消えちゃう魔法
◇
学校に行く道すがら、今日も芽実の足どりは重かった。
芽実は小さなころから、おしゃべりが苦手だった。
どんなにがんばっても、舌が上手く回らなくて、すらすらしゃべることができない。
こんにちは、というたった一言のあいさつだって、芽実が言うと「こ、こんにちは」とか、「こん、にちは」になってしまう。
だから芽実は、なるべくおしゃべりをしなくてすむように、学校ではいつもひとりですごしていた。
友だちがいないのは少しさみしかったけど、話し相手をいらいらさせてしまうよりは、ひとりでしずかにしている方が、気が楽だった。
小学校三年生までは、そうやって芽実なりに平和にすごしてきた。
ところが四年生になって、芽実はいじめられるようになってしまった。
いつもひとりでいてきもちわるい。
本ばかりよんでてきもちわるい。
誰ともあそばないなんて変なやつ。
おまけに上手くしゃべれないなんて、お前はおかしいやつだ。
ある日とつぜんそんなことを言われて、芽実はいじめの標的になってしまった。
つくえにらくがきがされる。ひきだしの中にゴミを入れられる。
げたばこにうわばきを置いておいたら、翌朝に「バケモノは学校にくるな」というメモが入っていた。
バケモノというのは、芽実につけられたアダ名だ。
夕方に放送しているアニメに、芽実によく似たバケモノが出てくるそうなのだ。
そのバケモノはカタコトの言葉をしゃべるキャラクターのようで、芽実の話し方にそっくりだという。
ひとりの男子が芽実がそのバケモノのキャラクターに似ていると言ったら、とたんにそのアダ名がクラス中に広まってしまった。
あぁ、いやだいやだ。
芽実は足を止めてうつむく。
学校に行きたくない。行ったらまたいじめられる。
でも、学校に行かないと、きっと先生が家に電話をしてしまう。家に電話をされたら、いじめられていることがお母さんに知られてしまう。
芽実の家にはお父さんがいなくて、ずっとお母さんとふたりぐらしだった。
芽実のためにとがんばってはたらいているお母さんの背中を、芽実は小さなころからずっと見ていた。
お母さんが芽実のためにがんばってくれているように、芽実もお母さんのためにがんばってきたつもりだ。
がんばっているお母さんに迷惑はかけられない。
お母さんのために、私ががんばってたえなきゃいけないんだ。
そう自分に言い聞かせて歩くけれど、数歩歩いたところで、また足が止まってしまう。
学校に行きたくない。
でも行かなきゃお母さんに迷惑がかかる。
でも行けばまたいじめられる。
あぁ、いやだ、いやだいやだいやだ。
思わず涙があふれそうになった時、ふと、だれかが芽実の肩をたたいた。
「やあ、こんにちは」
「えっ」
顔を上げて、芽実はおどろいた。
そこにはひとりの男の子がいた。
背格好は芽実と同じくらい。
黒いパーカーを着て、フードをかぶっている。
芽実がおどろいたのは、その子が宙に浮いていたからだ。
黒いスニーカーをはいた男の子の足は、地面から十センチほど浮いたところにあった。
芽実ははじめ、自分が見まちがえているだけだと思った。
けれど目をこすってもう一度見てみても、やっぱり男の子の足は地面よりも高いところにある。
空中でふわふわと浮かび、芽実のことを見下ろしていた。
「え、えっ、……え……」
おどろきすぎて「え」しか言えなくなっている芽実に、男の子は「あっ」と口をおさえる。
「ごめんごめん。こっちの世界の人って、空を飛べないんだったっけ。おどろかせちゃってごめんね」
「こ、こっち……?」
「ボクはユルギ。魔法使いなんだよ」
「ま、ほう、つかい?」
ユルギと名乗った男の子は、「そうだよ」と言って、空中で一回転してみせた。
とつぜん魔法使いだなんて言われても、ふつうだったら、すぐには理解できない。
でもこうやって目の前で宙に浮いている姿を見せられては、芽実は信じざるを得なかった。
「そうそう。ねぇ、君は、高階芽実さんで合ってる?」
「な、何で……わた、しの、名前……」
「だって、ボクは魔法使いだから。君が知らないことも、色々知ってるよ」
ユルギ少年の笑顔には、なんだかふしぎな迫力があった。
決して怒っているわけではないのに、なぜだか言うことを聞かなければならない気持ちになるような、迫力。
こういうの、スゴミとかイアツカンっていうんだったっけ……と、芽実は最近読んだ本に書いてあった言葉を思い浮かべた。
「ねぇ芽実さん。君、今困ってるんでしょう?」
「い……いじめ、の、こと……?」
「そうそう、それそれ。ねぇねぇ、君、ボクに願いごとしてみない?」
「ねが、い、ごと?」
ユルギ少年は、ニッと笑い、地面におり立った。
「ボクね、正確には、まだ魔法使いじゃないんだ。魔法使いの卵で、これから魔法使いになるための試験に合格しなきゃいけなくて。それでね、その試験の内容が、人の願いを叶えることなんだ」
「ね、願い……」
「そうそう。だからボク、困ってる君のところに来たんだよ。君の願いを聞いて、それをボクが魔法で叶えてあげる。そうしたら、君のなやみはなくなるし、ボクは試験に受かるし、いいことづくめじゃない?」
フードの奥のユルギ少年の目は、真っ朱だった。
まるで夕陽みたいな、燃えるような朱色。
その瞳を見つめていると、芽実はなんだか心が吸いこまれていくような気持ちになった。
急に変な子があらわれて、魔法使いだなんて言われて、君の願いを叶えてあげるだなんて言われて。
芽実は日ごろから、お母さんに「知らない人に話しかけられたら、すぐに逃げなさい」と言われていた。
