2017年3月5日(日)5時37分
2017年3月5日(日)5時37分
春の選抜高校野球の開幕が間近に迫っている。
それをツイッターで見かけて、俺は思わず唇を噛んだ。
――クソッ。
「お前たちの代なら、こっちも狙えるかもしれないな。頑張れよ、大気」
頭の中に、東先輩の声が鮮明に響く。
俺より一つ上、投手陣の精神的柱だった東先輩。誰よりも仲間を想い、誰よりも厳しく自分を追い込んでいた。その東先輩の声さえも、今はもう遠い記憶の中の人だ。
「くそ……くそくそくそ……」
日曜の早朝。もう俺は野球部じゃない。なのに勝手に目が覚めて、身体が動き出す。
何もしないでいることが、どうしようもなく虚しく感じて、俺は走り出した。
冷えた空気を切り裂いて、ただひたすらに。
大田区の街はまだ眠りの中。高層ビルの窓は薄暗く、点々と光が灯っているだけ。甲府のゆるやかな山並みとはまるで違う、この街の冷たさに、俺はいつも少し身を縮める。
少し川崎方面に走ると、目の前に六郷橋が見えてくる。
川面に朝陽が反射して、どこか幻想的な光景だというのに、俺の胸は何か重苦しい気持ちでいっぱいだ。
どうしてこんなに気持ち悪くなるんだろう。
そんなことを考えながら走っていると、橋の反対側から誰かが走ってくるのが見えた。
薄暗い朝の空気の中で、向こうもまた、俺に気づいたらしい。
「……あ」
「なんだ、工藤か」
低く落ち着いた声が、朝の冷たい空気に溶ける。
身長は190センチをゆうに超え、俺――いや、この工藤光の身体よりもさらに大きい。ただの威圧感じゃない。立っているだけで、どこか禅僧のような静けさをまとった人がいた。
「……筒井先輩」
筒井恒星。信二と同学年で、そして……この世代のNo.1エースと呼ばれた男だ。
工藤光の所属している高校は、都内でも超名門と言えるほどではないが、それなりの強豪。その学校を、昨年の夏、そして今年の春の甲子園出場に導いた立役者が、この人だった。
「なんだ、元気そうじゃないか」
筒井先輩が、ふっと口元だけで笑う。
「あ、ええ」
「……なんだ、その返事。俺に不満でもあんのか?」
「いや、そういうわけじゃ。ただ……筒井先輩が俺のこと気にしてくれるなんて思ってなかったんで」
「はっ、俺はしっかり者だぞ?」
それは、半分どころかほとんど嘘だ。
光の記憶にも、信二と一緒にこの人と対戦した俺の記憶にも、しっかり者の要素はあまりない。試合外でのこの人は、ド天然で、さらに思考の中心は常に自分。
……けど、マウンドに立った瞬間、その集中力は凄まじく、相手打者を一人残らず食い尽くす怪物に変わる。
「あ、あはは……」
そんな人だからこそ、この俺でも、苦笑いしか返せない。
その様子を見て、筒井先輩はまた、ほんの少しだけ笑った。
「……よかった」
「何がですか?」
「ちゃんと、トレーニングは続けているな」
「……ええ。でも、もう野球部じゃないですけど」
「ああ、それは部長からも聞いた……」
筒井先輩は言葉を切り、俺の目をまっすぐ見据えた。
「……でもな。こうしてまだ未練があるんなら――戻ってくる気はないのか?」
胸の奥から、条件反射のように「戻りたい」という言葉がせり上がってくる。
今すぐにでも吐き出してしまいたかった。
……だが、次の瞬間。
俺が経験していない……工藤光の記憶が、脳の奥底から這い上がってきた。
ロッカー室の湿った匂い。
耳の奥で響く、くぐもった笑い声。
殴られかけた瞬間、空気が凍りつくように張りつめたあの感覚――。
「……っ、う」
胃の底がひっくり返るような吐き気が、急にこみ上げた。
足がわずかにもつれ、呼吸が乱れる。
「お、おい、工藤。大丈夫か?」
「……え、いや……大丈夫……です」
声は震えていた。
あの日、リーダー格を殴ろうとした瞬間、頭に血が上っていたせいで何も感じなかった。だがなぜか、今また光の痛みや恐怖が、全身を締め付けてくる。
俺はこれまで、いじめを被害者としても加害者としても経験したことがない。
だからどこかで、「もじもじしている、いじめられる側にも原因がある」なんて、薄情な考えを持っていた。
――違った。これは、身体ごと削られる感覚である。息が詰まり、精神的に逃げ場がない。
「おい、工藤。ちょっと川岸まで行こう。少し休もう」
「で、でも……先輩、走っている途中でしょう? それに今日だって……練習が……」
「平気だ」
先輩は俺の肩に軽く手を置き、視線を外さずに言った。
「今日は練習試合だが、俺は出ない」
「……え?」
「まだ故障だ」
