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2017年6月30日(金)8時15分

 2017年6月30日(金)8時15分


 私たちの学校の学園祭『朱雀祭』は、三日間にわたる一大イベント。

 一日目は県民ホールでクラスや部活の出し物を披露し、二日目、三日目は校内で模擬店や展示が行われる。その中でも、生徒会主導の四階建ての北校舎を覆うモザイクアートは圧巻で、牛乳パックをひとつひとつ洗って干す作業から始まり、やがて壁一面が虹色に染まるまでの過程は、見ていて心が躍る。今年もまた、生徒会長の水田君はその指揮に忙しそうで、よく階段を駆け上がっていく姿を見かけた。

 そして、さらに気合が入っているのが、学年を超えた縦割りチームによる総合優勝争い。模擬店や出し物の完成度、装飾の美しさ、さらには学園祭期間中の係活動の真面目さまで加点対象となり、クラス対抗のようでいて、実は三学年合同の団体戦でもあるのが、朱雀祭の面白さだった。

 私の属する三年一組は、一年一組と、二年一組と組み、『ザ・1くみーず』という連合チームを結成していた。

 そして、その作戦の司令塔となったのは、クラス委員長の松田君と、彼の親友である須賀君。そして、六組で問題を起こし、やむなく“亡命”してきたバトミントン部の深田君だった。

