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傷付いた烏と出会う

 学校の帰り道、この時ちょっと寄り道をして仲田本通りへと向かっていた。東市民病院を、道路を隔てて右手に見ながらおとなしく歩いていたら、向こうから小学校低学年らしい子どもたちがキャンキャンと騒がしくやって来た。個々人がそれぞれお互い熱心に大声で喋りながら歩道いっぱいに拡がって歩いて来る。一人として進行方向を気にしている者はいない。左側は生憎と民家の壁、仕方がないので、ガードレールが切れている箇所があったのと車道を通る車がいなかったことを幸いに、この小さな野蛮人たちを避けるため車道に下りた。まあ、こんなことってたまにある。

 そのまま何事もなく僕と彼らとはガードレールを挟んですれ違い、いつでも僕は歩道に戻れるようになった。さてどこから戻ろうかと前方に注意を向けたら、少し離れたところで、この東西の道路に合流する比較的小さな南北の道路があった。そこは当然ガードレールが途切れているわけだから、丁度いい、あそこから歩道に入ろうと考えた。けれど、その車道の合流地点から一二メートルばかり向こうに妙な黒い物体があるのに気が付いた。

 自動車が来たら嫌だから僕はそのまま歩いて行く。前方の黒い物体は段々よく見えるようになってくる。でもそれが何なのか、暫くは見当がつかなかった。黒々とした丸い、多分物体ということで間違いはないと思われる。けれど、それがそこにあるというのがとても不自然に感じられた。普通道を歩いていても、そこがたとえ初めての道であったとしても、その景色の中にそうそうおかしなものなんてない。こりゃ珍しい、とかへえこんなものが、とか面白いものはあったとしても、妙に不自然なものというのはそんなにあるもんじゃない。ところがこれはそれだった。車道の道端に、自転車走行用の白い車線の内側に、もっこりと置かれている黒い丸い物体、これは風景に溶け込んでおらず変に浮き出してしまっている。つまりは不自然なもの、だ。

 僕は少々不気味に感じながらも、ガードレールを越えて歩道に入るというのも気が引けてそのまま歩き続けた。心持ち早足になりながら。そうしてとうとう目指していた道路の合流地点に着いたんだけど、ここでその物体が何なのか、漸くはっきりした。そいつはもぞもぞと動き、その黒い塊の只中からいきなり真赤な三角形が現れ、ケェーとか、ギ―とかいう音を響かせたんだ。よく見ると羽のようなものがある。赤い三角形の部分がむくむくとせり上がる。こりゃ烏じゃないか、僕は歩道へと避難しつつ目を見張った。

 確かに烏だ。あの、いつも頭の上でギャーギャーと鳴き喚いている奴だ。

 お母ちゃんはいつも怒っている。生ごみの収集日には奴らが集められたゴミ袋に殺到し袋をつつき破り中身を引きずり出し食い散らかし、辺りを汚物と悪臭で満たしてしまう。だからお母ちゃんはいつも怒っている。

 お姉ちゃんも怒っている。以前、確か小学校の高学年の頃、お姉ちゃんは何か月もかけてスズメを餌付けしたことがあった。洒落たエサ台を(お兄ちゃんが)作って米粒とかペット用のエサとかを工夫して盛っておく。いつも掃除、お手入れをする。そうやって苦労して漸く二三羽のスズメが通ってくるようになった。お父ちゃんは、スズメを餌付けするなんて奇跡的だと、とても驚いていた。ところがそうやってすっかり慣れた頃、何と奴らがそのスズメたちを喰っちまったんだ。お母ちゃんがその犯行を目撃し、急いで追い払ったんだけど、後には沢山の羽毛と脚、それから少しばかりの肉片と血が残っているばかり。まだ小さかったお姉ちゃんは大泣きに泣いていた。まだ無邪気だったもっと小さかった僕がお姉ちゃんに、スズメさんたちはきっと天国に行ったからと慰めると、まだまだ素直だったお姉ちゃんは僕を抱きしめてしくしくと泣いていた。今となっては懐かしい思い出だ―――というようなことはさておき、だからお姉ちゃんは今でも怒っている。

 お父ちゃんはあいつらを恐れている。なにしろあいつらは恐ろしい連中なんだ、力が強くて頭が良くて好奇心が旺盛で敏捷で、人間が近くを通っても平気な顔をしてゆうゆうと歩いている、ある時なんか水道みちであいつらの一羽が急降下爆撃をやったのを見たことがあった、いきなり急降下してきて急上昇に転じる瞬間、奴さん俺の傍らのアスファルトに白い糞をひって行きやがった、創意工夫の才もあるし、怖いものなしなんだろう、恐竜は絶滅したんじゃなくて鳥へと進化したという学説があるそうだけれど、だとしたら奴らはきっとヴェロキラプトルのの末裔であるに違いない―――お父ちゃんはそう力説してあいつらをいつも恐れている。

 お兄ちゃんもあいつらを恐れていた――――烏がごみ置き場をあさっている。袋に入った生ごみ、これを狙って烏どもがその袋をつつき破り引き裂いて、中のごみをかき出す。野菜の切れ端、食べ残しのパンのかけら、コーヒーの粉の黒い出殻に緑茶の緑の湿った茶殻、固くなった残飯、いたんだ肉やハムの類い、その他いやな臭いのするあれこれ、ひどいものになると果物の皮とかにショウジョウバエの蛆がわいている。肥え太ったあいつらが集団でぞわぞわとはい回っているのを見るのは実にいやなものだ‥‥‥しかしこんなものでも、烏どもにとっては好ましいものであるように見える。彼らは喜々としてごみ袋を襲い中身を貪り食っているその様子は、誠に不愉快である。彼らに喰いちぎられているその袋が人間の死体の様に見えるからだ。大体、烏が朝から、昼日中から群れを成してぎゃーぎゃーと鳴きながら我が物顔に狼藉を働くなどとは尋常なことではない。そんなことがあるのは、例えば歴史上に名が残っている程おそろしい大飢饉の時ぐらいではなかろうか。人気のない村の道端に、荒れ果てた田畑に、屋根が傾き壁が崩れた廃屋に、人間の死体が累々と横たわっているのがごく普通の風景になってしまったような、そんな時くらいしかなかったのではないだろうか。そんな時には食料は勿論のこと、犬、猫、鼠から木の皮、雑草に至るまで全て人間達が食い尽くし、ごみなんて大層なものは全く存在しない。その後ただ人間の死骸のみが地を覆い、それを目がけて烏どもが殺到する。そしてその腐った死骸をつつき破り引き裂いて食い散らかすというわけで、そういう光景―――の記憶、我々にはそういう記憶がおそらく心の奥底に埋め込まれていった。こうして現代、ごみ置き場をあさる烏どもの姿を見て感じる不快の念、恐怖の念、憎悪の念というものは、心の奥底に眠っているこのような記憶から湧き出てくるものであるよう思われる。

 

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