
千紗はその姿を見えなくなるまで見送った。
「悪い、うるさい奴らで」
「ううん、全然。急に押しかけちゃってごめんね。それにしても、決勝進出おめでとう!」
その一言に、思わず頬が緩む。これ以上の祝福はないような気がした。
「うん、ありがとう」
自分でも知らないうちに、顔が自然にほころんでいた。千紗との会話の中で、試合の疲れも、暑さも、いつの間にか忘れ去られていく。二人並んで歩きながら、校門を抜け、新荒川橋へと向かう。静かな歩調の中、隣に千紗がいるだけで、何よりも安らぎが胸に広がった。
橋を渡る頃、空は夕焼けの色を深め、風は少し冷たく感じられる。川面には朱色の光が反射し、二人の影が長く揺れながら映り込む。水のせせらぎが、微かに耳をくすぐる。時間が少しだけゆっくり流れているような、そんな錯覚を覚えた。
「今日の試合、本当にハラハラドキドキだったね」
「うん、緊張感がすごかった。でも、あの時は、集中して頑張れた」
「本当にね。みんなが粘り強くヒットを繋げていたし」
実際、今年のチームは打撃が弱く、今日は四安打しか出なかった。その中で、俺の内野安打も貴重な一打だった。久しぶりにヘッドスライディングを決めて、腹の奥まで痛みが走ったことを思い出す。
「けど、正直ダサいヒットだったよな」
「そんなことないよ! あれは本当にかっこよかった!」
千紗の言葉に、心が温かくなる。彼女の笑顔が、そのまま自分を包み込むような感覚。自然と胸がふくらむ。こんな風に褒められることが、こんなにも嬉しいなんて、自分でも少し驚いていた。
「ありがとう。それも、千紗たちが応援してくれたおかげだよ」
「ははっ、どうもどうも(笑)。信二の応援歌、かわいいもんね」
千紗がクスクスと楽しげに笑う。
俺の応援歌は『セーラームーン』のテーマ曲。月に代わって相手のエースをお仕置きとかなんとか。うちのキャッチャーの伝統的な応援歌らしいが、正直、どんな伝統だよと思う。
「いやいや、俺が選んだわけじゃないんだよ? 他のみんなみたいに自由に選べたらいいのに」
俺の言葉に、千紗は明るく返す。
「でも、素敵だと思うよ? それに変わった曲を選ぶ人だっているじゃん。ほら、工藤君なんて、『半沢直樹』でしょ? 今更って感じだけど、あれ、めっちゃ面白い(笑)」
その言葉に、つい笑いがこぼれた。千紗が笑うと、その笑顔が目の前で弾けるように広がり、俺もつられて笑ってしまう。
しかし、その一瞬、千紗の表情の奥に、先ほどのはじめやりん……そして光と別れやときの、少し寂しそうな顔が浮かんだのを、無意識に捉えてしまった。その気配に、俺の胸の奥で小さな苛立ちが芽生える。
――なんで俺、あいつのことを考えてるんだ……。
「信二、どうしたの?」
千紗の声に引き戻され、慌てて素直な感情を隠す。思わず、素っ気ない返事が口から出た。
「いや……なんでもない。あいつ、ちょっと、変わってるからさ」
自分でも不自然すぎる言い方だと思った。瞬間、千紗の瞳がわずかに曇り、眉が少し下がるのが見える。
――あ、まずい……。
「……そうなんだ」
その一言だけで、空気が少し重くなる。千紗の声は柔らかく響くのに、どこか距離感を測られているような気がして、居心地が悪い。
その後、帰り道は当たり障りのない話題でやりすごす。天気のこと、明日の決勝の話、些細な出来事。口にする言葉は途切れ途切れで、どれも軽い。意味よりも、沈黙を恐れるために発しているだけのように感じた。
ふと、スマホをちらりと見ると、すでに18時を回っている。
遠くから聞こえる蝉の声が、いつもより大きく、耳にざわつくように響く。
二人で歩く影は、川面に揺らめきながら、夕焼けの色を少しずつ沈ませていった。




