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2017年5月31日(水)16時55分

 2017年5月31日(水)16時55分


 ――ズバン。

「ナイスボール!」

 外角低めに、糸を引くように決まったストレート。

 乾いた音と共にミットが鳴ると、俺は軽快な声でそれを讃え、ボールを掌で転がしてから、ふわりとピッチャーの東へと返した。

 その胸の奥では、ひっそりと感嘆の声を漏らしていた。

 重い。

 三年前より、確かに重い。

 そして……、速い。

 あの頃は未完成だった球筋に、いまは芯がある。

 うん、いい球だ。

「なぁ、信二! 今のどう?」

「ああ、いい感じだな。だいぶ仕上がってんじゃねーの」

「はっ、相変わらずテキトーだな、お前」

 東がグラブを外しながらそうつぶやく。俺はそれに無言で頷き、その言葉の裏にある納得を感じ取った。

 そして俺たちは、いつも通りの足並みで、ブルペンをあとにした。

「肘の調子、良さそうだな」

「ん? あぁ、そうだね。もう別にどうったことはないよ。完治、完治」

 東仁。

 第二甲府高校野球部のエースは独特のフォームのサウスポーだ。

 サブマリン投法。

 まるで潜水艦が水面下を進むように、ボールが低い位置からぐわっと浮き上がってくる。普通の投手が上から振り下ろすフォームと違って、打者にとってはタイミングも軌道も読みにくい。

 それに加えて、東の球はコントロールが抜群に良い。どんな場面でも狙ったコースにビシッと決まるから、打者はたまったもんじゃない。今年の県内でも、間違いなくトップクラスのピッチャーだと胸を張って言える。

「でもなあ……やっぱ、気持ちいなぁ」

 東がぽつりと呟く。

「は? 変態か?」

「ち、違うわ! やっと理想に近づいてきたなって思っただけだわ!! …… まあそれに、中学の頃なんか、こんな球投げられるなんて夢にも思わなかったし……」

 東は少し乾いた笑いをした。

 東仁という男は、高校に入ってからの一年秋大会で突然その才能を開花させた。いや、正確には「覚醒」したと言った方がいいかもしれない。

 もともと中学時代、特に目立つ投手ではなかった。

 今とは全く違う上投げのフォームで、どこにでもいるような平凡な三番手投手。敗戦処理的な役割を与えられ、本人もその立場に苦しんでいた。

 だからこそ、高校に入ってすぐ、東はフォームの全面的な見直しに挑んだ。

 当時の第二甲府は決して強豪とは言えなかったが、東本人も何かを変えなければレギュラーすら取れないと感じていた。中学三年間の虚無感を思い返せば、すぐにでも変わらなければという強い覚悟があったのだろう。

 俺もまた、一年で正捕手になる機会もなく暇を持て余していたため、必死に東の練習に付き合った。

 フォーム改造は試行錯誤の連続で、サイドスローも試してみたが、どれもしっくりこなかった。さすがに監督も心配になり、信二と相談し、体への負担が大きすぎるため限界を示した。

 そんな中、東がたまたま試してみたのが「サブマリン」フォームだった。

 最初は半分冗談みたいな感じで、軽い気持ちで投げてみただけだったけど、これが妙にハマった。

 高校野球の怖さは、ほんのわずかな違いが、非凡と平凡の差を生むことだ。

 東は水を得た魚のように、見る見るうちに成長した。

 一年秋の大会では中継ぎと抑えを任され、三振を量産してはベンチを沸かせ、気づけばレギュラーの座を掴んでいた。マウンドに立つたび、その姿はまぶしい光を帯びていた。

 二年春――ついに三年生からエースの座を奪い取る。数字は語り、防御率も奪三振率も、すべてがチームトップ。彼が立つだけで、守備陣の足音が噛み合い、試合の空気が一段引き締まった。