 須賀君は、ボイパが得意な剣道部員で、突拍子もないアイデアを思いつき、でも妙に説得力のある話し方をする人だ。

 その須賀君が、ある日、教室の打ち合わせに集まった私たちの前で、こう口にした。

「朱雀祭で、”ブランド戦争”を起こしたい」

 唐突だったけど、彼は自信満々だった。

 つまり、彼が言いたいのはこうだ――今年の文化祭、学年ごとにコンセプトを分けて、全部ホラーブランドで統一して攻めるってこと。

 一年生の出し物は、和風のお化け屋敷『貞子エピソード3~怒りの犬鳴峠~』。

 二年生は、『スリラー』をヘビメタ風にアレンジした『ゾンビブレイクダンス』。

 そして三年生の出し物は、洋風のお化け屋敷風屋台『ジェイソンの人肉ホットドック』。

 以上、まさかのホラー縛り一本勝負。

 反対意見は多かった。いや、本当に多かった。

 特に「なんでジェイソン?」というツッコミは全方位から飛んだ。確実に我々世代じゃないし。

 でも亡命してきた深田君は、教室の窓から中庭にある通称”大空像”という石像を見つめながら語った。

「世の中を変える時、その価値を理解する者はごくわずか……松田と須賀を信じてくれ」

 しかも、即どけ坐。

 さらに松田君と参謀の須賀君も負けじと熱弁を振るう。

「びびってるやつ、いねぇぇぇぇぇええええええええええよなあああああああ?」

「えっとですね、僕の超絶尊敬するエキサイティングハイパークリエイター・西さんの著書によりますと……なんと……こう……アッパーに攻めろ! いや、マジで!」

 教室の空気は凍りつき、クラスメイト全員がドン引き。いや、正確には、半笑い半恐怖で固まっていた。

 特に女子バスケ部の部長で、クラスの副委員長の古木さんは、完全に殺し屋の目をして三人を睨みつけていた。

 松田君はさらにテンションを上げ、机を叩きながら叫んだ。

「おいおいおい! てめぇら、俺たちが行くってんなら、全力で盛り上がるしかねぇだろォォォオオオ!!!」

 須賀君も負けじと立ち上がる。

「そうそう! あの伝説の西さんも言ってたぜ!『迷ったら全力! ダメならドンマイ!』ってな! ね? これ理論的に正しいっしょ!」

 教室は騒然。

 クラスメイトは後ろに下がり、笑いと困惑の入り混じった表情で二人を見つめる。

 そして最後に深田君が静かに言った。

「僕は……革命を起こしたい……」

 思わず笑いをこらえるのが精一杯だったが、古木さん以外の数名も、眉間に深いシワを寄せ、もう殺そうと動き出した――その瞬間だった。

 突如、担任が軽く拍手をした。

「青春だね……素敵♡」

 その余計な一言で、反論の余地がなくなり、何もかもが自然にまとまってしまった。

 そして、今。学園祭二日目の、早朝クラスミーティングに至る。

「しゃああああああてめええらあああああいくぜええ! 人肉売るぞおおおおおおお!!!!」

 教室の前方で松田君は大声でテンション爆発。須賀君は拳を振り上げ、全力で叫ぶ。

「俺たちのアッパー魂を見せてやるぜぇええええ!!! 西さんもびっくりだぁぁぁ!!!」

 教室の後方。私の隣に立つ信二は、静かに呆れ顔。腕を組み、目を細めている。

「ったく、相変わらず元気だな……」

「でも信二は、相変わらず真面目だね。せっかくの学園祭なのに」

「千紗……俺をバカにしてる?」

「いや、違う」

 私は軽く肩をすくめ、微笑む。

「まあ正直、こっちももうすぐ県大会の初戦だから練習してえ……。バット振りたい」

「あはは、部活バカだね」

「朝一に毎日来て、楽器を吹いている人には言われたくないが……、まあ、でも、学園祭は楽しむしかないな。せっかくだし。てか、千紗」

「なに?」

「リストバンド、どうする?」

 教室の窓から差し込む朝日が、机や椅子を柔らかく照らす。空気は少し肌寒いが、心地よい緊張感が混じっていた。

「あー、”朱雀祭マジック”のやつだっけ?」

「そうそう。クラスごとのオリジナルリストバンドを交換して、そのままカップル成立……っていう、毎年恒例の謎ルール。まあ付き合っているやつも普通交換するけど……うちらはどうする?」

「正直、同じクラスだから交換しても特に意味ないよね」

「まあ……そうだよな……。ってか、うちの後輩は学園祭前からマジックを成功させたらしいぜ。はじめのばかめ、なぜ予選の前にそんなチャレンジを……」

「えっ、あのはじめ君が?」

 私が驚いて顔を上げると、信二が軽く肩をすくめる。

「あれ? ……知ってたっけ、はじめのこと」

「いや、前に信二が言ってたじゃん。転校生の工藤君と仲良くなれない後輩だって」

「あ……、そうだったな。そういえばそれは解決したわ。ありがとう」

「いーえ。でもそうなると、彼は元気?」

「彼?」

「工藤君。まったく朝に会わなくなっちゃったからさ。朝練やめたのかしら、彼」

 私が首をかしげると、信二は少し間を置いて答える。

「んー? いつも朝一には来ているはずだけどな。もしかして、千紗、嫌われたか?」

「あはは……いや、本気で何か失礼なこと言っていたら、申し訳ないかも」

 私の言葉に、信二は軽く肩をすくめて笑う。

「あはは、大丈夫だ。あいつ、そんなこと気にするタイプじゃないし。そして今、すごくいい感じなのよ。リズムも合うし、練習試合の勝率も上がっている。そして何より……真面目で努力家。背番号を勝ち取るために、誰よりも汗をかいてきたと思う」

「え! 背番号取ったんだ! すごいじゃん、それ」

「うん。……あいつも、相当しんどかったと思う。転校してきたばかりでいきなり背番号もらうなんて、周りが黙ってるわけないからな。だから、言葉じゃなくて行動で信頼を積み上げてきたんだと思う。自分がどれだけここで本気か、証明するために……。あぁ 、だからかもな。朝も余裕なくて、千紗に挨拶に行けなかったんだろうな」

 私は少し目を細め、心の中で頷いた。

「なるほどなあ……てか、なんかさ、信二……お父さんみたいだね(笑)」

 わざと冗談めかして言うと、信二は思わず吹き出した。

「やめろって……でも、まあ、あいつってさ」

「ん?」

 一瞬、言葉を選ぶように目を泳がせ、けれど口を噤む。

「……いや、なんでもない。とにかく、俺たちは甲子園を目指す。それは変わらない。だからさ、吹部も全力で応援してくれよな!」

「うん、熱中症で倒れるくらい、全力でね」

「おい、倒れるな!」

「おい気様らああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」

 気が付くと、松田君たちが遠巻きにこちらをにらみつけ、顔を真っ赤にして拳を振っていた。まるで「全員戦場へ!」とでも言いたげな気迫だ。机の角に肘をぶつけながらも、まったく気にしていない。

