中国でサーズが流行っていた頃に成都の病院で点滴治療を受けた話
二〇〇三年六月初め、バックパックを背負って中国・四川省の九寨溝へ行ってきた。
九寨溝は、世界自然遺産に登録されている秘境だ。
全長三十キロメートルにおよぶ高山地帯に、青い水の池や大小さまざまな滝や澄んだ沼がいくつもあって、とてもこの世のものとは思えない景色だ。妖精たちが住む森とでも呼びたくなるようなところだった。そんな世界自然遺産のなかにも小さな村が三つあって、チベット族の人々が暮らしている。村にはチベット仏教のお寺があった。以前、NHKの衛星放送で九寨溝の特集を組んでいたので、ご覧になったかたもいるかもしれない。
ガイドブックには観光客が多くて自然風景地区のゲートは東京ディズニーランドのような賑わいと記してあったけど、ちょうどサーズ(新型肺炎・重症急性呼吸器症候群。致死率一〇%弱の恐ろしい伝染病)が流行していて旅行が自粛されていた頃だったので、がらがらだった。長い年月をかけて形造られた絶妙な自然を思う存分堪能した。
――いい旅だったな。
三日間かけて九寨溝を満喫した僕はバスで十時間かけて成都へ戻ったのだけど、成都についた夕方からお腹の調子がおかしくなってしまった。
旅をしていてお腹をくだすことはしょっちゅうある。初めは、疲れが出たのだろうから、体を休めれば治るだろうと思っていたのだけど、ひどくなるばかりだ。びろうな話で恐縮だけど、次の日になると、水を飲んだだけですぐにくだすようになってしまった。水が胃腸をスルーしてそのまま出てしまうのだ。熱が出て、おまけに脱水症状になって体がだるい。水分を吸収したくても、なにもうけつけない。体がしぼんでしまいそうだ。一日中、宿のベッドで身を横たえていた。
激しい下痢が始まってから二日目の朝、宿の従業員に近くの病院の場所を聞き、ふらふらになって歩いて行った。
診療所に毛が生えたくらいの小さな病院へ入った。
僕を一目見た気の強そうな看護婦は僕がサーズ患者ではないかと疑い、恐ろしい形相で睨む。まるで祟り神扱いだ。彼女はさっさと逃げてしまい、同僚とおしゃべりに興じる。かわりにやさしそうな看護婦が僕を診てくれた。看護婦は僕の体温を測り、聴診器を胸に当ててくれた。当時は片言の中国語しかできなかったので、筆談で症状を訴えた。
「非典肺炎じゃないから安心して。でも、ここの設備だとあなたの病気を診察できないのよ。すぐ近くに第九人民病院があるから、そこへ行って診てもらって。あそこは大きな病院だから」
看護婦は気の毒そうに言う。上からの命令でそう言わされているのだろう。いたしかたのないことだ。僕は、彼女が書いてくれた地図を片手に第九人民病院へ向かった。
この頃、サーズの原因は外国人だ、という俗説が流布していた。
サーズが発生したのは広東省だけど、得体の知れないものは外国人のせいにされてしまいがちだ。外国人が病を持ち込むということは古来からよくあることなので、むりもないのかもしれない。
この年の四月に雲南省の田舎町まで行って少数民族の市場を見た。食品、漢方薬、衣類、雑貨などが並んだマーケットを見終えて町のなかをぶらぶら散歩していると、小学校の子供たちに「サーズ」とはやし立てられてしまった。ばい菌扱いだけど、別に腹は立たない。むしろ、面白かったから男の子を追いかけたりして遊んだ。ずっこけた子供を掴まえて、頭をくしゃくしゃにしてやった。
男の子は、
「やめろよ! サーズがうつるじゃないかっ」
と、なかば楽しそうに、なかば真剣に暴れる。
「サーズ!」と元気よく叫ぶ子供はまだいい。なかには、僕の姿を見ると立ちすくんでしまい、怯えた顔のまま直立不動になる子供もいる。息をつめたまま目を合わさないようにして僕が通り過ぎるのをじっと待つ姿を見ると、ちょっと気の毒になってしまう。
――厄介払いされたのもしょうがないか。
そんなことをつらつら考えながらぼうっと歩いてようやく第九人民病院へたどり着いた。敷地に高い建物がいくつもある大きな病院だった。
当時は、どの病院でもサーズ対策のために入り口で体温検査をしていた。この病院も、門を潜ったところにテントが張ってあって、「体温検査」と書いた看板を立てていたのだけど、誰も見当たらない。しかたがないので、僕はそのまま建物へ入った。さっきの病院でサーズじゃないと診断されたので、いいだろう。
