2027年5月22日(土)11時12分
2027年5月22日(土)11時12分
甲府の北の外れに、湯村という温泉場がある。
弘法大師が開いたと伝わり、戦国の世には武田信玄も陣中から通ったという名湯。長い歴史の中で、歓楽街の喧騒が過ぎ去り、寂れた外観ばかりが残る時期もあった。けれど近年の再開発で再び明かりが灯り始め、かつての記憶と新しい息吹が交錯する街へと姿を変えつつある。
その一角。温泉宿の軒を抜けた先に、小さなカフェがあった。
木製の看板は色褪せているのに、窓から差す光にどこかあたたかさが宿る。
――忘れもしない。2016年12月15日。姉と大気さんが訪れるはずだった、あの場所だ。
その約束は果たされることなく時の中に置き去りにされた。だが今日、約10年を経て、私がここに呼ばれている。人生で初めて「誰かに呼び出される」という経験を。
緊張で胸が張り詰めているのに、不思議と嫌な気持ちはなかった。むしろ、遅すぎた再会を前に、身体の奥がかすかに震えていた。
カラン……コロン……。
入口のベルが鳴った瞬間、視線が音に引き寄せられる。
白いポロシャツに、日に焼けた腕。短く刈り込まれた髪は、あの頃のまま。姿勢は少し大人びた落ち着きを帯びながらも、立っているだけで周囲の空気を変えるような存在感を放っていた。
その青年――いや、もう立派な大人になった彼は、私を見つけた途端に、「やあ、春ちゃん」と肩の力を抜いたように微笑んだ。柔らかく、けれど確かに胸を打つ笑みだった。
私は無意識に立ち上がり、背筋を伸ばして深く会釈する。
「……お久しぶりです。信二さん」
声に出した瞬間、胸の奥に忘れられない名が浮かび上がる。
姉の友人であり、輿水大気さんの親友。
そして――工藤光とバッテリーを組み、同じ夢を追いかけた捕手。
三浦信二。
約10年の歳月を越えて、彼は確かに、そこに立っていた。
*
「ごめんね、急に呼び出して」
「……いえ。”今は”暇でしたから」
「あはは、素直に“暇”って言えるあたり、相変わらず卑屈だね」
信二さんは笑い、カウンターのマスターに向かって手を上げる。
「アイスコーヒー、ブラックで」
私のカフェオレとは正反対の選択。たったそれだけで、背伸びしきれない自分との差を思い知らされる。
「で、早速だけど、本題に……」
「……何でしょう」
「この前、小野寺渚さんから聞いたよ。春ちゃんが撮影現場から外れたって」
「……ええ。私が暴力を振るったからです」
「そうか。けど――それもまた、ただの逃げじゃないのかな?」
「っ……」
その言葉が棘のように刺さり、思わず背筋が強張る。
「それを言いたいだけなら、帰ります」
「こら、春ちゃん。落ち着きなさい。君はバカじゃないだろ? 俺がわざわざ休日潰して、説教しに来ると思うか?」
信二さんは口元だけで笑い、わざと軽く肩をすくめてみせる。
「社会人はな、休みが少ないんだよ。そう簡単に無駄にはしない」
「……すみません」
謝る自分が情けない。顔が熱くなるのを隠せずにいると、信二さんがくすりと笑った。
そのタイミングで、アイスコーヒーが運ばれてくる。氷がグラスの中で小さく鳴り、沈黙を割った。信二さんは一口すすり、冷たい息を吐いてから言葉を続けた。
「俺が聞きたいのはさ、理由の方なんだ」
「理由……」
「どうせ“自分のため”じゃなかったんじゃないかな。春ちゃんはいつもそうでしょう。誰かを守ろうとして、結局自分が矢面に立つ。千紗とそっくりだね」
「……っ」
図星を突かれ、言葉を失う。
信二さんは、今度は穏やかに目を細めた。
「春ちゃんはね、もしかしたら、千紗以上に繊細で優しいと思うんだ。自分を後回しにしてしまうのは良くないけど――基本的に、人のために動くんだ。だから暴れたのも、きっと誰かを守りたかったからじゃないかな? 大気か、千紗か、スタッフか……誰かのために」
胸の奥に隠していた思いを、ぽろぽろと剥がされていく。
嬉しいような、恥ずかしいような、落ち着かない感覚がこみ上げる。
「だからさ。春ちゃんが気づいてなくても、周りはちゃんと分かってるんだよ。君の頑張りも、優しさも。ときには、君以上に認めてるくらいだ。……俺だって、大気や千紗の名誉を守ってくれて“ありがとう”って思ってる」