「信二! これから戦場だぞ! リア充はしっかり働いてカップル税を払え!」

 その一言で、クラスのクセ強男子軍団が信二を両脇からつかみ、力強く引きずり出す。足音が廊下にドンドン響き渡り、周囲のクラスメイトが思わず目を見開く。

「ちょ、ちょっと待て!」

「黙れリア充。爆発しろ!」

「く、くそが、お前ら……あ、千紗、あとでな」

 信二の小声に、私は自然に微笑み返す。

「うん。あとでプラネタリウムのクラスでね」

 その一言を聞いた瞬間、松田君たちは思わず「きゅええええええ!」と悲鳴をあげ、さらに力を込めて信二を教室から引っ張りだした。足が宙を舞うような勢いで、周囲の机や椅子もかすかに揺れる。

 私は後ろで深呼吸し、心の中で小さく笑う。こんなバカ騒ぎに巻き込まれるのは毎年恒例だけれど、やっぱりこの空気が学園祭の醍醐味なのだと実感する。

 そして、学園祭二日目の熱狂は、こうしていよいよ本格的に幕を開けたのだった。





 午前中のシフトも終わり、瑠璃と一緒に各クラスの出し物を一通り見て回ったあと、信二との待ち合わせ場所であるプラネタリウムの教室へと向かった。

 瑠璃は相変わらず調子のいい笑顔で、「旦那と楽しんできて~」なんて茶化していたが、その横顔はどこか私以上にわくわくしているように見えた。思わず「私より楽しみにしてない?」と突っ込みたくなるくらいだ。

 学園祭の日の学校は、一年間の中で、私が一番好きな顔をしている。

 カラフルな装飾や屋台の匂いもそうだが、それ以上に――校舎全体に、幸せと熱気が満ち溢れていて、歩いているだけで胸がふわりと浮くような、特別な空気が広がっている。その空間が、私はたまらなく好きだった。

 北館から南館へと渡り廊下を抜けると、目的の二年二組の教室が見えてきた。黒いカーテンが隙間なく貼られ、扉の外にまで星空のポスターが貼られている。そこがプラネタリウムをしているクラスだ。

 そして、その教室の前に――ひときわすらりと背の高い人影が立っていた。

 通り過ぎる生徒たちが思わず視線を向けるほど、凛とした雰囲気をまとった姿。

「……工藤君?」

 思わず声をかけると、工藤君は軽く肩を揺らし、驚いたようにこちらを振り返った。けれど、その驚きはほんの一瞬だけ。すぐに、あの朝と同じ、爽やかな笑みを浮かべてくる。

「お疲れ様です。橘先輩」

 変わらぬ低く落ち着いた声。けれど久しぶりに聞くその響きが、妙に心臓をくすぐる。

「随分久しぶりだね。元気だった?」

「ええ。おかげさまで、学校にも慣れました」

「そっか。でも……」

 言いかけて、ふと胸がざわついた。――朝、信二に言われたことが頭をよぎる。本当にもし、私、嫌われていたら……?

「先輩?」

 工藤君が不思議そうに首をかしげる。視線が真っ直ぐすぎて、余計に心臓が落ち着かない。

 でも、まあ、普通に考えすぎかもしれない。だから、思い切って口にした。

「ねえ工藤君。最近、朝、朱雀会館の前に来ないよね? どうしたの?」

 少し声が震えてしまった気がする。けれど、工藤君は一拍おいて、にっこりと笑った。

「あはは。たまたまです。いい走るコースを新しく見つけただけです」

 あ。これ、嘘だ。

 その軽い調子が逆に決定的だった。胸の奥に小さな棘が刺さる。なんで、わざわざ嘘をついたんだろう。――もしかして本当に、私、嫌われている?

