2017年7月22日(土)17時57分
2017年7月22日(土)17時57分
第四楽章。
きらびやかな旋律が、会議室いっぱいに広がっていく。喜びに満ちた和音。夏の光をそのまま音にしたような、まぶしさ。
コンクール前の猛特訓が続く朱雀会館。その日は、夏休みの初日だった。
けれど私は、音楽とはまるで関係のない誰かの姿ばかりを思い浮かべていた。
――工藤光。
学園祭以来、まだ彼は朝練に姿を見せていない。けれど、ここまでの試合では、まるで主役のような存在感を放っていた。
負傷した東君の代わりに、実質的にエースを担い、圧巻の活躍をしていたのだ。
その投球は試合ごとに研ぎ澄まされ、まるで刃物のように精度を増していく。
三回戦に進出した次の日。昼休みの一階の渡り廊下、自販機の前。
冷たい缶コーヒーを取り出した瞬間、不意に、彼と目が合った。
「……あ!」
「あ、お疲れ様です」
気まずいような、でもどこか懐かしいような間のあと、どちらともなく笑った。
「学園祭以来だね」
「ですね。なんか、だいぶ」
彼の笑顔はいつも通り爽やかで、マウンド上の威圧感はそこにはなかった。けれど、その瞳の奥に、かすかな翳りが宿っているのを私は見逃さなかった。
――疲れている。そう、どこか無理をしているように。
「元気そうに見えるけど、調子はどう?」
「まあ、ぼちぼちです。試合も続いてるし……緊張はしてますけど」
「そうなんだ。そういえば、朝もまだ続けているの?」
「え……ああ、はい。すみません、ちょっと……」
言いよどむ彼の声。途切れる言葉。
私の中に、あのフォームが再生される。あのマウンドでの、研ぎ澄まされた立ち姿。帽子の拾い方、呼吸のリズム、投げ終わった後の佇まい。
――やっぱり、似ている。似すぎている。
心臓が熱く脈打つ。私はつい、声をかけそうになった。
「……ねえ、君って、もしかして――」
そのときだった。
「おーい、光ーっ! なにサボってんの!」
南校舎のほうから、見覚えのあるふたりが駆けてきた。
学園祭で会った、二年生で野球部のりん君とはじめ君。二人とも坊主頭を陽射しに光らせ、あいかわらず元気いっぱいだ。
「いてっ! なにすんだよ、はじめ!」
「うるせえ。昼休み、ミーティングだっつーの。こっちは迎えにきてやってんだからな」
「わかったよ、今行くって」
「おい、はじめ、千紗さんいるって……」
「……お、千紗さん。こんにちはー。あー、ごめんなさい、ちょっと急ぎで……失礼しまーす!」
勢いそのまま、彼らは工藤君を挟むようにして、半ば引きずるように去っていく。
そのとき、工藤君が一度だけ振り返った。
何か言いかけたように見えた。けれど、唇は動かず、そのまま姿は校舎の陰に消えていった。
残された私は、まだ指先に缶コーヒーの冷たさを感じながら、言いそびれた言葉を、口の中で転がしていた。
「やめ!」
顧問の土橋の短い一言が、空気を切り裂く。その瞬間、朱雀会館に響いていた音が、ピタリと止んだ。
――しまった。何も考えてなかった。
木管も金管も、指を止めたまま凍りつく。私の心臓は、演奏していたときよりも大きく鳴り出す。
土橋は腕を組み、無言のまま私たち全体を見渡した。その視線が一人ひとりに触れるたび、朱雀会館の空気がすうっと澄んでいく。椅子に座る背中が、自然と伸びる。
「……低音パート。フォルテのところは、もっと音を出していい。だが、割れてはいけない。音を響かせて、遠くに飛ばす意識を持つこと」
落ち着いた声。だが、鋭さは隠されていない。楽譜以上に、空間全体の響きを読むような指導だった。
「クラリネットとフルート。ここ、ブレスのタイミングをパートで確認できてるか? 音が切れないように、パート練で見直しておけ」
「それから、トロンボーン。セカンドとサード、ピッチが甘い。あとでチューニング確認してから帰るように」
土橋は、厳格な指導で知られている。
かつては県大会を勝ち抜き、上の大会の常連だった名将だ。だが近年は、設備も指導者も豊富な私立高校に押され、県大会すら思うように勝ち上がれない。
それでも、彼の目は濁っていない。いつだって前を、もっと高みを見ている。
「……そして、最後に。ペット」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。私の名前が呼ばれる予感がした。いや、確信していた。
