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プロローグ 2026年6月30日(火)16時23分

 2026年6月30日(火)16時23分


「おやおや、“撮影”にご参加いただける気になりましたかね? へっへっへ……」

 ――さて、皆様。

 そもそも“不審者”とは何を指すのか、ご存じでしょうか。

 見た目? 言動? あるいは、声を掛ける相手と場所の組み合わせでしょうか。

 たとえば、目の前のこの人物。

 サングラスにブランド物のスーツ、そして夜の渋谷で、女子高校生にこの発言。

 それならほぼ確実に、都の迷惑防止条例のどこかに引っかかる。

 ……が、現実は違う。

 怪しいのは言動だけで、その他は一応セーフ。

 ここは渋谷でもなければ夜でもなく、放課後の教室。アオハルが詰まった空気の中で、元気いっぱいに話しかけてくる――顔のいい女、である。

 ……いやまあ、ルッキズムとか言われる時代なのは百も承知。

 でも実際、この外見で諸々許してしまう自分に、ちょっと苦笑いするしかない。

「警察、呼ぶ?」

「んふふ。さすが“奥さん”、対応が手慣れてらっしゃる!」

「こら渚。今どき“奥さん”なんて言い方、怒られるよ?」

「えー。でもさ、“奥さん”が家の奥にいるっていう古い考えがダメなんでしょ? 春ちゃんみたいに教室の奥でひっそりしてるなら、“奥さん”呼びもまあ、セーフ寄りじゃない?」

「あ……言われてみれば……って、いや、やっぱひどくない!?」

「いや〜ナイスツッコミ。耳が幸せです」

 ――うるさい。けど、どこか憎めない。

 小野寺渚。放送部の二年にして、生徒会長。

 そして今、この友人に、毎日しつこく、本当にしつこく――、“撮影”の勧誘をずっと受けている訳である。





 先月の立会演説会。

 体育館では、“テンプレ演説”が順番に繰り広げられていた。

「みんなが行きたくなる学校を——」

「私たちらしさを大切にした学校を——」

「清く正しく、美しい学校を——」

 ……みんな、同じことしか言わないのである。

 眠くなるって、こういうことだな。むしろよくこの空気の中で、皆が居眠りしないなって、さすが自称進学校だなっと、ついつい感心すらしていた。

「では次の候補者。放送部二年四組、小野寺渚さん。推薦人は、二年二組文学部の橘春さん、お願いします」

 その瞬間、空気がピンと張り詰めた。

 壇上中央へ、渚がすっと現れる。私は横手から、その友人を見ていた。

 黒髪ロングがゆるく揺れる。

 長い脚、スラリとした体型。制服の着こなしも完璧で、スカートのひるがえりまで計算してるんじゃないかと思うほど。

 まるで雑誌から切り抜かれたような“存在”。

 しかも見た目だけじゃない。成績優秀、スポーツ万能。学年を問わずファン多数、先生からの信頼も厚い。

 ――そう、ポスターにしたくなるような、絵に描いた優等生。

 ……でも私は知っている。

 この女、猫をかぶっている。

 マイクの前で、渚はひとつ深く息を吐き、小さく咳払い。

 そして――唐突に言い放った。

「ニューヨークに行きたいか!!!!!!」

 その瞬間。体育館の時間が止まった。

 ……は?

 全校生徒の頭上に、同時に「?」が浮かぶ。

 何言ってんのコイツ、という、ものすごく分かりやすい空気。

 私は思わず頭を抱える。

 が、渚からアイコンタクト。……はいはい、わかってますよ、と私は体育館に仕込んだ『アメリカ横断ウルトラクイズ』のBGM再生ボタンを押す。

 軽快に鳴り出すイントロに、渚は満足げに頷き、改めて全校生徒に向き直る。

「もう一度言います! 私の公約は――全校生徒で映画を作って、アカデミー賞のノミネートを狙う! そして受賞したら、全員でアメリカへ! これが私の公約です! 以上!」

