【書籍化作品】ひょっとこさんの顔
3さいのぼく。
そう。ここは子供の頃住んでいたマンションだ。もうずいぶん昔に取り壊されたはずのマンション。
ぼくは現在の意識を保ったまま、小さい頃に戻ってしまったのか。
プレハブ製の倉庫、こんなにも大きく見えていたんだなぁ。
マンションの敷地内から出ることは固く禁じられていたこの頃。この狭い敷地が世界の全てだった。そしていつも一緒に手をつないで遊んでいたみぃちゃんが、ぼくの全てだった。
この日もぼくたちは手をつなぎ、敷地の片隅にあるぼくたちだけの遊び場に向かっていた。
まだ土の残る一角。数年後に別棟が建設される事になるスペースだ。金網に空いた、ぼくたちだけが通れる大きさの破れ目。冒険心と、二人だけの秘密。雨の日以外、ぼくたちは必ずここで遊んでいた。
そうだ。思い出した。この日は……。
ところどころに転がる様々な大きさの石。ぼくはその一つにつまづいて転んでしまった。その拍子に膝にケガをした。
体中に響く衝撃。泥だらけになった服。襲い掛かってくる痛み。ぼくは顔をしかめ、唇を尖らせた。目に涙がにじんできた。泣き声が喉に上がってきた。
その時だった。みぃちゃんの透き通るような笑い声が、ぼくの耳に飛び込んできたのは。
「てっちゃんのかお、ひょっとこさんみたい! おもしろいー!」
ぼくは泣くのを忘れて、みぃちゃんの顔を見上げた。みいちゃんの笑った顔はまぶしかった。
みぃちゃんが笑ってくれるのがうれしくて、ぼくは何度もその顔をして見せた。
「もー、ほんとにバカなんだからぁー」
みいちゃんは笑い転げながら息も絶え絶えに言った。みぃちゃんが笑うのにつられて、ぼくもいっぱい笑った。
みぃちゃんは、ぼくの痛いのも、泣きたいのも、全部笑顔に変えてくれた。
みぃちゃんの笑顔をずっと見ていたい、ぼくはそう思った。
14歳の俺。
美咲ちゃんが泣いていた。
中学校の屋上。屋上からの眺めは懐かしかった。そうだ、この頃はまだ、あの巨大マンションは建っていなかったんだ。
美咲ちゃんがサッカー部の先輩と付き合っていたのは知っていた。そりゃそうだ。毎日一緒にいた美咲ちゃんが、その時間を他の人に割くようになったんだから。わからないわけがない。
俺よりも、美咲ちゃんを笑顔にできる人が現れたのは辛い事だったけど、美咲ちゃんの笑顔が少しでも増えるのなら仕方がないと思っていた。
でも、美咲ちゃんは泣いていた。
失恋。
泣きながらぽつりぽつりと語る美咲ちゃんの言葉。
先輩が高校に進学してからだんだん美咲ちゃんとの時間を作ってくれなくなった事。そして、美咲ちゃんに内緒で新しく彼女を作っていた事。
俺には、どんな言葉をかけてあげたらいいかわからなかった。どうする事もできなかった。でも、美咲ちゃんの涙を、笑顔に変えてあげたかった。
俺は『ひょっとこさんの顔』になって、美咲ちゃんの肩をたたいた。
一瞬、くしゃっと顔をゆがめて、美咲ちゃんは笑い始めた。最初は声にならなかったが、最後はあの透明な声で笑ってくれた。
「もぉ、少しは空気読んでよね。ほんと、バカなんだから……」
そう言って、美咲ちゃんは涙を拭いた。
27歳の僕。
「ではベールをあげてください。誓いのキスを」
神父が厳かに言った。
僕は左側に立つ美咲と向き合って、そっとベールを上げた。
純白のウェディングドレスを着た美咲は美しかった。そう、小さい頃から、美咲は僕の全てだった。
美咲の目が潤んでいた。僕も目頭が熱くなってきた。
僕は美咲の肩に手を添えて顔を近づけ……『ひょっとこさんの顔』をした。
目を閉じる直前の美咲が僕の顔を見て吹き出すと、会場がざわめいた。
美咲は笑いながら僕をかわいくにらみつけた。
「もぉ! ほんとバカなんだから!」
美咲は僕の首に手を回し、勢いよく唇を重ねた。
31歳の僕。
美咲だけが全てだった僕にも、もう一つ宝物ができた。それも美咲のおかげだ。
1歳を迎えた我が娘、美紀。美咲に似て、とっても美人だ。今はその顔をくしゃくしゃにして元気に泣いている。
「その泣き方はおむつね。パパ、お願いできる?」
キッチンから顔を出す美咲。僕は笑顔で請け合って美紀のおむつを開く。さすが母親、何でもお見通しだ。
僕はおむつを替えながら『ひょっとこさんの顔』をして見せた。あっという間に泣き止んで、けたけたと笑ってくれる。この顔は鉄板だ。ここも母親譲りというわけだ。
「あら、さすがパパ、上手ね」
美咲がリビングに入ってきて、僕の手際をほめてくれた。
「みぃちゃんよかったわねえ、パパにおむつ替えてもらって」
美紀の頬をつつきながら、美咲はにっこり微笑む。そして僕が美紀に見せている『ひょっとこさんの顔』に気づいて、いつもの透明な声で笑った。
「みぃちゃんがずいぶんご機嫌だと思ったら。もうパパなのに、ほんと、バカなんだから」
美咲の唇が、僕の頬に触れた。
夢のように時間が過ぎていく。
美紀の結婚、孫の誕生、私たちの還暦、金婚式……。全ての思い出に、美咲の笑顔があった。
みぃちゃんの笑顔をずっと見ていたい、僕はそう思って生きてきた。今だって、これからだってそうだ。
それだけが、今の僕の小さくて大きな夢だ。
布団に横たわった僕の周りに、美紀の家族、そしてすぐそばには美咲がいる。
子供の頃みたいに僕の手を握って、美咲が涙ぐんでいた。
そうか、今までのは走馬灯っていうやつか。死ぬ間際に今までの人生全てを見るという、パノラマ視現象。
美咲の手を握り返す力はもう残っていなかった。でも、僕にはどうしてもやらなきゃいけない事があった。
僕が最後に見る美咲の顔が笑顔であるように。美咲がこれからも笑顔でいられるように。
僕は最期の力を振り絞って、唇を尖らせた。
「あなた……。最後まで、ほんとに、バカなんだから……」
美咲の言葉と透明な声、そして、まぶしい笑顔が、僕の最期の記憶に刻み付けられた。
これで美咲も、僕を思い出すたびに笑顔になってくれるだろう。
僕の、最初で最期の夢は……。