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2017年5月24日(水)11時55分

 2017年5月24日(水)11時55分


 三年生の教室には、どうにも重たい空気が沈殿している。

 井上先輩に受験応援のキットカットを届けたとき、初めてこの教室に足を踏み入れた。あのときのピリッとした緊張感――「ここ、本当に同じ学校?」って思わず心の中で悲鳴をあげたのを、今でもよく覚えてる。

 でも……まだ五月。

 最後の学園祭が近づいてきてる。

 みんな、その準備に浮き足立って、時々だけど教室の空気も少し明るくなる。それはまるで、長風呂のあとに扇風機にあたったときのような爽快感で、私の胸もふわっと弾む。

「あー、千紗ー! もう全然わかんないってば! 古典なんて、マジで呪文! 『いとをかし』って、いとこが面白いって意味だっけ?」

 気づけば、午前中の授業は終わっていた。張り詰めていた空気がいっせいにほどけて、教室が笑い声とおしゃべりで満ちる。

 ……どうせ、あの先生、また号令もせずに退散したんだろうな。

 職員室で「俺、今日も消え方キレてたわ〜」って自画自賛してそう。

 そんなことを思っていると、いつものように同じ部活の瑠璃が、椅子をズリズリ近づけてくる。もちろん、安定の満面の笑み。いや、これは笑みというより、ほぼ『無限太陽光発電機』だろうか。

「千紗、助けてー。もう古典が敵にしか見えない!」

「……はあ、またか。先週は”ワタシ、コテン、トモダチ”って言ってなかった?」

「うん。でも先週の私と今日の私は別人だから!」

 堂々と言い切るその顔に、私はつい笑ってしまう。

「ねぇってば!!」

「はいはい。で、なに?」

「千紗先生、ここがわかりませぬ!」

 差し出された古典の小テストの答案用紙。

 点数を見て、思わず吹き出した。……まぁ、これが瑠璃クオリティーだよね。

「もう、そういうのは先生に聞けばいいでしょ?」

「だってー、あの先生より千紗に聞いたほうがわかりやすいもん!」

 その言葉に、ふっと笑みがこぼれる。

 瑠璃のこういうストレートなところが、私はやっぱ好きだった。

 思ったことを隠さず言ってくれるし、顔に全部出てしまう。

 だからこそ、今年もまた同じクラスになれたことが、私は本当に嬉しかった。

「おい、山見……。あんまり千紗にダル絡みすんなよ」

 低い声が横から割って入る。振り向けば、真面目なオーラがやたら目立つ野球部員。そう、三浦信二が、いかにも面倒くさそうに立っていた。

 ……あー、また始まった。

 瑠璃vs信二。三年になっても、この仁義なき抗争は続くらしい。

「は? ……あ、何だ”真面目バカ信二”か」

「何だじゃねーよ。呼んでんだろ、ちゃんと返事しろよ」

「うっさいなー、今は千紗と真剣にお勉強中なんだけど?」

「そういう千紗の時間を奪うとこがさ、千紗の迷惑になるだろって言ってんだけど」

「うるっさいなー……あっ! あー、はいはいはい。なるほどなるほど、そういうことね」

「……は?」

「信二の、Y・A・K・I・M・O・C・H・I♡ でしょ?」

「はあ?!?」

「だっ! かっ! らっ! 私と千紗が仲良くしてるのが、気に食わないんでしょ〜?」

「ち、ちげーし!!」

「いやいや〜、信二はわかってないなあ。私と千紗の絆はもう尊いのよ? 前世からの関係だし、アスファルトより熱いんだから! つまり、私が公式妻!」

「だ、だから、焼きもちじゃねえよ! ちげーよ!」

 信二は、耳まで真っ赤にして、あからさまに目をそらす。野球部じゃストイックで、真面目すぎて「キャプテンは別格」なんて言われる彼を、こんなにぐちゃぐちゃにできるのは、きっと瑠璃と私くらいだ。