 三年生たちも悔しさを隠せなかったが、それ以上に認めざるを得なかった。東は、第二甲府の急成長を支える確かなエンジンだった。

 けれど、本人は違った。

「……でもなあ」

 夕暮れに染まるグラウンドを見つめながら、東はぽつりとこぼす。

「まだ、あの頃の大気に比べたら、劣ってるのかもな」

「東……」

 俺は言葉を探したが、軽い慰めを口にすることはできなかった。

 去年の夏、最終的にエースナンバーを背負ったのは確かに大気だった。東にとっては一つ下の後輩にエースの座を奪われた格好だ。技術の差もあったが、経験値と成功体験の差。その積み重ねが、大気を“エースらしく”見せていた。

 ――だからといって、東が眩しくなかったわけじゃない。

 けれどその思いは胸の奥にしまい、俺はただ沈黙を選んだ。

「本当にあいつ、すげえよな。一年の春からずっとさ」

 東がふと、何かを思い出すみたいに呟いた。

「……そうか?」

「そうだって。信二は昔から知ってるから分かると思うけど、マジで別格だよ。こんなに早く高校に慣れるやつ、見たことねえ。メンタルもおかしいしさ。『このチームのエースは俺っしょ?』って、一年の春から堂々と言い切ってたからな、あいつ」

 東が笑いながら言うと、俺も思い出したように鼻で笑った。

「あー、そうだったな。ランニングのときも、東の後ろでわざとペース上げてさ。『東先輩、もうバテました?』とか言っていたな。マジでうざかったな」

「それでいて、本気で抜かそうとしてくるしさ?」

「ああ。んで、東を抜けないと『まだ足が春休みなんで』なんて言い訳してさ」

 二人は顔を見合わせると、同時に吹き出した。

「でも、あいつ、マジで練習だけは誰より真面目だったし……。実力だって、やっぱ俺より上だよ」

 東の声には、悔しさよりも素直な敬意がにじんでいた。

「いや、どうかな。――クソだと思うけどな」

 俺はわざと吐き捨てるように言った。

「はは、さすが信二。言い方きっついな」

 東が肩をすくめる。

 その軽口の余韻が途切れたあと、俺は口を開いた。

「ああ。どんな形であれ、最終的に“急にいなくなる”奴は……俺はエースとして認めない。たとえ親友でも」

 静かな声だった。怒りでも嘲りでもない。ただ、真っ直ぐで冷たい刃のような言葉。

 東は目を伏せ、唇を結んだ。

 俺自身、あの12月15日に責任がなかったかと問われれば――いや、少しはあると思う。

 千紗にも、大気自身にも、それぞれ理由はあったが、一番の原因はあの犯人だろう。

 けれど、結果だけを見れば事実はひとつ。エースの大気が“いなくなった”。

 その喪失は、野球部にとって致命的な穴を開けた。精神的な柱、象徴、中心――。

 一年の大気が東からエースナンバーを奪った時点で、チームは中長期的に「輿水大気を中心にしたチーム」へと姿を変えていた。

 大気の特性を最大限に引き出し、弱点を補うために――守備も攻撃も、采配すらも、すべてが大気を軸に再構築されていった。

 最初は戸惑いや警戒もあったが、一年生ながら甲子園予選決勝まで投げ切ったという事実は、仲間たちの間に確かな信頼を芽生えさせ、やがて誰もが「大気で勝つ」という共通認識を持つようになった。よくも悪くも、このチームは「輿水大気」という存在で成り立っていたのだ。

 だからこそ――その突然の不在は、全員の心に深い亀裂を生んだ。

 チームには虚脱感が漂い、「第二甲府はもう終わったな」という冷ややかな噂が、風に乗ってグラウンドに届いてきた。誇りも、牙も、すっかり抜け落ちたかのように見えた。

 そんな中――。

 東は、再び自らの意思でエースナンバーを背負った。

 誰かに押し付けられたわけでも、命令されたわけでもない。自分で手を挙げ、あの番号を引き取ったのだ。

 本来なら、エースナンバーは実力で奪い返すものだ。それを、空席を埋めるように引き受けるのは、どれほど苦い決断だっただろうか。きっと、胸の奥には計り知れない葛藤があったはずだ。

 それでも、東は笑った。「任せとけ」とでも言うように、あっけらかんとした笑顔で、重圧を冗談のように塗り替えた。周りには気づかれないように――いや、気づかせないように。

