2027年1月31日(日)16時12分
2027年1月31日(日)16時12分
今日、とうとう脚本のペンが止まった。
本当は最初からわかっていたのに──中学の頃も、全く同じ場所で同じ結末を迎えたのに──時間が経つにつれて、「もう大丈夫だろう」とどこかで期待していた自分がいた。だが、その期待はただの願望に過ぎず、天才的なセンスが降りてくることもなく、物事の見え方が劇的に変わることもなかった。現実は、思っていた以上に残酷だった。
この映画の脚本は、私が昔書いた『17の夏』を土台にしている。今回の撮影にあたり、当時の関係者へ改めて取材を重ねるたび、あの頃の姉の姿が鮮明に蘇ってくる。それは同時に、姉の人生を追体験することでもあった。しかし、その追体験は、私自身を深く傷つけることでもある。
この物語は、あくまでも実在の出来事であり、フィクションではない。だからこそ、実際に亡くなった人の話であり、しかも私の姉が愛した人の物語なのだ。その死と正面から向き合うことになる。
もちろん、文学の世界では故人を描くことは珍しくない。けれど、これは違う。あまりにも近すぎる、生々しい同年代の死。家族の中にぽっかりと空いた喪失の穴。触れるだけで罰が当たるような気がして、背中に冷たい手を置かれたように、息が浅くなる。
撮影は楽しい。みんなで作り上げる喜びは、ひとり机に向かって書く文学部の活動では味わえなかったものだ。それでも、楽しいだけで許されるのか──その問いが、喉に鋭く刺さったままだった。
でも、逃げさせてもらえない。久しぶりに信二さんに電話でインタビューしたときのことだ。
「春ちゃん……やっぱりさ、千紗も亡くなってしまったからこそ、ぜひ、大気との思い出を形にしてほしいんだ」
その言葉を聞いた瞬間、姉の声が胸に蘇った。
――大気君との思い出を、残してほしい。
死者と生きている人、二人から同じ願いを託された。
それは優しいお願いのかたちをした、逃れられない呪いだった。
書かなくてはいけない。姉の最後の願いだから。
「ちょっと、顔色悪いよ。大丈夫?」
気づくと、冬の夕暮れの冷たい空気が頬を優しく撫でていた。
橙色と群青がまだらに混ざり合う空の下、住宅街は静まり返っている。遠くで犬が一声だけ吠え、足元には溶け残った雪が薄氷のように淡く光っていた。
隣にいる渚が、心配そうに私の顔を覗き込む。
「あ、ああ。大丈夫だよ、うん」
「そう……」
その表情は、あの雪の日から何も変わっていない。もちろん、渚はみんなの前ではいつも通り笑っているけれど、ふとした瞬間にこうして私だけを気遣う視線を向けてくる。
あの時渡した脚本は、確かに破綻していた。形にはなっていたけれど、それはまるで別の物語で、手にした渚は怒るのではなく、瞬時に私の心の奥を案じていた。まるで全てを見透かしているかのように。
ガチャ……。
その瞬間、私たちの正面のドアがゆっくりと開いた。
古びた金具が、冷えた空気の中でかすかに軋む音を立てる。外灯の灯りに照らされ、玄関から現れた少し年配の女性の影が長く路面に伸びていた。
「お久しぶりです、輿水さん」
「あら……春ちゃん。お久しぶりね」
柔らかな声。でも、その奥には季節の冷たさとは違う、どこか張り詰めた緊張感が漂っていた。
彼女は、輿水大気さんのお母さんだった。
*
「さあ、上がって。寒かったでしょう?まずはお茶でも飲んで温まってください」
家に上がり、居間に足を踏み入れると、そこは横一面に賞状やトロフィーが飾られていた。言うまでもなく、すべて大気さんのものだろう。そしてその奥に、小さな仏壇がひっそりと佇んでいた。
「あ、あの……まずは、ご挨拶を」
私が気まずそうに言うと、輿水さんはむしろ柔らかな笑みを浮かべた。
「あ、ああ。ええ、そうね。まずは大気にも挨拶してあげてください」
渚と並んで仏壇の前に座る。遺影の中の大気さんは、元気いっぱいで、見るからに爽やかな笑顔を浮かべていた。