 考えた瞬間、足の裏から冷たいものが這い上がってきた。

 そう思ったからかもしれない。きっと私の表情に出てしまったのだろう。それを見た工藤君の顔にもかすかな影が差し、どこか申し訳なさそうに眉を下げた。

 その視線にさらに私の胸は詰まり、私は慌てて笑顔を作った。

 大丈夫、平気。そう自分に言い聞かせながら、言葉を押し出す。

「ま、まあ……ちょっと寂しかったかな。何せ転校の後、部活に馴染めないって私にも相談していたしさ。気になった、みたいな?」

「あ、あはは……す、すみません。今後は気を付けます」

 頭をかく工藤君の仕草が妙にぎこちなくて、余計に胸がちくりとする。

「ま、まあ……失敗ってあることよ。で、でも……報連相は大切よ? ほら、チームワークの基本!」

 自分で言いながら、何を言ってるんだろうと顔が熱くなる。工藤君は困ったように笑って、頷いてみせた。

「そ、それより……あれ? 工藤君のクラスはここだっけ?」

「い、いえ。そういう訳ではないんですが、その……プラネタリウムを見たいと言ったら、誘われて」

「お~? もしかしてそれは……女の子?」

 わざとからかうように声を弾ませると、工藤君は慌てて両手を振った。

「いえいえ! 雪ですよ。雪に誘われて。シフトの空きがたまたま一緒だったので、それでってことです」

「雪ちゃん?」

「はい。だから本当に、それ以上の意味は……」

 必死に否定する彼に、少しだけ胸の奥が軽くなる。私はなんとなく視線を彼の手首へと移した。

 ちゃんと、クラスオリジナルの学園祭Tシャツと同じ色のリストバンドをしている。――なるほど、まだそこまで、ね。

「先輩? なんで手首をじろじろと……」

「ふふふ。この後が楽しみだね」

「は? え、ちょ、楽しみって何が……?」

 工藤君が本気で戸惑っている様子に、思わず吹き出しそうになる。

 そのとき――プラネタリウムの教室から、坊主頭の男子二人が勢いよく飛び出してきた。

「うおおお! おい、光じゃん!」

 大声をあげたのは、背が高くて人懐っこそうな顔立ちの方。体全体で驚きを表現するようにバタバタ動いていて、いかにも“いい人そうな馬鹿”という雰囲気を漂わせている。

「ああ、光じゃないか」

 もう一人は低めの声で、どこかドライに吐き捨てるように言った。目つきが鋭く、こちらを一瞥するだけで少し背筋が伸びる。

「りん、はじめ……どうしたお前ら?」

 工藤君が声をかけると、先に口を開いたのは元気な方だった。

「やべえぞ光! 正門に他校の男子がカチコミに来てな! サッカー部の松田先輩や剣道部の須賀先輩が、大食いホットドック&ムーンウォーク対決で迎え撃ってるんだよ!」

 興奮しすぎて唾を飛ばしながら叫ぶ。どうやらこちらが“はじめ”らしい。

「……キャプテンまで巻き込まれてるらしいな」

 鋭い目つきの“りん”が冷静に補足する。その声には焦りよりも冷ややかな響きがある。

「お、大食いホットドック&ムーンウォーク……?」

 工藤君が目を瞬かせて呟く。

「そうそう! ムーンウォークし続けながら、ホットドックを大食いする伝統バトルだよ! しかし奴らも手ごわいから、下の学年の逸材である俺らも招集されたんだ! 俺なんか今からでも練習したらワンチャンいける気がするし!」