「おばかだな〜信二は。そこはさ、『俺の女に手ぇ出すな!!』って言えばいいのに!」

「ち、違う! 違うから! とにかく千紗、お前、瑠璃に甘過ぎ!」

「三浦はキャプテンぶってばっかり。もっとストレートに言えばいいじゃん、毎朝『アモーレ♡』って!」

「アモーレ言うかバカ!!」

 信二はますます真っ赤になって、もう顔というより真っ赤な信号みたいだ。

 瑠璃はそんな信二を見て、ゲラゲラ笑っている。でも、その笑いの奥には、ちゃんと私たちを応援してくれている気持ちが伝わってくる。

 最近、つくづく思う。こうして普通に笑って過ごせることが、どれだけありがたいことか。あの、胸が張り裂けそうだった日々を思い返すと、なおさらそう感じる。

 今年の二月。私はようやく、少しずつ「回復」と呼べる状態に近づき始めていた。

 もちろん、瑠璃や信二のサポートがあったおかげである。

 だけど、それ以上に、週に二度のカウンセリングの時間も、大きな助けになった。

 先生とノートを広げ、出来事を「過去」と「現在」に分けて書き出す――ただそれだけの練習だが、意外に手強い。

 嫌な記憶が浮かんだときは、声に出してこう言う。

 ――これは過去の映像。私はいま、現在にいる。

 最初は胸がぎゅっと締めつけられて、声も出せなかった。息をするのもつらく感じるほどだった。

 けれど、何度も何度も繰り返すうちに、思い出す頻度も、胸の痛みも、少しずつ和らいでいった。

 ――だから、もう大丈夫。

 事件のことも、意識的に思い出さなければ、考えなくなった。まるで、「忘れる」ことが、立ち直りに直結しているように思えて、さらに私は安心していった。

 そして、三月前半には勉強にも集中できるようになり、部活の練習も本格的に再開。迎えた四月の定期演奏会は、練習時間がほとんど無い中でも、予想以上に上手くいった。拍手を浴びた瞬間、胸の奥がふわっと軽くなって――私はようやく、ここまで戻ってこられたのだと実感した。

 ――その日の夜。

「千紗。付き合ってほしい」

 突然の信二の告白に、私は思わず息を止めた。

 彼が私に気持ちを寄せていたことは知っていたし、その真面目さと優しさには、ずっと助けられてきた。特に、一番苦しい時期にはお互いに最も近くにいて、励まし合った。本当に戦友のような存在だ。

 だからこそ、返事をした。もう、返事をためらうなんてことはしたくなかった――けれど。

「……は、……ぃ……」

 声を絞り出すように、ぎこちなく。

 今思い返すと、信二には「断られると思ったわ(笑)」と、よく笑われるくらい、どこかのどに詰まった返事だった。なぜあんなに言葉がつっかえたのか、自分でも分からない。胸の奥がひりつくようで、正直、少し怖かった。

 そういえば、もう一つ、不思議なことがあった。

 敵情視察ということで、私たちの定期演奏会に来ていた竜王高校の茜が、アンケートにこんな一文を残していた。

『全体的に素晴らしい演奏でした。ただひとつ。トランペット三年、橘千紗さん。いい加減、それっぽく”表面だけ”で吹くの、やめたら? また誰かを傷つけることになるよ。――茜』