中国の総合病院には「門診部」(外来総合診察部)という部門があって、なんの病気かわからなくても、とりあえずそこへ行けば診てもらえるし、各専門科へ振り分けてもらうこともできる。門診部へ行くと、まばらな無精ひげを生やした人の好さそうな医師が診察室の椅子に坐っていた。歳は三十過ぎくらいだろうか。
「ゲリ、ヒドイ。ミッカカン、ズットゲリ。ミズノム、スグゲリ。トテモシンドイ」
身振り手振りを交えて片言の中国語で精一杯訴えた。ここで治療してもらえなければ、もうどうしていいのかわからない。ほかの病院へ行くだけの気力も体力も残っていない。医師は不思議そうに僕を見ていたのだけど、日本人だと告げると子供のようにうれしそうに顔を輝かせた。
――助かった。
僕は医師の顔を見て思った。こちらに好意を持ってくれている。ちゃんと診察してくれそうだ。日本ではなんでもマニュアル通りだけど、中国ではなんでも人次第。本人にやる気になってもらわなければ、なんにもしてもらえない。彼は聴診器を僕のお腹に当て、それから触診した。
「検査してから、その結果を持ってここへ戻ってきなさい」
という意味のことを彼はメモ用紙に漢字を連ねたかと思うと、
「フォロー・ミー」
と、英語で元気よく言って立ち上がる。
白衣をなびかせた医師は自ら二階の検査部まで連れて行ってくれて、検査係の看護婦に僕のことを説明してくれた。親切な医師にあたってよかった。外国で病気になると不安でたまらなくなってしまう。地獄に仏とはこのことだ。
十何年振りに検便して、しばらく待つと結果が出た。
看護婦はいろいろ説明してくれるのだが、僕は聞き取れない。首をひねっていると、そばにいた別の看護婦が、
「あたし知ってる。日本人はね、漢字が読めるのよ」
と飛び跳ねるように言って紙に「細菌性腸炎」と書いてくれた。
「なるほど。ありがとう」
僕はほっとした。とにかく、病名がわかった。
九寨溝の水は色もきれいだし、とても澄んでいるけど、アルカリ性がきつい。きっと、水があわずに腸を傷めてしまったのだろう。九寨溝の水を沸かしたお湯でカップ麺を食べたのがまずかったのかもしれない。
医師がわざわざ検査部までやってきてくれた。遅いからどうなっているのかと様子を見にきてくれたようだ。医師は検査係の看護婦と話し、再び僕を診察室へ連れて行く。カルテを書いた後、料金支払い所まで案内してくれ、それから点滴室まで連れて行ってくれた。彼のおかげでスムーズに治療を受けることができた。彼が案内してくれなかったら、中国で初めて大病院へ行った僕は、仕組みがわからずにビルのなかをあちこちうろつきまわらないといけないはめになっていただろう。
点滴室は窓際と壁際に一人掛けのソファーがぐるりとならべてあって、二十人ほどの患者が腰掛けながら点滴を受けていた。
「あなたが日本人ね」
二十歳くらいの看護婦が僕の前に立った。ショートヘアーで元気の好さそうな女の子だ。四川人らしく白い肌がきれいで、顔立ちもかわいらしかった。僕はくたくただったので、うなずくのが精一杯だった。
「不痛(痛くない)」
疲れた様子の僕を見て、彼女は僕が注射を怖がっていると思ったのだろうか。彼女は自信たっぷりにそう言って、僕の手の甲に針を刺した。実際、まったく痛くなかった。
うつらうつらしながら、八時間ほど点滴を受けた。大小合わせて五本くらいあっただろうか。「葡萄糖」と書かれた瓶はわかったのだけど、ほかはなんの薬かわからない。もっとも、日本語で書いてあったとしても、ちんぷんかんぷんだけど。
一日目の点滴が終わった。ブドウ糖が効いてくれたのか、僕はほんのすこしだけ元気になった。
二日目も一日目と同じように、瓶をとりかえながら延々と点滴を受けた。夕方になって、満員だった点滴室もまばらになった。
真面目そうな感じの二十歳前くらいの看護婦がつかつかと僕の前にやってくる。彼女はなにか腹を立てているようだ。
「あなたが噂の日本人ね。中国人は親切よ。なのになんで日本は中国を侵略したのよ。謝りなさいっ!」
彼女は威勢よく言う。四川人は喧嘩っ早く彼女のように威勢のよすぎる人が多いので、ときどき困ってしまう。
確かに、医師はとても親切にしてくれた。感謝にたえない。だけど、看護婦がへばっている病人へ持ち出す話題でもないだろう。生まれるはるか前に起きた戦争のことを言われても困る。僕はむっとして、
「君の国だって、チベットを侵略しただろ。おんなじことをやってるんだよ」
と、冷たく言い放ってしまった。
「そんなことしてないわよ」