「まるで……」
渚がぽつりと呟く。
「高校生みたいだね」
「……うん、事実そうだし」
「いや、というか、」
「分かるよ、生きているみたいだね」
私はそう言いながら、ふと気づく。もう自分は、あの当時の大気さんより年上になっているのだと。2027年の今、数か月後には、私の最後の高校一年間が始まろうとしている。時の流れの残酷さを痛感しつつ、一方で大気さんは、あの時のまま、一生進級できないままなのだと思い、胸がぎゅっと締めつけられた。
その後、一緒に手を合わせると、渚も真摯に、いや私以上に深く拝んでいた。もともと撮影前には、愛宕山近くにある大気さんのお墓にキャストや撮影スタッフ全員でお参りに行った。そういうところも、やはり渚の律儀さがにじみ出ている。
「……よし」
渚が立ち上がると、私たちは輿水さんにソファーへ案内され、そこで温かいレモングラスティーをいただいた。心がじんわりと落ち着くと同時に、少しだけ緊張がほどけた気がした。
「春ちゃん……映画作り、話題になっているわね。新聞で見たわよ。だいぶ盛り上がっている感じだね」
「はい……おかげさまで。撮影も何とか順調に進んでいます」
そう答えながら、私はふと目を伏せた。先ほど悩んでいた脚本の後半が頭をよぎる。すると、その微妙な表情に気づいたのか、輿水さんは優しい笑みを浮かべ、渚に話しかけた。
「そういえば、お名前は渚さんで合ってるよね? 以前、皆さんが息子のお墓参りにいらしたときにご挨拶させてもらったよね? 渚さんも大活躍ね。新聞では“カリスマ生徒会長”なんて、すごくカッコよかった」
「あはは……まあ、それは事実なんですけど」
そう言った渚に、私は思わず肘で軽く脇腹をついた。すると渚も負けじと無意識にやり返してきた。普段ならこのままちょっとした戦闘になるのだが……目の前の輿水さんがニコニコと微笑みながらその様子を見守っているのを感じて、二人とも恥ずかしくなって、やめてしまった。
その恥ずかしさを隠すように、渚が話題を変えた。
「で、でも、映画の撮影にあたって、もともと春と輿水さんはお知り合いだったんですよね。驚きつつ、すごく感謝しています」
「ええ。昔ね、中学生の春ちゃんが、息子の話を小説にしたいって三浦君から連絡があったのよ。夫と二人でびっくりして……『えー、嘘でしょ!』ってね。もちろん事件は悲惨だったから、昔は取材も多かったけど、最近は忘れられていたし……」
少し笑いながらも、どこか寂しそうに続けた。
「ってか、春ちゃん。今さらだけど、どうしてそもそも息子のことを書こうと思ったの?」
「え……? 輿水さん、それは一番最初にお会いした時にお話ししましたよ。私の姉と大気さんが……その……」
「その……?」
「その……恋愛的な……」
「ああ! そういえば、そうだったわね。あの時のこと、思い出したわ。そうそう。息子が病室に運ばれた時も、お姉さまいらしてたよね。なんで今までそのこと忘れてたんだろう……。それに、お姉さまも……お亡くなりになったんですよね?」
「……はい」
「えっと、たしか……」
「姉は交通事故で亡くなりました。教師をしていて、生徒をかばったそうです」
「ああ、そうだったわね。ごめんなさい、最近忘れっぽくて。でも、どこか大気と似たところがあったんでしょうね。人を優先するところとか。それでも、そこまで真似してほしくなかったわ……」
「……はい」
重く、張り詰めた沈黙がその場を包み込んだ。
確かにそうだ。姉は、なぜそこまで大気さんの真似をしたのだろう。
何よりも、残された側の気持ちを誰よりも理解しているはずなのに。
それなのに――。
そんな私の複雑な心情を察したのか、渚が静かに口を開いた。
「すみません、輿水さん。そもそも今日の目的ですが、あの……撮影でお借りした大気さんの遺品をお返ししたくて」
