いつも通り便秘気味
朝、洗面所で圭吾は唖然としていた。彼の顔が鏡に映らないのだ。いつもと変わらず、顔に触れることはできる。髪を書き上げることだって、耳かくことだって、鼻をほじることだって正常にできる。ただ、彼の首より上が鏡には映らないのだ。思い出したように、圭吾は慌ててスマホで自撮りを撮った。鏡と変わらず、映らない。しかし、スマホを手に取ることで圭吾はより恐ろしいことに気づいた。8時であるということ。彼の頭の中で、15分タイマーがスタートした。8時半までには会社に行かなくてはならない。通勤時間にはおよそ20分はかかる。ついさっき起きた異変はもう頭の端に追いやられた。顔が見えないという予測不能な恐怖なんぞより、会社に遅れるというわかりきった恐怖の方が、よっぽど彼を支配した。圭吾は、9階だてアパートの2階に住んでおり、会社までは自転車で出勤することがほとんどだ。時には歩きを選択することもあり、そうすると30分はかかる。アパートから圭吾が勤めている広告代理店に行くまでには、3つの信号を青にさせる必要があり、近くの公園を通ると近道に見えるが実は違って、、、ああ待て。こんなのどうでも良い、そうだろう?顔が見えなくなったということにこそ、ロマンあふれる物語が待っていることを我々は知っている。このことこそ、まだ誰にも踏まれていない大地を歩むことができ、まだ見ぬ境地を拝むことができることを我々は知っている。踏み慣らされ、きれいに整備された道を往復し続ける圭吾の日常に、誰一人興味なんて持っていない。ので、圭吾が無事遅刻をし、周りに嫌な目で見られながら仕事を終え、大吾という友人に朝起きたことを伝えるその瞬間まで、時間を進めよう。
「俺、今自分の顔が見えないんだよ。」
騒ぎ慣れていない大人達が家畜のように自我を解放している居酒屋で、圭吾は大吾にカミングアウトした。しかし、意外なことに大吾は自分の右手に持っていたつくねを頬張ることを止めず、口に詰め込んだのち、ゆっくりと生ビールを飲み干すと小さくため息をついた。
「何が言いたのかわからないけど、そんなこといっていいのは20代までだぞ」
大吾には酔いが回って圭吾が気取ったことを言い出したのだと勘違いしたのだろう。そしてそう、大吾も圭吾も20代ではない。そうだな。ここで少し二人の外見や個人情報を共有しておくのも悪くないだろう。二人は中学からの幼馴染で、年齢は30代前半である。圭吾は身長175cmほど、髪型は黒髪の七三分け。対して大吾は170cmにギリギリ届かないほど、髪型は同じく七三分け。二人ともある程度スリムで、何か特徴的なところがあるかと聞かれるとない。大吾が丸メガネをしているくらいだ。まあこんなところで、話に戻ろう。大吾の反応を見た圭吾は、ゆっくりと朝起きたことを語った。朝、鏡にもスマホにも自分の顔が映らないこと。感触は通常通り。他の人には見えるという発見。
「、、、だから俺今自分の容姿想像つかないんだよね。どう?」
「どうって、そんなもんいつものお前だよ。まあ強いていうなら髭剃ってないお前。病院行ったら?」
不思議なことに、大吾には対して興味を沸かせなかった。圭吾は事実を淡々と述べたつもりであったが、喋れば喋るほど自分自身も作り話のように感じ、嘘を言っているように感じた。そんなもんだから大吾にはつまらない笑い話としか捉えず、また週末に待っているダブルデートの話の方が彼にはしたかった。
「病院つっても、唯一休みの日曜もあの用事あんじゃんかよ。」
圭吾のこの言葉を聞いた大吾は、右手にあるねぎまをおいた。口まわりを綺麗に拭いたのち、顔を圭吾に近づけた。圭吾には大吾の目が少しばかり大きくなっているのが見てとれた。
「そうだったよな。お前その日どんな服装きてく?」
その後は、デートでの立ち回り方だの事前の決め事だのの話で持ちきりとなった。二人が居酒屋を出たのは23時半ごろ。二連続の遅刻はしないよう願う。