金銭おじさん
俺は金のことをカネともゼニとも呼ばず、金銭と呼んでいる。
なんでそんなめんどくさい呼び方してるんだ、と地元のホームレスのテリトリー内で親し気な仲になった酒乱太郎――もちろん、俺が勝手に呼んでいる――は、酒瓶を傾けて真っ赤な顔で並びの悪い黄ばんだ歯を見せて不思議そうに言われたが、特に理由なく金銭と言っていた俺は
「カネとゼニを合わせた言葉、『金銭』って、二つ呼べばなんだか無いものが二倍に増えた気がするんだよな」
と、しわがたるみはじめた頬をを片方歪ませてその場を収めることくらいしか出来なかった。
金の名称に囚われるだなんて、職に囚われない俺が気にすることは当然無い。
無論、金銭は無いと生きてはいけないし、今十分に生きていける職が無いから俺は金銭を探しに今現在人通りの無い、公園近くの自動販売機の下を寝そべるような形で覗いているのだが。
人通りは無い道だとしても、時折現れる老人のおぼつかない足取りやせかせか歩くサラリーマンの足音は聞こえてくる。
一体こんなにがめつく生きようとする哀れな中年をどう言った視線で眺めているのだろうと思う時もある。
もしくは見る気も無いかもしれない。
まぁ、そのどれも全て俺の妄想であり、覗いている間通行人と一度も視線を交わせたこともないから、何も言えないのだが。
世の中に居座る意地だけは天下一品と言えよう。誇りを持っている。
ぱさつき、肩まで伸びきった髪の毛を仄かに春の香りがする温かなコンクリートにこすりつけながら探していると、近くで足音が聞こえた。
おぼつかない……と言っても、老人を思わせるようなのんびりとしたものではなく、驚くほど細やかなところで、きっと歩き慣れていないことが窺える。
だとしたら、幼児か少年少女か……? と思っていた俺の疑問は問いかけられた声音で理解した。
「おじちゃん。何してるの?」
はっきりと少女の声が聞こえた。
しかも、純真無垢で何の煽りも見えない。興味津々である。
近くにいる気配があったので、俺は覗きながら金銭を探しつつ、その声に応えた。
「あのな嬢ちゃん。自動販売機の下には夢が詰まっているんだ」
「えっ!? そうなの?! 私も見る!」
さすが好奇心の塊と呼ばれし、幼少期を進む少女。
すぐさま少女まで自動販売機の下を覗こうとするので急いで「あっゴメンうそうそうそ」と慌てて自動販売機の下から顔を上げた。
しゃがんだ状態で見えた先にはきょとんとした顔でこちらを見下す少女の姿があった。
新しく買ったような桃色のワンピースをなびかせて、ツインテールを揺らす彼女はまだこちらの興味を消そうとしない。
「夢っていうのはその、ジョーク……いや、嘘なんだ」
「噓吐いたら泥棒の始まりなんだよ、おじちゃん」
闇を纏わぬその清らかな鈴の鳴るような声は、あからさまに的を得ているのでぐうの音も出ない。
俺は確かに今まさに、かつての他人の金銭を盗もうとしていたのだから、有名なあの言葉もあながち間違いではないのかもしれない。
いやしかし、泥棒を始めたから嘘を吐く、という仮説も正しい気がする。
「何探しているの?」
こちらがなんだか色々思い悩んでいる間に、彼女の疑問は続いていた。
「き、金銭……かな、いや……そうじゃなくて」
「キンセン?」
唐突に嘘を吐こうと考えていたのに先ほどの話の流れから吐こうにも吐けなくなってしまった。
頭の弱さに自分の脳を抱えていると、彼女は「ちょっと待ってて!」とあどけない笑みを残してその場を去った。
まさか親の財布から万札を抜き出して持ってきたりはしないだろう。
このまま帰って来なければ良いのに……。
小さな頃なんて、一つ興味を持てばすぐに忘れて、その後また違うものに目を移すものだ。
俺のことなんてすぐ忘れて新発売のお菓子にでも興味を持って欲しいだが……。
金銭探しもする気を無くし、春の木漏れ日に当てられ、古いベンチに座りぼんやりしていると、自分がちっぽけに見えてくる。
探したところで、俺は誰にも必要とされないし、もう何年も前に別れた妻だってこんな俺の落ちぶれた姿もう見たくもないだろう。
近くに咲いていた桜の花びらが頬を撫でる。
妻も桜が好きだったな。
俺は金銭を今も尚探したとしても、妻との関係を修復することだって、リストラされた職にもう一度就けるわけでもない。
なら、どうして無い金銭を探し歩き、時折苦労しながら短期の職場で働き、俺よりも生きてほしい、別れた妻の為に金を集めては郵便受けに突っ込んでいるのだろう。
謝罪が出来るわけでもない。職を無くしたプライドが曲げられず勝手に家から出て行ったことを詫びる顔を向けるだなんて俺には出来ない。
このまま妻は俺のことなんて忘れ、新たな夫でも探せばよいのに……と、思っていると、また聞き覚えのある、足音が近付いて来た。
「おじちゃ~ん!」
「なんだ嬢ちゃん」
「はい! お花!」
彼女は硬貨でも紙切れでもなんでもない、陽だまりを集めたような通さな黄色の花を持ってきた。
「ええと……」
「キンセンカだよ!」
ああ。
彼女は金銭とキンセンカを聞き間違えたのか……。
俺は楽し気に笑う少女のきらめく瞳に、頬を緩ませた。
「ありがとな。おじちゃんの探し物見つかっちゃった」
「えっへへ。これね、お隣のおばちゃんの植木鉢にあるの!」
それは、この少女も盗人になるのではないのだろうか。
いやちゃんと、許可はもらっているだろうしな……といらん心配をしてしまった。
「あのね、お隣さんね。大切な人がいなくなった後からこのお花育て始めたんだって前に言ってた」
「……え?」
「いつも、お金だけポストに入れてきてずっと会いに来てくれなくて、さみしいからって」
楽しそうに笑う少女に言葉を無くした。
ずっと無い金銭を探していたんじゃなくて、会う口実を探していただけな俺を、待っている人がいるだなんて、そんな事実あっていいのだろうか。
俺が、全てのプライドを捨て、ベンチに座りながら地面に落ちた花びらを見つめるように俯くと、バタバタと慌てて駆けてくる、重い足取りを無理やり動かしているような足音が聞こえた。
「あなた」
顔を上げることが出来なかった。
今すぐにでも抱きしめたいと感じる、少し年を取っただろうが変わらぬ柔らかな声がすぐ側で聞こえる。
「モモちゃんから訊いてまさか……と、思ったら本当にあなたがいて驚いた。ずっとどこ行っていたの? 何も言わずに出て行って、寂しかったのよ」
「……俺は、この通りもうこんなに錆びれている。今ならまだ他人のふりが出来る。それにもう、金銭が無いし価値も……」
「そうかもしれない。それでも私は、『あなた』を待っていた」
別れてから、毎日のように月夜の下で一人うずくまっていた自分が情けない。
妻はずっと、あの家で待っていたのだ。
俺の帰りを、ずっと……。
「私達の家に帰りましょう。あなた」
彼女の声に、俺はゆっくりと顔を上げ、少しだけ腰が曲がった桜色の頬をする妻に、情けないくらいのか細い声を絞り出した。
「……ありがとう」