 ……次の瞬間。

 体育館が、文字通り爆発した。

 拍手、口笛、叫び声――床が震えるほどの大歓声。

 まあ、そうなるだろう。

 みんな、心のどこかで退屈してたんだ。そこに突如ぶっこまれた大バズーカ。盛り上がらないほうが無理ってものだろう。

 気を良くした渚は、さらに全校生徒を焚きつける。

「みんなああああ! ジョニー・デップに会いたいかーーッ!?」

「ウォオオオオオオ!!!!」

「ウィル・スミスにも会いたいかーーッ!?」

「YEEEEEEEEEES!!!!!!」

「帰りはディズニーランドだッ!!!!」

「YEEEEEEAAAAAAAHHHHHHHHHHHHHHHHHH!!!!!!!!!!!!!!!」

 男子なんて、椅子ごと跳ね上がる始末。女子もつられてキャーキャー。体育館の空気がバラエティ番組どころかフェス会場に変わっていく。

 本当に、まるで往年……、いや、私はリアルで見たことないが、『アメリカ横断ウルトラクイズ』そのものだった。

 いや、あれ以上かもしれない。こっちはアメリカじゃなく高校生の将来まで横断しかねない勢いだ。

 一方その頃――選挙管理委員会と先生たちは大慌て。壇上に駆け寄り、マイクを取り上げようと右往左往。誰が止めるかで揉めてるうちに、場内の熱はさらに上がるという負の連鎖。

 私はというと――。

 これだけ盛り上がったなら、もう推薦人の言葉なんていらないだろう、と冷静に判断した。

 むしろ、この状況で壇上に残ってたら、確実に火の粉がこっちに飛んでくる。

 そう現実的に結論づけ、ドサクサに紛れて壇上を降りようとした――まさにその時。

「あ、諸君。ちょっと補足」

 渚が急に声を張る。

 嫌な予感が背中を走る。

「ちなみに映画の原作は――そこにいる推薦人、二年二組、文学部の幽霊部員こと、橘春さんの小説です。では!」

 ビシッと人差し指で私を指し、ニッと笑う渚。

 おめえ……それは聞いてねぇぞ?

 体育館の視線が一斉にこちらに突き刺さる。

 空気が、一瞬で「渚の公約」に興奮する場から、「橘春って何者?」に切り替わったのが分かった。

 ――そして、私の生活は静かに、けれど確実に、終わった。





「だからさ、いいじゃん春。やろうよ〜。中学からの付き合いでしょ?」

「……でもさ、渚と私って、正直、中学時代ほとんど話してないじゃん。そもそも、それ以前に――」

 演説会のあと、私は渚に念のため確認だけはしておいた。

 あの大爆笑&大歓声の演説。あれは、あくまで推薦人として名前を貸しただけで、私が小説を書いて映画をつくるなんて話は――一言も、聞いていなかった。

「なんで私の小説なの? っていうか、ゼロから書かせる気?」

 正直、混乱していた。

 たしかに私は、中学の頃から文学部だった。でも、中三のときからずっとスランプ続き。まともに完結させた作品なんて一つもない。書こうとするたびに頭が痛くなって、最近は“読書担当”として部活を誤魔化していたくらいだ。