「で、でも……私のせいで撮影スケジュールが狂って……」
「はは。過去を考えても仕方ないさ。大事なのは“これから”どうするか。――どうせ春ちゃんのことだから、小野寺渚さんと喧嘩したことも気にしてるし、裏で脚本を書いてるんじゃないの?」
「えっ……! 渚、そこまで信二さんに……?」
「あー……ごめん。ちょっと気になって聞いちゃったんだよ。だって俺からしたら、春ちゃんは年の離れた妹みたいな存在だからさ」
「うわ……その発言、社会人が女子高校生に言いますか?」
「いやいや! 変な意味じゃないって」
「……ふふ、分かってますよ。そうですね。渚には、本当に悪いことをしたと思っています。でも……」
「でも?」
「自分が悪いって、ちゃんと分かってるからこそ……謝れないんです。謝った瞬間、軽く聞こえてしまいそうで。……今さら、って思ってしまう」
信二さんは、グラスの縁を指でなぞりながら、少し目を伏せた。
「……その気持ちは、分かるよ」
「え……」
「俺も、大事な人に言いたいことを言えないまま……二度と会えなくなったことがあるから」
低く落とした声が、かすかに震えた。胸の奥で氷がひび割れるような感覚が広がる。
「だから言うけどね。春ちゃん、その姿勢のままだと……また後悔するよ」
「……後悔?」
「もし明日、小野寺渚さんが突然いなくなったら、どうする?」
「……っ」
「いや、極端なたとえだけどさ。でも人は、明日も隣にいるとは限らないんだ。俺だって、大気や千紗が急にいなくなるなんて思ってなかった。昨日まで笑ってたのに、次の日にはもう会えない。……そんなことは、普通に起こる」
店内のざわめきが遠のき、アイスコーヒーの氷がカランと小さく鳴った。
「だからこそ、できることは今やっとけって話かな。謝るのは一度きりじゃなくていい。下手でもいい。何度だって伝えればいい。でも、先送りは良くないよ。その日できるベストをやるだけだし……小野寺渚さんなら、きっと聞いてくれる」
「……私に、できるでしょうか」
「正直なところ、分からないよ。でも、できると思ってる。じゃなきゃ、わざわざ時間作ってこんな話しに来ないよ」
視線が合った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。
私が顔を伏せると、信二さんは少しだけ口元を緩めた。
「よし。重い話はここまで。――で、出してよ」
「え?」
「修正中の脚本。どうせ持ってるんだろ」
「……なんで分かるんですか」
「小野寺渚さんが言ってた。“春は絶対に持ち歩いてる”って」
「……あいつめ」
「あはは。でもさ。当時を知ってる俺が読めば、もっとリアルになる。ほらほらほら、遠慮せずに見せてみなさい!」
「信二さん……ほんと最近、おじさんっぽくなりましたね」
「え、そこ?!」
「ふふ……まあ、分かりました。ただ今日は、別のものを持ってきてます。信二さんに聞きたいことがあって」
「あははは。最初からその気だったんだね」
信二さんに軽くからかわれながら、私はバッグから古びたキャンパスノートを取り出した。机の上にそっと置くと、信二さんの瞳が一瞬、鋭く光った。
「おおっ……ずいぶん懐かしいノートじゃないか。これ、大気の野球ノート兼、当時の日記だよな?」
「はい」
事実としては少し違う。これは工藤光として生まれ変わってから、大気さんが綴った日記だ。最初は練習の記録ばかりだったが、引っ越しを機に日々の思いも書き留めるようになり、私が『17の夏』を執筆する際、大いに参考になった。
「このノートのことなんですが……後半の脚本を修正していて、ずっと気になっていたことがあります。そもそも、大気さんはなぜ自分の正体をカミングアウトしなかったのか、と」
「え?」
信二さんの眉が一瞬上がる。私は気にせず、そのまま続けた。
「日記を見ると、大気さんは野球部の仲間や、姉との距離を縮めるのに苦労していた様子でした。でも、私が大気さんの立場なら、普通に『俺、実は大気でした!』って言うと思うんです。最初は誤解されるかもしれませんが、りんさんやはじめさんのような友人なら、最終的に理解してくれるはずですし、何より姉なら……驚くかもしれませんが、きっと受け入れてくれると思います」