 もしかすると、無理をしていたのかもしれない。実際、その投球を見ていると、ふとした瞬間にふらつくような影を感じることがあった。

 でも、逃げ場はなかった。頼れる投手も、支えてくれるライバルも、もうどこにもいない。東は、ただ一人ですべてを背負ったのだ。

 結果、それが東仁というエースをさらに磨き上げ、うちら三年生の代のチームをもう一度まとめる力にもなった。正直、あのとき東がいてくれて、本当に良かったと思う。

「なあ」

 横を歩く東の声で、意識が現実に引き戻される。彼は立ち止まり、じっと遠くを見ていた。

「どうした?」

 俺もその視線を追う。

 夕暮れのグラウンドの端で、ひとり黙々とキャッチボールを繰り返す影があった。

 ボールがミットに収まる乾いた音が、静かな空気の中でひときわ響く。

「……工藤だ」

 東が小さくつぶやいた。

 高身長で、どこか涼しげな雰囲気をまとっている。

 あいつ、まるでモデルみたいな顔してるんだよな――そんな印象が先に立つ。

 工藤光。

 ゴールデンウイーク前から練習に顔を出していたが、正式に転校してきたのは五月になってからのことだ。今は、はじめとキャッチボールをしている。

 立ち投げとはいえ、相手の胸にまっすぐ吸い込まれるように届くボール。しなやかな腕の振りと、柔らかな背中のライン。

 球速が特別あるわけじゃない。けれど、そのストレートはやけに綺麗で、無駄な力が一切そぎ落とされているのが見て取れた。

「……綺麗だな」

「……ああ。そうだな」

 短く返した俺に、東がちらと視線を寄越す。

「ようやく、りんやはじめと仲直りしたんだろ?」

「ああ、それっぽいな。日曜に二人して俺のところに来てさ。“すみません、ガキっぽくて”って頭下げられたよ」

「はは。健気でいいじゃないか」

 東が少し間を置いて、思い出したように言った。

「そういえば工藤自身も、何か変わったよな?」

「変わった?」

「ああ。俺の見方かもしれないけど……前より練習にのめり込んでる。慣れてきた、って言えるのかもしれない。でも、それ以上に少し――入り込みすぎてる気がする」

 言われて、俺も記憶をたどる。

 そうだ。先週の練習後に少し話してから、何かスイッチが入ったみたいにがむしゃらに動き始めた。監督とも“大きな問題じゃない”と話してはいるが、正直、オーバーワーク気味だ。これから本番を迎えると思うと、少し不安になる。

「……信二は、どうするつもりなんだ?」

「何のことだ?」

「工藤のことだよ。監督と話したんだろ? あいつ、前の学校じゃレギュラーじゃなかったんだろ?」

「ああ……そうだな。まだ決めてない。まずは練習試合でどれだけやれるか見ないと。転校理由は親の仕事だから、規定上は公式戦に出られる。でも、いきなりレギュラーってのはチームの雰囲気的に難しい」

「……でもさ、りんや、はじめみたいに、周りも少しずつ認めてきてる。夏前には信頼も勝ち取って、十分戦力になるかもしれない。……まあ、馴染むのが早すぎて、ちょっと不思議なくらいで気持ち悪いけど」