ほんのわずか、息を吐く間があった。
「春の選抜も……ベンチ外だ」
その言葉と同時に、先輩の笑みがほんの一瞬、揺れた。
笑っているのに、目の奥が少しだけ沈んで見えた。
俺たちはそのまま、無言で川岸へ歩き出した。
靴底がアスファルトを踏む音と、遠くを走る電車の低い唸りだけが、耳に残った。
*
川面をなぞる朝靄が、白い糸のようにゆっくりとほどけていく。吐く息はまだ少し薄く煙り、風が頬をかすめるたびに、その白が形を変えて消えていった。
多摩川は、俺の知っている甲府の荒川とは別物だった。川幅も、水の匂いも、岸辺に並ぶビルの輪郭も――すべてが都会の呼吸をしている。きっと、この「夜と朝の境界」のわずかな時間だからこそ、よりこんな幻想的に見えるのだろう。
ポケットからスマホを取り出すと、画面には「6:07」。思ったよりも、まだ早い。
その瞬間、ふと、千紗先輩の姿が浮かんだ。
朱雀会館の前で、まだ薄暗い朝の空気を吸い込みながら、黙々と楽器の準備をしていたあの横顔。
俺がいなくなっても、あの場所に立っているのだろうか。
怒っているだろうか――何の説明もせず、突然消えたことに。
それに、最後の治療室でも会えなかった。
あの瞬間だけは、どうしても言葉を交わしたかったのに。
告白の返事をしっかり聞きたかったのに。
それが今も胸に引っかかっている。
そう考えが沈みかけた、その時だった。
――ひやっ。
頬に冷たいものが触れた。
「……っ!」思わず肩が跳ねる。
振り向くと、筒井先輩が立っていた。
右手には、うっすらと水滴をまとった三ツ矢サイダーの缶。
朝の光が銀色の面で跳ね、先輩の表情の半分を淡く照らしていた。
「大丈夫か?」
「あ……はい」
「なんだ、その間は」
「……いや、こういうのって、普通はカップルがやるやつだなって」
「そうなのか」
先輩は真顔のまま首を傾げた。
あまりの天然ぶりに、吹き出してしまう。
さっきまで胸を押し潰していた重さが、少しだけ軽くなるのを感じた。
怪物みたいなピッチャーなのに、どこか抜けている――それがやはり筒井恒星という人間である。
「――ようやく本音で笑ったな」
「……はい?」
「心の壁、作り過ぎなんだよ、お前は。だからさ、せっかくだし、腹を割って話そうぜ、工藤」
先輩は俺の顔をじっと見た。
「もともと、俺はお前に期待してたんだぞ」
「あはは……お世辞ですか?」
「いや、本気だ」
筒井先輩はそう言うと、すっと俺の隣に腰を下ろす。
二人の前には、朝靄をまとった川がゆるやかに流れていた。
向こう岸では犬を散歩させる老人が、ゆったりと歩いている。
時間が、急に静かになったように感じた。
「お前は……まあ、球は遅い。ストレートは絶望的だ」
心当たりは、ものすごくある。
退院して数日後、光の部屋で偶然見つけた右用のグローブ。
暇つぶしに公園へ持ち出し、壁に向かって軽く投げてみた。
本来の利き腕じゃない。だからスピードなんて出るはずがない――そう、思っていた。
……一球目を投げた瞬間、息が詰まる。
スピード以前の問題だった。
――身体が、まるで錆びついている。
肩が回らない。背中が重い。
背は高いくせに、筋肉が足りず、全身の力が逃げていく感覚。
ボールが手を離れるたび、「スカッ」と軽い音だけが虚しく響く。
苦笑しながらも、その情けなさが骨の髄にまで染みてきた。
「だがな、工藤」
先輩が視線を川から外し、俺の方を見た。
「俺はお前のスライダーに、可能性を感じてた」
「……す、すらい……だー?」
思わず鸚鵡返しになる。
「なんだお前」先輩は苦笑し、眉を上げた。
「永瀬からも聞いたけど、やっぱちょっと記憶、飛んでんじゃねえのか?」
「あ、いえ……そういうわけじゃ……」
言葉を濁す俺を、先輩は面白そうに眺め、ふっと笑った。
「自信持て。お前のあのスライダーは一級品だ」
声に迷いがなかった。
「だからこそ、その強みを伸ばすためにも、他も鍛えろ。それはコントロールやキレといった、そういう要素だけじゃない。もっとフィジカルを鍛えろ。それと――配球もだ」
「……配球、ですか?」
その言葉に、胸の奥でほこりをかぶっていた記憶が揺れる。
――信二にも、何度も同じことを言われた。試合のあと、帰り道、あの苛立った顔で。
けれど、あの頃の俺は面倒くさくて、全部右から左へ流していた。
「お前、今も“面倒くせぇ”って思ったろ?」
不意に突かれて、肩がわずかに跳ねる。
「い、いや……そんな」
「ははっ、いいさ。俺も最初はそうだった。ピッチャーなんて自己中な生き物、そんなもんさ」