 それを見た瞬間、雪ちゃんと瑠璃は顔を真っ赤にして怒り出した。

「なにそれ!? 失礼すぎます!」

「あのやろう、次はマジでシメる!」

 私は苦笑して受け流しながらも、胸の奥が妙にざわついていた。

 どういう意味なんだろう。ブランクはあったけれど、定期演奏会での演奏は去年より確実に上達していたし、ソロの表現の幅も広げられたはずだ。

 ……それでも。

 茜の言葉は、不思議なくらい重く響いた。

 彼女は嫌なやつ。でも、嘘だけは言わない。

 その瞬間、閉じ込めていたはずの小さな不安が、またひっそりと顔をのぞかせた。

「おい、千紗、大丈夫か?」

 信二の声が響き、思考の深い渦から一気に引き戻される。

「えっ?」

「いや、だからさっきから呼んでるんだけど……本当に大丈夫? やけに深刻な顔してたから」

 信二は眉を寄せ、目に本気の心配が浮かんでいる。

「う、うん! 全然、大丈夫!」

 必死に笑顔を作るけれど、隣にいる瑠璃も心配そうにこちらを見つめている。

 やばい、変に心配させちゃった……。

 焦る気持ちに押されるように、私はつい口を開いた。

「本当だって! ただ……そう! そろそろ、夏のコンクールに向けて、ちゃんと頑張らなきゃって思っただけだから!」

 咄嗟に飛び出した言い訳は、自分でも苦しくて笑えそうになる。

 瑠璃は「はあ……」と小さくため息をつき、信二はまだ心配そうに私を見つめていた。

 これはやばい、と私は思わず肩をすくめ、慌てて笑いながら話題を変えようとした。

「それよりさー、聞いてよ! 野球部だって、夏の大会まであと少しでしょ? 新入生も入ったし、あ、そうそう、工藤君はどうなの? 東京から転校してきた二年生の子だよね? 最近調子どう?」

「え?! 誰その子!? なんで千紗が野球部の子知っているの? ねぇ、詳しく!」

 案の定、瑠璃は目をキラキラさせてエサに食いついてきた。良かったと一瞬安心したが、ただ、誤算だったのは、その天才的な頭の中で勝手にいろんな想像を膨らませているらしいことだ。

「違うって、別にそんなんじゃないし!」

「あーもう、絶対秘密の関係とかでしょ!? 不倫ですか、信二ピンチじゃん!」

「童よ、落ち着きなさいよ……」

「千紗、正直に言いなさいよ! ほら、早く!!!」

 私の呆れ笑いなんてお構いなしで、瑠璃は全力で騒ぐ。

 その様子を見た信二は、小さく肩をすくめてため息を吐いた。しかし、一瞬だけくしゃっと笑みを浮かべ、すぐにいつもの落ち着いた表情に戻った。

「だーまーれ、山見。俺が話したんだ、転校生がいるってな。ちょっとまだチームに馴染めてなくて、千紗にも相談したんだ。だから、千紗も気になったんだろう? まあ工藤自身はゴールデンウイークの合宿にも参加してたし……まだ来たばかりだから何とも言えないけど、朝の自主練とか、頑張っているらしいよ。真面目にやってるのは確かだ」

「ふーん、てっきり不倫かと思ったのに」

 興味がなくなったのか、瑠璃はちょっと肩を落とす。

「まったく、騒ぎすぎ……あ、でもさ、私、朝よく朱雀会館の前で会うんだよね」

 無意識に出たその言葉で、瑠璃の目が再び輝く。

「おおっ! やっぱ不倫? 朝不倫がトレンド? ありかもねー♡」

「やーね、そんなんじゃないよ。ただ、朝たまたま会うだけ。でも、今週は一昨日と昨日、それに今日も会ってないし……そういえば、あれも不思議だったね」

「何が?」

「いや、初めて会ったとき、彼泣いてたのよ。なんでだろ……私もちょっとウルッときちゃった」

「え……なにそれ、すごくない?」

「いや、私も何でか分からなくて、ちょっと困惑してて……」

「うーん、それって……運命的な? 前世で会った的な?」

「なにそれ、ロマンチックすぎる! 向居君に聞いてみようかな、彼、恋愛マイスターだし」

「ほんとうだったらどうする? 信二から乗り換えちゃう?」

「うん、いいかもね♡」

 二人でにやりと視線を交わすと、信二の表情が少し曇った。やりすぎたかな、と慌てて、私たちは話題を戻す。

「で、でも……泣いたのとか、まあ、どうせ花粉とかじゃない?」

「そ、そうよね、花粉よね」

「そうそう、千紗も花粉症ひどいし、彼、東京から来たばかりだしね。慣れてないんだよ、きっと」

「ああ、なるほど……さすが“迷”探偵」

「おい、“めい”が間違ってるぞ」

 私達で必死のフォローをしたつもりだったが、信二の顔にはいつもの穏やかさがなかった。眉間に軽くしわを寄せ、呼吸までもが少し乱れているように見える。口を開きかけては、言葉をためらうようにつぐみ、重く絞り出すように続けた。