「あはは。言い方がキツいな。でも確かに、あいつは朝一番に来て、練習も全部やり切ってる。その姿勢はみんなに伝わってる。……東の言う通り、夏前には大丈夫だろうな」

「……ああ、そう思う」

 東は少し間を置いてから、小さく頷いた。

 確かに、工藤――いや、最近はもう俺も下の名前で光と呼んでいるが――光は、すっかりチームに馴染んでいた。

 入ってきてまだ日が浅いのに、妙に落ち着いていて、空気も読める。

 それに、あの人柄だ。いつも爽やかに笑って、誰にでも気さくに接し、ひとりひとりときちんと向き合う。

 最初こそ距離はあったが、気づけば上級生の俺たちですら、光の姿勢に少し刺激を受けているくらいだった。

 ――けれど、それでも。

 どこか、素直に「いいやつだ」とだけは思えない自分がいる。

 正直に言えば、認めたくない感情がある。だが、それが何なのか、自分でも掴みきれない。

「……信二」

「ん? どうした、東」

「その……言いにくいんだが……やっぱり、似てるよな。大気に」

 胸の奥に、小さな棘が刺さる音がした気がした。

「思わないか? あのフォーム。異常なくらい綺麗だ。他の仕草まで……重なるんだ」

「……」

「もちろん、一個下だからって先入観もあるだろう。性格だって全然違う。でも……そうじゃなくて、本当に似てるんだよ」

「……東」

「なあ、信二!」

 振り返る東の声には、必死さがにじんでいた。

「……大気は死んだんだ」

 一瞬、風が止まった気がした。

「いや、信二……分かってる。でもさ、こういう小説とかでさ――幽霊が帰ってくる話とかあるじゃないか。だから、俺は……」

「そうだったら、自分から『実は大気なんだ』って言うだろう」

 声を抑えつつも、俺は鋭く返す。

「で、でも……いや、何か言えない事情とかあるんじゃないか? 例えばさ……」

 東の声は、かすれそうになりながらも必死に食い下がる。

「やめろ!」

 声が、思わず荒くなった。

「それ以上の空想は、かなり光に失礼だぞ! あいつは工藤光という……一個人なんだ。フォームなんて、お前みたいに特殊じゃなければ似てるやつなんていくらでもいる。それに……」

 言葉を噛みしめ、強く吐き出す。

「たとえ大気が幽霊で帰ってきたとしても――もう東がエースだ。幽霊の居場所なんか、どこにもねえよ……」

 あの日。

 昨年の12月15日。治療室に運ばれた大気と、最後にほんの少しだけ会話ができた。

 血に染まり、生気を失っていく顔。酸素マスク越しの呼吸音は弱々しく、看護師の慌ただしい声が響く中で、俺の耳には大気の荒い息遣いしか届かなかった。

 それでも生きてほしくて、俺は必死に呼びかけ続けた。

「大気! おい、しっかりしろ! 甲子園は? 一緒に行くだろ? 俺たちの夢、まだ終わってねぇんだぞ!」

 手を握る。冷たい。握り返してくれない。

 大気は「あ、あ……」と声にならぬ息を漏らすばかりで、どんどん顔が蒼白に変わっていった。

 焦りが喉を締めつけ、思わず叫んでいた。

「大気! 千紗をどうするんだ! そうじゃなきゃ……俺が千紗を取っちまうぞ! この野郎!!!」

 その瞬間、朦朧としていた大気の瞳がかすかに揺れ、まっすぐ俺を捉えた。

 その瞳は、確かに気力に満ちていた。

 ――そうだ。そうだ。いつもの通り、「ふざけんな」って言ってくれ。

 しかし、数秒の間が空いた。

 そして、最後の力を振り絞るように口を動かしたのは、俺が期待していた罵声ではなかった。

「……だ……の……、む」

 弱い声が、俺の胸を突き抜ける。

 それきり、大気は帰ってこなかった。

 握っていた手から、温もりがゆっくりと抜け落ちていくのを、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

 俺はその言葉に、ひどく失望した。

 もっと生にしがみつく叫びを聞きたかった。俺に牙をむいてでも、生きる意思を見せてほしかった。

 けれど残ったのは、ただ「託す」という静かな響きだけだった。

 でも――。

 俺の言葉にほんの少しだけ笑みを浮かべて、安心したように目を閉じた。あいつはそうして、旅立っていった。

 だからこそ、その約束を果たすしかない。

 ――甲子園。そして千紗。

 何があっても、俺たち自身の力で成し遂げてやる。這いつくばってでも、出場し、そして千紗を幸せにしてやる。必ず。絶対に。たとえどんなに俺自身が苦しんでも。

 信二はふと、グラウンドの先に視線を移した。

 はじめに向かって白球を放る光の背中。その一投ごとに、夏の熱気がじわりと立ち上り、グラウンドの空気を震わせている気がした。

 ――だが。

 俺はお前を、大気とは絶対に認めない。

 どれほど似ていようと、大気の代わりなんかではない。

 その誓いだけは、胸の奥で燃え続けていた。

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