 そんな私の前に、渚はためらいゼロで原稿の束を差し出してきた。

「春、この『17の夏』、最後まで書いて。脚本にしてほしいんだ」

 そのタイトルを見た瞬間、息が止まりそうになった。

 ――『17の夏』。

 時間が止まったように、世界の音が消えた。

 忘れたくても、忘れられない。あれは、私の“原点”であり、同時に“封印”したはずの小説だった。

 どうして渚が持っていたのか、まるで見当がつかない。

 というか、あれは書き終えたあと、自分でデータを削除したはずだった。

 だからこそ――目の前の紙束を見た瞬間、胸を締めつけたのは混乱よりも、恐怖に近い感情だった。

 中学三年の夏。

 部活で「家族」をテーマに長編を書く課題が出された。多くの部員が手をこまねく中、私にはすぐに「書きたい人」が思い浮かんだ。

 ――橘千紗。

 私の姉。職業は高校教師。私より10歳近く年上で、明るく、優しく、驚くほど真っ直ぐな人だった。

 小さなころから、よく面倒を見てくれた。

 あの、ちょっと大人びた笑顔も、澄んだ横顔も、私にとってはまぶしい憧れだった。

 けれど、2016年の冬。

 当時、高校二年生だった姉は、突然、学校を休みがちになった。

 皆勤で、誰からも好かれて、非の打ちどころのない“完璧な姉”が――理由も告げず、一か月近くも学校を欠席したのだ。

 どうしても、知りたかった。姉に、何があったのか。

 私は勝手に「小説のインタビュー」と称して、理由を聞き出そうとした。

 特に――いや、おそらく確実に。

「きっと恋の悩みだろう」と、根拠もなく決めつけていた。

 実際、あの頃の記憶の中には、ある夜、一人の男子高校生が姉の部屋へ入っていくのを見てしまった情景が、ぼんやりと残っていたから。

 だから私は、姉の心情を思いやることもなく、ただただ好奇心に突き動かされ、ぐいぐいと踏み込んでいった。

 そして、姉は――根負けしたのか、少しずつ、語り始めてくれた。

 それは、姉にとって人生で初めての、恋の物語だった。

 最初こそ「やっぱりそうか」と内心ほくそ笑んでいた。

 けれど、話が進むにつれ、それがただの甘酸っぱい青春ではないと気づいた。

 そこには、どうしようもない重さと、真剣な葛藤と、胸の奥を焼くような切実さがあった。

 中学生の私には――あまりにも、重すぎた。

「渚、やっぱ他の作品じゃダメ? 例えば修学旅行の沖縄でバカな男子生徒四人が暴れる話とかさ」

「やーよ。だってこの『17の夏』は、舞台がちょうど10年前の“ここ”、第二甲府だよ? ロケ地探し不要、衣装そのまま、撮影許可ゼロ。費用も削減、最高でしょ」

「いや、でも……」

 小説を書き進めるうちに、私は姉の過去を――知りすぎていった。

 知らなければよかった、と思う瞬間すらあった。

 後悔が胸を満たし、ペンが進まなくなった。

 そんな私を見て、姉はかえって気を遣い、申し訳なさそうに笑った。

 でも――

 その顔を見たとき、たぶん私は、自分のほうがもっとひどいと思った。

 自分でやると言い出したくせに、勝手に傷ついて、勝手に逃げ出そうとして。

 そんな自分が、心底いやになった。

 そして、そんな自問自答に胸を締めつけられる日々のさなか――

 不運にも、あまりに皮肉な形で、その時は訪れた。

 姉は、勤務先の学校前で、事故に巻き込まれそうになった生徒をかばい――そのまま命を落としたのだ。

 あまりに突然の出来事だった。

 それからというもの、私は一文字も書けなくなり、最終的に筆を折るようにして、小説の続きを閉じた。

 当時の執筆では、作品に深みを持たせるため、姉の同級生たちにもインタビューをしていた。

 だからこそ、その同級生たちに、震える声で「未完成で申し訳ありません。もう書き進められません」と頭を深く下げながら、書きかけの原稿をそっと手渡したのだった。

 そしてその夜、データを静かに削除した。

 それが、自分にできる唯一の弔いのような気がしていた。

「後悔しているの?」

 ふと、渚の声が変わったのに気づいた。

 いつもの茶化したような調子も、わざとらしい明るさも、どこにもなかった。

 真正面から、まっすぐに私を見つめていた。

「……まあね。読んでもらった通りだけど」

 視線を伏せたまま、私は言った。

「姉の過去を、ただ暴いただけだった気がする。何も得られなかったし……むしろ、失くしたものの方が多かったかも」

 自分でも、少し言いづらい本音だった。

 けれど渚は、黙って私の言葉を受け止めて、それからゆっくりと首を横に振った。

「でもさ。書くって決めたその選択を、“後悔”だけで終わらせないことが――お姉さんにとっても、春にとっても、きっと救いになるんじゃない?」

 その言葉は、静かに、けれど確かに胸の奥へと届いた。

 水面に落ちた小石のように、じわりと広がっていく。

 ――春ちゃん……最後まで書いて、そして……大気君との思い出を、残してほしい。

 思い出した。

 あのとき、最期の瞬間。

 姉は、そう言っていた。

 血まみれだった。

 泣き崩れる両親の隣で、私は何もできず、ただ立ち尽くしていた。

 それでも姉は、私を見ていた。

 緊急治療室の中で、かすれながらも確かに――私に届く声で。

 どうして忘れていたんだろう。

 もしかしたら、あれが姉の、最後の願いだったのかもしれない。

 ずっと曇っていた視界が、少しずつ晴れていくのがわかる。

 ――私は、もしかしたら、まだやらなきゃいけないことがある。


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