渚が差し出した紙袋の中には、大気さんのユニフォームやバッグ、そして日記のノートなどが丁寧に収められていた。
「ああ、そうだったね。撮影には少しは役に立てたかしら?」
「ええ、十分すぎるほどです。感謝の気持ちでいっぱいです」
渚がはっきりと答えたその言葉に、輿水さんはふっと微笑んだ。
「そうね……この道具たちも、使われるのは十年ぶりだと思うわ。もしかしたら、彼らも喜んでいるんじゃないかしら」
「喜ぶって、どういう意味ですか?」
渚が首をかしげる。
「道具って不思議なものよ。まだ使えるのに、持ち主がいなくなると、その役割を終えたかのようにしまい込まれてしまうことが多い。特に愛着を持って使っていたものほどね。だから、この子たちも、まさかこんな晴れ舞台に立てるなんて思っていなかったんじゃないかしら」
そう言って輿水さんは少し目を細め、穏やかながらもどこか切なげな表情を浮かべた。
「それと……、ああ、そうだったわ。伝えなければならないことがあるの、春ちゃんに。夫から伝言があるんだけど……今日は急な出張で来られなくて、ごめんなさいね」
「そうなんですね……で、どんな内容でしょうか?」
私は自然と身を乗り出し、輿水さんを見つめる。
彼女は背筋を伸ばし、柔らかなまなざしで言った。
「春ちゃん、もし間違いだったらごめんなさい。今、少しでも苦しくなっていない? この事件と向き合うことで」
その問いに、私は言葉を失った。胸の奥にぐっと何かが刺さったような感覚だった。
「覚えてる? あなたが昔、小説を書こうと必死で、でも書けなくて、泣きながら原稿を持ってきたあの日。『もう無理です』って言ってたでしょ。夫は本当に心配していてね。もしかしたら、まるで人の墓を荒らすような罪悪感に押しつぶされているんじゃないかって。でもね、私たちはあなたのことを本当に嬉しく思っているのよ」
「嬉しいって……どうしてですか?」
私の声は震えていた。
「だって、大気は私たちにとって、年を取ってから授かった大切な一人息子だった。亡くなったときはどんなに悲しかったか。でも、それ以上に、時間が過ぎるにつれて、周りの人たちが息子のことを少しずつ忘れてしまう現実もある。みんなが前を向いて生きていくための、自然な流れなのかもしれないけれど……」
輿水さんは一瞬、言葉を止めて深呼吸をした。
「でもね、止まってしまった息子の時間が、ほんの少しでも動くことがあれば、それは私たちにとって何よりの救いになるの。たとえそれが疑似的なものでもね。息子はそういうことに怒ったり反対したりする人じゃなかった。だから、どうか罪悪感なんか抱えずに、あなたのやりたいことを続けてほしい。そう、夫もずっとそう言っているのよ」
*
「やっぱり、いい人だったね」
甲府駅北口のベンチ前、薄暮の冷気が肌を刺す中、渚とふたり歩きながらぽつりと呟いた。
「うん、本当にそう思う」
「春の小説を読んだことで、大気さんのことを何となく知ったつもりだった。でも、あのお母さんに会って、確信したよ」
「何が?」
「大気さんは、本当に優しい人だったんだって……」
「……うん。誰よりもね」
「だからさ、アカデミー賞なんてどうでもいい。大気さんがもしこの映画を見たら、胸を張って誇れる作品にしなくちゃね」
「もちろんだよ……って、アカデミー賞のことは本気じゃないの?」
「いや、あれは冗談だよ。そもそも無理だし」
「ははは、それなら安心した」
「でも、普通なら『え、嘘でしょ!?』ってなるよね」
「まあ、渚のことだからね」
「そっか……、さすが相方。ま、それでも、脚本家様が返すはずだった大気さんの日記を奪還して、仏壇の大気さんに『後半、しっかり書き直します!』って宣言しちゃったからには、もう後戻りできないよね。楽しみだな~」
「なんだその言い方……」
「春に期待してるってこと♡ じゃね!」
そう言い残して、渚は自転車で風のように去っていった。