「中国人が知らないだけだよ。世界中が知ってるんだぜ。君がチベット人に謝るなら、僕も君に謝ってやる」
なぜか喧嘩になると中国語がすっと出てくる。
「なんで中国がチベットを侵略するのよ。チベットは中国のものじゃない」
彼女はぷりぷりしたまま出て行った。
この翌年、重慶で開かれたサッカーアジアカップの試合で日本代表チームへのブーイング事件が起き、二〇〇五年には、北京の日本大使館と上海の日本領事館への襲撃事件が発生した。中国でテレビのチャンネルをまわせば、必ずどこかで抗日戦争ドラマを放送していた。日中間の衝突が高まりつつある時期だった。
侵略した側は与えた痛みを忘れてしまい、侵略された側はいつまでもその痛みを忘れないだろう。だけど、前世紀の九十年代から中国ではいびつな愛国主義教育が行なわれ、さまざまな事実がゆがめられ、あるいは捏造され、過剰で不気味な愛国心が鼓舞されている。
愛国主義教育は中国人民のためのものではない。
すべては中国共産党が正義だと人民の頭に刷り込むためのもので、つまり、中国共産党のためのものだ。こんなことをしても人民の利益にはまったくならない。
この愛国主義のシンボルとなるのが日中戦争。
実際に日本軍と戦った主力は国民党軍だけど、中国共産党の軍隊である人民解放軍が主力となって勝利したとみな思いこまされている。もともと中国共産党は社会主義国家の建設を目指す前衛政党だったわけだけど、今は本来あるべき姿の社会主義路線を放棄して金儲け万能の強欲国家資本主義路線に走っているし、国民に選挙によって選ばれたわけでもないから、中国共産党が政権を握る正統性の根拠が薄弱だ。そこで、日中戦争での「勝利」と近年の経済成長の成功を正統性の根拠として持ち出し、中国共産党は正しい政権だと主張しているわけだ。中国は政府にとって都合の悪い情報が人民に伝わらないよう厳格な情報統制を敷いている国なので、これはある意味で「洗脳」に近いのかもしれない。
愛国心というのは、曲者だ。
誰にでもお国自慢はある。よその国に攻め込まれている時に愛国心が高まるというのなら理解できる。だけど、戦争でもなんでもないのに、国家や政治家が愛国心を煽る時は要注意だ。
愛国心を高めようなどと言いながら、実際に行なっているのは、敵を作り出し、民衆の敵意をそこへ向けることだ。民衆が抱えているさまざまな不満や不安をその敵へ向け、自国の政府へ向かわないようにそらしてしまうことだ。国家指導者が自分の手で自国民の不満を解消するような政策を実行できない時、往々にしてこの手段が用いられる。今の中国の場合、日本以上のすさまじい格差が広がり続け、政府の腐敗の問題も相当深刻だから、人民に恨みを買っている。僕も以前、観光ビザを延長しに公安のビザ事務所へ行った時に代金を騙し取られたことがあるので、政府の職員がどんなに平気で汚い手を使うのか、よくわかる。愛国主義の鼓舞は、国家指導者や政治家が自分に敵意をむけられたくない時に使う簡単で便利な手段だ。まっとうな政策を実行しようとすれば手間も費用もおそろしくかかるけど、口先で愛国心を煽るだけならタダだから。それに、人間の悲しい性で、人の悪口にはのせられやすい。
ちなみに、愛国心の問題は中国だけの問題ではない。
大日本帝国が愛国心を煽った後、戦争で何百万人もの人が命を落とし、国中の都市が焼け野原になってしまった。二十一世紀の日本でも、当時の小泉首相が靖国神社へ参拝して愛国心を煽っている間に、日本の中流社会は壊れ、一度はほとんど解消したはずの貧困の問題がまた蔓延するようになってしまった。戦争に比べれば破壊の規模は小さいけど、経済的に追いつめられた人が大勢自殺して、たくさんの人がホームレスになり、数多くの家庭が不幸になった。なにより、人間関係が殺伐としたものになってしまった。非常に生きにくい。
愛国心をむやみに煽る政治家が現れたら、彼はなにか後ろ暗いことや民衆を陥れるようなことを始めようとしていると考えたほうがいい、と僕は思っている。
話を中国に戻すと、あのゆがんだ愛国主義教育がなければ、中国人と仲良くなるもっとチャンスが増えるのにと残念でならない。国家と人民は別物だ。看護婦が言った通り、中国人には親切な人が多い。大陸風のおおらかさと言えばいいのだろうか。僕は今まで彼らの好意にずいぶん助けられてきた。僕を診察してくれた医師もそうだ。人付き合いの悪い僕だけど、それでも仲良くなった人がたくさんいる。だからこそ、あんなゆがんだ愛国主義教育はやめらもらいたいと切に願う。変な愛国主義教育をされると、真面目な人ほど信じこむので、そこがまた厄介だ。