「なあ、千紗、あのさ――」

 思った以上に真剣な目を向けられた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。不意に、不思議な恐怖が走った。でも、その矢先――

「あっ」

 空気が一瞬、凍るように変わった。信二の視線が私から離れ、自然と教室の出入口へ向く。無意識に私も目をそちらに向けた。

 長い黒髪が肩の下で光を反射し、歩くたびに揺れる。端正な顔立ちに冷静さと威厳が宿り、その視線は教室の雑音をかき消すかのように鋭く、圧倒的な存在感を放っていた。

 瑞希。

 クラリネットパートのリーダーで、吹奏楽部の部長。そしてドラムメジャーとしてもトップクラス。私が“副”部長として補佐していても、実際は瑞希に頼りっぱなしだった。彼女が動けば、部活全体の空気まで変わる――そんな人だ。

「……ねえ、千紗、ちょっと」

 低く響く声。無表情なのに、なぜか背筋が勝手に伸びる説得力がある。

「は、はいっ!!!」

 変に力んだ声が教室に響いた。

 慌てて席を立ち、信二の言葉の続きを気にしながらも、二人に小声で「ちょ、ちょっと行ってくる!」と小声で告げると、私は急いで廊下へ向かった。

 昼休みに瑞希から声をかけられるなんて、珍しい。

 何かあったんだろうか――心の中が、ざわざわと落ち着かない。

「瑞希、珍しいね……昼休みに……げ、元気?」

「……うん」

「そっか……良かった」

「千紗、ごめん。そんなことは置いといて、本題に入っていい?」

 瑞希の言葉はいつも通り、落ち着いていて無駄がない。でも、その静けさが逆に鋭く響く。

「さっき先生と話していたの。コンクール曲、来週の日曜には候補の中から決めたいって。それを踏まえて、みんなに伝えて。あと、今週の練習メニューも組んでおいてほしいってさ」

「うん。わかった……」

 瑞希の話し方はいつもと同じ。感情をあまり表に出さない。だからこそ、三年間一緒にいても、その無表情の奥が読めなくて、どこか苦手だと感じる瞬間がある。

「それと……新しいコンクールの候補曲を一曲、追加したいって」

「え、新しい曲?」

 驚きが思わず声に出てしまう。

 すると瑞希は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「そう。だから、今から職員室に楽譜を取りに行ってほしいってさ」

「う、うん……いいけど……追加なんて、珍しいね。どうして……?」

 二人で歩き出すと、自然と歩幅が合う。

 なんだか、くすぐったいような、不思議な安心感。

「先生、今の候補曲にいまいちピンと来なかったんじゃないかな。それか、もっと私たちに合う曲を見つけたのかも。……でも正直、このタイミングで追加はリスキーだよね」

「う、うん……そうだよね……」

 もう五月。

 通常なら、四月の定期演奏会のレパートリーの中から選んで、そこから夏に向けて詰めるのがいつもの流れ。

 私も、定期演奏会の『斐伊川に流るるクシナダ姫の涙』でほぼ決まりだと思ってた。七月の本番に向けて、早めに完成度を上げたいと考えていたし――。

「まあ……これで本当に良い曲だったら、それはそれで楽しみだけどね」

 職員室前の廊下に出た瞬間、空気がふっと変わった。

 窓から吹き込む風が、頬をさらりと撫でる。青々とした木々が陽光にきらめき、どこか遠くで誰かの笑い声がはじける。

 廊下に散らばる光の粒は、まるで舞台の幕が上がる直前に漂う、静かな期待のように感じられた。

 三年目になるこの校舎、この時間、この匂い。

 来年には、もうこの場所に自分はいないのだと思うと、胸の奥がほんの少しだけ、きゅっと締めつけられる。

 それでも――いや、だからこそ。

 今をちゃんと抱きしめたい、そんな気持ちが静かに芽生える。

 小さく息を吸って、吐く。

 私は歩く。瑞希と並んで、同じリズムで。

 静かに、でも確かな足取りで、職員室の扉を押し開けた。



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