相変わらず自由奔放なやつだな、と笑いながら、私は手元の古びたキャンパスノートに目を落とした。本来なら今日、返すはずだった大気さんの日記。姉のインタビューと並んで、このノートがあったから、当時『17の夏』を描けたと思う。
でも、輿水さんの言葉を聞いた今、もう一度このノートをじっくりと読み返したいと思う。それは、大気さんの本当の姿に近づきたいから。そして何より、執筆時に放置をした、まだ引っかかっている部分が残っているからだ。それは――。
「ねぇ」
突然、背後から冷たい声が降ってきて、思わず振り返った。
そこには、他校の女子たちが数人、鋭い目でこちらを見据えていた。
「ねぇ、あんた、そうよ、あんただ」
先頭に立つ女が不機嫌そうに詰め寄る。周囲には誰もおらず、明らかに私への声かけだ。
「な、何か用ですか?」
問い返すと、彼女は鼻を鳴らしながら言った。
「さっきの子、小野寺渚?」
「え、あ……うん」
その一言で彼女の表情はますます悪くなり、毒のある嘲笑を浮かべた。
「マジかよ、あいつ、垢抜けて元気になってんじゃん」
明らかに渚のことを知っているらしい。私は少し警戒しつつ訊ねた。
「で、あなたは渚の知り合い?」
「は? 私? 名前なんか教える義理ないし。中学で一緒だっただけ」
「中学……?」
その言葉に違和感を覚えた。私の中学には、こんな下品で自己中心的な女子はいなかったはずだ。
私の疑念を察したのか、彼女は鼻で笑いながら言った。
「”中学三年”の時だけな。だってあいつ、転校してきただろう?」
なるほど、納得しかけたその瞬間、彼女の言葉が私の胸をえぐった。
「本当、あいつがあんなに開き直ってるなら、中学のうちにもっと締めておけばよかったわ」
「……え?」
驚く私をよそに、その場にいた女子たちが一斉に嘲笑した。
リーダー格の女は嘲弄の声を響かせる。
「おい、聞いてなかったのかよ。あいつ、中学の時、私の男に色目使ってたんだぜ。そんで、私がビシッと締めてやったの。静かなキャラのくせに淫乱とかヤバすぎ。で、高校では別の学校行って、今じゃ生徒会長とか映画作って調子乗ってて、笑えるわ」
その瞬間、私の脳裏に、雪の日に渚が呟いた言葉が鮮明に蘇った。
――誰かに支えられてたのに、急に一人で悩んで、苦しむ気持ち……私、ちゃんとわかってる。……普通に、ちゃんと。
渚は、あの転校先で孤立し、いじめに苦しんでいたのだ。
私も、私たちの中学の仲間たちも、そんなことは一切知らなかった。
身体の内側で怒りが燃え上がり、全身がひりひりと痛むのを感じた。
その怒りの気配に気づいたのか、リーダーの女は冷笑を深めた。
「ついでにお前もだろ? あの映画作ってる一派だって新聞で見たぞ。亡くなった姉を題材にしたとかマジでシスコンかよ。しかも、映画の中の男も死んでるんだろ? 不謹慎極まりないわ。姉ちゃんの遺言で死んだ男の話作れって……倫理観どうなってんの? あー、だから死んだんだな(笑)」
胸の奥が締めつけられ、吐き気がこみ上げてきた。
だが、今回はこれまで感じてきた嫌悪感や重苦しさとはまるで違った。何かが自分の内側で音を立てて切れたような、鋭い感覚が走った。
そして、突如として――プツンと糸が切れるように。
「きゃあああああ!」
女たちの悲鳴が周囲に響き渡り、たちまち人だかりができて野次馬が集まってきた。
私はぼんやりとした視線でその中心を見る。
リーダー格の女は鼻から血を滴らせ、震える目で私を睨みつけている。
気づけば、無意識のまま拳を振り上げ、何度もその頬を打ち据えていた。
指先にまとわりつく熱く生々しい感触。
初めて味わうその感触に、身体中の神経が一気に研ぎ澄まされていくのを感じた。
だが、次の瞬間――
リーダーの女が怒りに燃えた拳を振り上げ、私の頬を打ち返した。
鋭い痛みが頭を貫き、視界が歪み、意識が遠のいていった。