 はじめ君は拳を握りしめて無駄にやる気満々。

「……ダンス界の巨匠こと、雪にも応援を頼んである。お前はダンス苦手だろうが、一応声はかけてやる」

 りん君は眉をわずかに動かし、まるで義務のように言い放った。

 ――あ、この二人、対照的すぎる。

 初対面の私ですら一瞬で性格が分かるほどだった。

 工藤君は困ったように私へ視線を投げ、それから二人へ向き直る。

「いや、俺行っても戦力にならんし……。あ、ちな、この人、橘先輩ね」

「えっ! キャプテンの彼女さん!?」

 はじめ君が目をまん丸にして、バタバタとその場で飛び跳ねる。

「……なるほど。噂通りですね」

 りん君は短くそう言って、軽く頭を下げた。動作は礼儀正しいが、どこか威圧感がある。

「「いつもキャプテンがお世話になっております!」」

 二人の声が揃い、坊主頭が同時にくりんと下がる。光を反射して妙にまぶしい。思わず私も反射的に会釈を返してしまった。

 しかし彼らは頭を上げるなり、もう前だけを見据えていた。

「よし、行くぞりん!」

「……ああ、仕方ない」

 次の瞬間、二人はまるで戦地に向かう兵士のように一直線に駆け出していった。

「……なんだったんだろ」

 私が思わず呟くと、工藤君も「さあ……」と苦笑し、自然に顔が合った。

 ――何か、懐かしい。

 この一瞬のくだらなさすら、どこか心を温めてくれる。

「で、どうする、工藤君?」

「まあ……雪も来れないだろうし……」

「一緒に入る?」

「え、でも……先輩はキャプテンと見に来たんじゃ……」

 その気遣いが逆におかしくて、私はつい声を立てて笑ってしまった。

「あはは。まあ別にこれは不倫でもないでしょう? 事故みたいなものだし、そもそも信二なら困っている人助けたくて、あっちに行っちゃうでしょ? それに――私は、プラネタリウムを見たいの。君も見たいでしょう?」

 言い切ると、工藤君は少しだけ口元を緩め、小さく頷いた。

「……ですね」

 そして私たちは肩を並べて、暗い星空の世界へと足を踏み入れた。

 プラネタリウム……とはいえ、簡易的なものだった。

 教室に黒い幕が垂らされ、家庭用よりは少し本格的なプラネタリウムの機械が、真ん中にどんと置かれている。一応ドリンクも販売されていて、雰囲気としては、プラネタリウムというより、ちょっと薄暗いカフェのようだった。

「プラネタリウムっていうより、なんか薄暗いカフェですね」

 工藤君のその同じ例えに、思わず笑みがこぼれる。

 席はカップルでいっぱいだった。……それにしても、はじめ君とりん君は、ここで何をしていたのだろうか。工藤君と同じクラスだから、このクラスではないはず。あの坊主頭コンビ、どうもよく分からない。そんなことをぼんやり考えていると、幸い空いている席が一つ見つかった。私たちは隣同士に座り、ドリンクを注文してから、一応プラネタリウムを眺めた。

 ――そういえば、プラネタリウムを最後に見たのは、昨年の11月だった。大気君と並んで椅子に沈み込み、星空に飲み込まれるように見上げたあの夜以来だ。

「なつかしいな」

 ぽろっと口にしたその言葉に、工藤君はすぐに反応した。

「俺もです」

 低く落ち着いた声が、教室の暗がりに静かに響く。

「ご、ごめん、独り言」

「いやいや、別に気にしないでください。でも、俺も久しぶりですよ、プラネタリウム」

「そうなんだ。東京にも、たくさんプラネタリウムあるでしょう?」

「はい、横浜が近かったので、そのあたりにはもっと立派なものもありました。それでも、やっぱり山梨の空が好きです。プラネタリウムみたいで」

「プラネタリウムみたい?」

「ええ。東京だと夜空がよく見えないし、プラネタリウムに行っても人が多すぎて落ち着かなくて。だから、今日みたいに、静かに夜空を楽しめる時間が、すごく貴重なんです。リラックスもできますし。何か現実から離れられるみたいな……まあ、簡易的ですが。あはは」

 私は小さく息をつく。彼の言葉は、どこか懐かしい記憶の扉をそっと押すようで、胸がじんわりと温かくなる。

「そうだね。愛宕山のプラネタリウムのあと、山の上から見た夜空も、すごく綺麗だったなって思う。いい思い出」

 星空を見上げながら、うわの空になってしまっても、工藤君は優しく相槌を返してくれる。

「そうですね……”冬の夜空”は、より澄んで綺麗に見えますよね」

「……え?」

「どうしましたか、先輩?」

 工藤君の視線が、ぼんやりと私を見つめる。

「う、ううん、なんでもない」

 思わず視線を逸らす。

 ちょうどそのタイミングで、頼んでいたコーラが運ばれてきた。私はストローを手に取り、思わず一口で飲み干す。

 たまたまかもしれない――けれど、あの文脈で彼が冬の空の話を口にしたことが、胸の奥でざわりと響いた。少し怖くて、でも同時に思い出したくない何かに触れそうで、私はその感情に蓋をした。

「……冬の空、好きなの?」

 思わず出た自分の声に、内心で驚く。

 それでも工藤君は、先ほどと変わらず、静かにプラネタリウムを見つめている。

「ええ、なんだか、冬の空は特別に感じるんです。澄んで、静かで……俺にとっては落ち着くし、何よりも宝物みたいな時間だったんですよね」

 彼は小さく笑う。その口元の影が、暗い教室の中でわずかに光を帯びていた。


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