「――特に、橘」
やはり。
「オーディションのときにも言ったが、まだ改善が見られない。譜面どおりには吹けている。だが、第四楽章にふさわしい“音の色”を、まだつかめていない。第三楽章とのコントラストを、もっと強く意識すること。……以上」
土橋はそれ以上何も言わず、指揮台から静かに降りていった。
そして練習室全体が、ようやく、沈黙から目を覚ますように動き出した。時刻は18時過ぎだった。
「あー、つかれたぁ」
瑠璃が息を吐き、振り返りざまに私へと笑いかけてきた。
その額にはうっすらと汗がにじんでいて、それがどこか誇らしげに見える。
「今日は、ホルンパート、何も言われなかったね」
「でしょ。オーディションのあと、あの地獄みたいな練習を乗り越えたからよ。第四楽章、かっこよく吹きたかったもん」
「ま、そのおかげで、大変だったんですけどね」
口をはさんだのは、ホルンパートの二年生、熊谷君。長身で、少し気怠げな空気をまとった男の子。技術はあるのに、どこか本気を出しきらないタイプだ。
「お、生意気言うじゃないの、我が後輩!」
「だって先輩、しつこいんですよ。あの一小節、何回やらされたと思ってるんですか」
「そりゃ、ちゃんと吹けるようになるまででしょ。今じゃ、誰一人ミスってないんだから」
「……それはまあ、そうですけど」
「つまり、結果オーライってことよ。はい、論破」
「……はい」
二人の掛け合いは、まるで漫才のようだ。
けれど、不思議とそれが心地いい。互いにぶつかりながらも、芯では繋がっているのが伝わってくる。
「――ところで、千紗先輩」
唐突に声のトーンを変えて、熊谷君が私に向き直った。
「第三楽章から、第四楽章への切り替え。うまくいってないですよね」
一瞬、胸の奥がざわついた。
「うん……。意識はしてるんだけど、なかなかね」
自覚はある。
オーディションの録音を何度も何度も聴き返した。けれど、どうしても音が浮ついている気がして、瑞希に確認してもらっても、同じ指摘が返ってくる。そして……そう。あの定期演奏会で茜が指摘した点も、今なら腑に落ちる。ようやく、すべてがつながった――自分が迷っていた理由が、やっと理解できたのだ。
それでも、このトンネルを抜ける道筋はまだ見えない。試してきた方法はどれも空回りしたように感じ、焦燥が胸の奥にじわりと広がる。見えないスランプが、静かに影を落としている――そんな気がした。
「なんというか、技術的な問題じゃない気がするんです」
熊谷君は少し間を置いてから、言葉を探すように話し始めた。
「うまく言えないけど……明るいはずの第四楽章に、何かひっかかってるように聴こえるんです。たとえば……怒られた直後にカラオケで盛り上がろうとしても、心のどこかが冷めてる、みたいな感じっていうか。その……何か嫌なトラウマでも、あるんじゃないんですか?」
「ああ……」
その例えが、妙にしっくりきた。
私の中で、昨年の12月15日が、静かに蘇る。
――あの日のこと。あの日の沈黙。心臓の奥に残っている痛み。
「何、言ってるの……?」
誰かが割り込んできたと思ったら、それは雪ちゃんだった。頬を赤く染め、熊谷君を睨みつけていた。
「え? アドバイスのつもりだったんだけど」
熊谷君は涼しい顔で答える。まるで自分の言葉が誰かを傷つけたなんて思ってもいない様子で。
「そういう問題じゃないでしょ。あんた、デリカシーとかないの?」
「俺……悪い?」
とぼけたように言いながらも、熊谷君の視線がふと瑠璃に向かう。
瑠璃は何も言わず、ただじっと彼を見ていた。感情を殺した無表情。その冷ややかな沈黙が、何より効いたのだろう。熊谷君は観念したように肩をすくめ、黙り込んだ。
「――いいの、大丈夫」
私は雪ちゃんに笑いかけ、そっと肩をすくめた。
「ありがとう。でもね、熊谷君の言ってることも、ちょっと分かるの。もう少し、自分でも考えてみる」
表面だけは穏やかにやりすごしながら、胸の奥では針のような違和感がずっと刺さったままだった。
私は瑠璃と目を合わせ、軽く手を振った。
「じゃ、練習行ってくるね〜!」
夕焼け色の光が差し込む玄関へ、私は走り出す。
胸の奥が、チクリと痛んでいた。悔しさと、言葉にならないものが、ぐるぐると渦巻いていた。