信二さんは黙ったまま、ゆっくりノートの表紙を指でなぞる。
私は息を整え、さらに別の疑問を口にした。
「さらに、もう一つ気になっていることがありまして……。ここなんです。そう、ここの、このページ……」
私はノートを開き、指先である一箇所を示す。
「ここに、大気さん自身の言葉で“どう生き返ったのか”が書いてありますよね? 『神様とある約束をして、それを守るつもりだ』と。でも、ここが変なんです」
ページの文字をなぞりながら、私は言葉を続けた。
「そのあとが、鉛筆で黒塗りしてあって……。しかも、一度書いた文字に何度も鉛筆を重ねて、あとが読めないようになっています。そしてすぐに、別の話が始まっている。つまり、生き返った方法があまりにもふわっとしていて、神様とのやりとりが何も書かれていないんです」
他のページでは、日々の些細な出来事すら克明に綴られている。大気さんの視点で見たクラスの空気、姉の言葉一つひとつ、すべてが生々しく描かれているのに――この『一番核心の部分』だけが、まるで霧に包まれている。
「変ですよね……すごく気持ち悪いんです」
私はノートをめくり直しながら、もう一つの違和感に触れた。
「でも、よく見ると……ここ、このページ。生き返りについて書かれている箇所なんですが、ノートのページが切られた跡があるんです。すごくきれいに切り取られていて。これ、もともとこの『コクヨのキャンパスノート』って100枚のはずなのに、数えると――99枚しかない」
私は早口になり、呼吸が浅くなる。興奮と緊張が入り混じり、心臓の鼓動が耳に響く。
「だから……ここ。ここに、もともと“もう1ページ”あったのではないでしょうか?」
言い終えると、カフェのざわめきやカランコロンという扉の音さえ、ふっと遠くに感じられた。
信二さんは動かない。カウンターの奥で差し込む光に照らされ、ノートだけを見つめる姿は、まるで静止した彫像のようだった。
その表情を見た瞬間、私は背筋がぞくりと冷えた。
今まで見たことのない顔。瞳の奥が冷たく暗く、周囲の柔らかな空気とはまったく異質な緊張感に満ちている。
カフェの香ばしいコーヒーの匂いや、静かに流れるジャズも、耳に届かない。鼓動だけが、無遠慮に速く、浅く、耳の奥で響く。
それでも信二さんは動かず、石のようにノートを見つめ続けていた。
「あの……」
声を出さなければ、と焦る。けれど喉が詰まって、言葉は途切れがちになる。
「……」
返事はない。カフェの背景音すら、今は凍りついたように思える。
「あ、」
「……」
「えっと……」
小さく震える手を机に置き、もう一度呼吸を整える。
「……この話、千紗から何か聞かなかった?」
低く響くその声に、頭の奥がざわつく。湿った空気の中で、言葉だけが不意に刺さる。
「い、いえ……、ここに関しては、生前のインタビューでも何も言っていませんでした。むしろ、どうして大気君は生き返ったのか……疑問に思っていました」
「そう……か。生前のインタビューで……」
胸が跳ねる。乾いたその声が、頭の中で何度も反響した。
「いや……あの、その……」
言葉を繋ごうとするが、途切れがちで、手が震える。
「でも、俺も分からないな」
その一言は、拒絶の壁のようだった。冷たく、鋭く、近づこうとした私の手を振り払うかのように。
それでも――知りたい。
ここで引けば、意味がない。あんなに考え、悩み、この作品に向き合ってきたのだから。
ここにある事実で、後半の脚本も大きく変わる。キャストたちの動きや空気も、変化するに違いない。
私は深く息を吸い、覚悟を決めて顔を上げた。
「でも、私、しりた――」
「ごめん!」
強い声だった。予想以上に力強く、真っ直ぐで、私の言葉を途中で止めるほどだった。
……ごめん。
その一言に、何が込められているのか分からなかった。謝罪? 警告? それとも――懇願?
ただ一つ、確かなのは、「これ以上、触れるな」という強い線がそこにあるということ。
その後、信二さんはうっすらと笑った。
けれど、その笑みは不自然に柔らかく、優しすぎて――逆に胸を刺す。
まるで、自分の内に渦巻く感情を抑え込み、表に出さないための仮面のようだった。
「“ここ”は、知らないかな」
その一言が、私と信二さんの間に見えない境界線を描いた。