今は中国人の「愛国心」が爆発せずに小康状態を保っているけど、火種はくすぶったままだから、いつ何時、おかしなことが始まるとも限らない。愛国心を煽ることは敵意をかき立てることだから、一度そんなことをしてしまうと、憎悪の火はなかなか消えてくれない。
三日目も点滴を受けに行った。
例の真面目そうな看護婦は現れなかった。もし彼女がきたら、話しかけて仲直りしたかったのだけど。
夕方になると、開け放った窓から蚊が入ってきた。蚊に刺されてぽりぽり掻いていると、向かいで点滴を受けていたおばさんが「これを塗りなさい」と言いながら清涼油(中国のメンソレータム)を投げてくれた。僕も点滴を受けて動けない身だから、「謝々」と言って投げて返した。おばさんのおかげでかゆみがやわらいだ。
僕は高校生の頃、この清涼油を愛用していた。
大学の職員だった父は中国からの留学生の世話係も担当していたので、年に何回か中国人留学生たちが家へ遊びにきて、すき焼きなんかを一緒に食べた。家へくるたびに、彼らの日本語がめきめき上達していたので、その勉強熱心ぶりに驚いたものだった。初めは、いかにも社会主義の国からきましたといった感じの地味な服を着た生真面目な人が多かったのだけど、後には松田聖子大好きというやたらミーハーなお姉さんもくるようになった。中国も改革解放が進んで時代が変わりつつあるようだった。
テスト前になると、彼らが土産にくれた清涼油をこめかみに塗って徹夜で勉強した。清涼油は恐ろしいくらい効いて、夜中でもぱっちり目が冴えた。普段は本ばかり読んでろくに勉強せず、テスト前は一夜漬けの連続だったのでほんとうに助かった。清涼油のおかげで高校を卒業できたようなものだ。あわてて一夜漬けをするまえに、熱烈に勉強する彼らの爪の垢でも煎じて飲むべきだったのだろうけど。
点滴治療はこれで全部終わった。
体もひと頃と比べてずいぶん楽になった。
門診部へ行って医師に挨拶しようとしたのだけど、あいにく、彼は不在だった。
清代の街並みをそのまま残した古い通りにある安宿へ戻ると、仲良くなった従業員の女の子が待ちかねたように、
「今日はわたしがみんなにごちそうするの。あなたもくるのよ」
と言う。彼女は張り切っていた。
「ありがとう。でもさ、まだ本格的な料理は食べられないから」
「お粥を頼んであげるわよ」
どうしたものかと迷ったけど、断ると彼女の面子を潰すことになるので、招待を受けることにした。
招待した女の子、同じ宿に比較的長い間泊まっていた日本人のバックパッカー二人、別の従業員の女の子二人、それに僕をくわえた合計六人で近くのレストランへ行った。四川料理はどれも激辛だから、僕はコップに入れた水でおかずを洗って、唐辛子と山椒を落としてからすこしだけ食べた。味覚がおかしくなっているのか、あまり味はしない。鍋一杯のお粥が出たけど、さすがに全部は食べられないから、これもすこしだけいただいた。招待した女の子は、面子が立って得意そうだ。果物しか口にしていなかった僕は、久しぶりに栄養を摂ることができた。
細菌性胃腸炎にかかると、恢復に時間がかかる。
胃腸に負担をかけられないから、なかなかきちんと食べることができない。
僕は街角で売っている枇杷を食べながらゆっくり養生した。十元(当時のレートで約一五〇円)も出すと、甘くておいしい枇杷をビニール袋一杯分も買うことができた。
退屈だけど出かけるわけにもいかないから、昼はギターを弾いて中国のポップス曲を練習して、夜になるとロビーへおりて宿の従業員たちといっしょに枇杷を食べながらテレビを観た。
たまに、宿の並びにある茶館へ行き、四川特産の竹葉青という品種のお茶を飲みながらのんびりとした時間を過ごした。竹葉青は、海抜八〇〇メートルから一二〇〇メートルの高さで、一年中霧が煙っているようなところでしか育たないお茶なのだとか。四川省の湿った気候でしか育たないお茶だ。名前の通り竹のようにきれいな翡翠色をしていて、涼しい香りがする。飲めばさわやかな香りが口に広がり、胸がすっとする。
一週間ほどでおおかた具合がよくなった。
まだ本調子とはいえないけど、次の旅へ出られそうだ。中国でのサーズの流行も終息へ向かいつつある。
僕は駅まで行って汽車の切符を買い、前から行きたかった西安へ旅立つことにした。西安はいにしえの長安だ。シルクロードの玄関をこの目で見たかった。