筒井先輩は川面に目を戻し、風を吸い込むようにして言葉を続けた。
「だけどな、こういうのはやってみて初めて分かるもんだ。練習の時だけじゃなく、試合の空気の中で、より実感する。だから一度でいい、試してみろ」
「……はい」
その「はい」は、自分でも驚くほど小さくて、でも確かに頷いていた。
「そしてな、工藤」
先輩は横目で俺を見た。目は笑っていないのに、声は妙にあたたかかった。
「やっぱり俺は、お前に野球を続けてほしい。無理やり引きずり戻すつもりはない。だが……やってくれたら、俺は本当に嬉しい」
「……はい」
「別に、高校って枠の中じゃなくてもいいんだ」
「え……?」
「大学でも、社会人でも、草野球でもいい。またプレイヤーとしてグラウンドに立ってくれたら、それでいい」
川面を渡る朝の風が、言葉をゆっくりと運んでくる。
「野球は、一人じゃできない。でも――”誰と”やるかは、自分で選べるんじゃないか?」
その言葉が落ちた瞬間、筒井先輩の表情は、朝の川面みたいに澄んでいて、真っ直ぐだった。
胸の奥で、何かがじわりと温まっていく。
――この人は全て分かっていたのか。いじめのことも。俺の中に残っている、どうしようもない居心地の悪さも。
そして……あの先輩たちを叩きのめしたところで、俺の発作的なトラウマはきっと消えないことも。
それら全部を見越した上で、こう言ってくれている。
「先輩……」
「おいおい、その顔は彼女に見せてやれよ」
「……はは」
笑ったつもりなのに、どこか力の抜けた声になる。
「それにな……俺もお前が辞めるまで、何もしてやれなかった。先輩のピッチャーなのに、自分の故障でいっぱいいっぱいでさ。すまん」
筒井先輩が、缶を握る手に、より力を込めた。
「だが――」
「……だが?」
「お前、去年うちが夏の甲子園準決勝で当たった、甲斐学院の金丸さん、覚えてるか?」
名前を聞いた瞬間、眠っていた意識が一気に研ぎ澄まされる。
「も、もちろんです! あの……え、知り合いだったんですか?」
「ああ、まあな。あれから時々やり取りしててさ」
先輩は口元をわずかに緩めた。
「この前、自分のケガのこととか……お前の話も少ししたんだ。そしたら金丸さんが、『そいつに“大丈夫だ”って伝えとけ。生きているうちはOKだ』ってよ。なんでも、金丸さんの後輩にも苦しんでるやつがいるらしい」
「苦しんでる……?」
「ああ。去年の12月、山梨で通り魔事件があったろ? そのとき、アンダー日本代表にも選ばれてた輿水大気って選手が殺された。まだ一年なのにチームのエースでな……俺も中学の全国で戦ったが、間違いなく逸材だった」
先輩の声が少し沈む。
「そいつを失って、第二甲府の連中は相当メンタルやられたらしい。一回、チームも崩壊しかけたとか。で、金丸さんのシニア時代のキャッチャーもその中にいて、どう声をかけたらいいかって悩んでいた。でもな……どう声をかけようかと悩んでいるうちに、そいつらが自然と、必死に前を向き始めてるってさ。苦しみも悔しさも消えねぇ。それでも、だ」
先輩は川面に視線を落とし、少し間を置いて続けた。
「生きるってことは、たまには遠回りしたり、立ち止まったりもする。だけど、最終的に残された選択肢はただ一つ、前に進むこと――それだけだ。って金丸さんは言ってた。俺もそれを聞いて、ああ、そうだなって思ったよ。悩んでウジウジすることもあるけど、結局は前に進まなきゃやっていけねぇ。死んだやつらには、その前に進む選択肢はもうねぇ。でも、まだ生きている俺たちは、その選択肢を持ってる。それってすげぇラッキーなことだし、これ以上の差はねぇよな。もちろん、前に進むってこと自体が苦しくて、結果がつらいこともある。でも、いつかそれを取り返す何かに出会えるかもしれない。だったら、そうやって楽しみながら、前に進むしかねぇよな」
ぷしゅっ――缶を開ける小気味よい音が、早朝の静けさを切り裂く。
筒井先輩はまるで、重たい一日の終わりにビールをあおるかのように、サイダーを豪快に一口で飲み干した。
「工藤。生きているだけで、挽回はできるんだ。大事なのはな、お前自身の選択でそれをどうやってみせることだ」
その言葉に促され、俺も缶を手に取る。
ひんやりとした液体が喉を滑り落ちるたび、じんわりと体に染み渡る。
そうだ……まだ俺は、生きている。
どんな形であれ、まだここにいる。
まだ、チャンスは残されているんだ。
それを無駄にはできない。
俺のそんな表情を、筒井先輩はほんの少しだけ微笑みながら見つめていた。