だから本当なら、すぐにでもこの場から立ち去った方がいいはずなのに……なぜだか芽実の足は動かなかった。
動かない足の代わりに、口が自然と動いていた。
「なん、でも……叶えて、くれるの?」
「もっちろん。これでもボク、魔法使いの卵の中でも、優秀な方なんだよ! むずかしい魔法はまだちょっと苦手だけど、ボクの使えるあらゆる魔法を使って、君の願いを叶えてあげる!」
ユルギ少年はドンと胸を張ってみせた。
「じゃ、じゃあ……わ、わたしの、こと、消せる?」
「えっ?」
芽実の言葉に、ユルギ少年はきょとんとした顔をした。
「わたしの、こと、消して、ほしい」
「それが、君の願い?」
「う、うん……」
ユルギ少年は目をぱちくりさせる。
「そんなことでいいの?」
「そん、な、こと、って……?」
「だって君、いじめられてるんでしょう? いじめをなくしてほしいとか、いじめっこをやっつけてほしいとか、そういう願いじゃないの?」
芽実は首をふった。
いじめられているのはつらいし、いじめがなくなったら、きっと今よりもっと楽になると思う。
けれど、芽実の心には、いじめがなくなること以上の望みがあった。
「わ、わたし、ね、消えたいの……消えて、なくなり、たいの」
「消えるっていうのは……透明人間になるとかじゃなくて、君の存在を、ゼロにしたいってこと?」
「うん、そう」
ユルギ少年はふしぎそうに首をひねった。
「君は、いなくなりたいの?」
「う、うん」
芽実は自分のことがきらいだった。
上手におしゃべりができない自分がきらいだった。
いじめられるようになってからは、なおさら強くそう思うようになった。
自分はいじめられてもおかしくないくらいダメな人間なんだ。
こんな人間が生きていてもしょうがない。
わたしなんかいなくなってしまえばいいんだ。
つね日ごろから思っていたことを、芽実はユルギ少年に伝えた。
「でもそれって、ボクの魔法を使わなくても、君が自殺しちゃえばすむ話じゃない?」
その疑問は、芽実も予想していた。
今時、いじめを苦に自殺する、なんてニュースはめずらしくない。
いなくなるには、死んでしまうのが一番簡単なのかもしれない。
でも、それではダメなのだ。
「何がダメなの?」
「お、お母さん、を……悲しませ、たく、ない……」
テレビで子どもが自殺したニュースが流れると、お母さんは決まって顔をしかめた。
泣きそうな顔をして、「もしも芽実がいじめられてつらい思いをしてたら、自殺する前に、お母さんに言ってね」と何度も芽実に話してきた。
知らない子どもが死んだニュースでさえ、お母さんはすごく悲しそうな顔をする。
我が子である芽実が死んだら、きっと、お母さんはものすごく悲しんでしまうはず。
お母さんが泣くところを想像しただけで、芽実は胸がぎゅっと苦しくなる。
だから、芽実は消えてなくなりたいと思いつつ、安易に死ぬ道を選ぶことはできなかった。
「ふんふん、なるほどねぇ」
ユルギ少年はうなずいた。
「じゃあ、君の言う『消える』っていうのは、君がこの世に生まれたという記録や記憶自体も全部ゼロにする、ってことだね。単に君を消しただけなら、君のお母さんは、行方不明になった君を探し回ってしまうだろうから」
「う、うん、それが、いい」
芽実もうなずき返す。
「わ、わたしの、存在を……は、初め、から、無かったことに、してほしい、の……で、できる?」
死ぬことも、いなくなることも、がんばれば芽実ひとりでもできなくはない。
でも、生まれたことさえゼロにするのは、それこそ魔法でも使わなければできないことだ。
芽実は、ワラにもすがる思いで、ユルギ少年のことを見つめた。
「オッケー。やってみるよ」
「ほ、本、当に?」
「うん。ボクにいい考えがある」
ユルギ少年は、パーカーのファスナーを全開にして、地面をトンッと蹴った。
身体が浮かび上がるのに合わせて、パーカーのすそが、まるでマントのようにふわりとひらめく。
本当に、魔法使いみたい……芽実は思わず見惚れそうになった。
ユルギ少年はパーカーの裏から、一本の杖を取り出した。
黒くて細長い棒の先に、金色に輝く三日月のモチーフがついている。
ユルギ少年がその杖をふると、キラキラとした粉のようなものが空中に舞った。
光る粉は芽実の頭からふりそそぎ、芽実の身体にふれると、たちまち消えてしまう。
「よし、これで終わり」
杖をしまいながら、ユルギ少年はまた地面におりた。
「今、君に魔法をかけてみたよ。これで君は、いつでも好きな時に消えることができる。消えたくなったら、心の中で『消えたい!』って強く思うんだ。そうしたら、君の願いは叶うよ」
「う、うん、あり、がとう」
「ただ、もしも消えたいって気持ちが無くなったなら、『消えたい!』って思う前に、『いらない!』って強く思ってね。そうしたら、ボクの魔法は無かったことになるよ。『消えたい!』って思った後だと、君の力で魔法を解くことはできないから、気をつけてね」
「うん、わ、わかった」
芽実がうなずいたのを見て、ユルギ少年は満足そうに笑った。
「それじゃあ、またね」
ユルギ少年はパーカーのファスナーを閉め、フードを目深にかぶりなおした。
再びトンッと地面を蹴り、芽実に向かって手をふると、空中で一回転。
その直後、まるで風に溶けるように、ユルギ少年の姿は消えてしまった。
芽実が「あっ」と声を上げるひまもない、一瞬のできごとだった。
芽実は辺りを見回したり、ユルギ少年がいたところに手をのばしたりしてみたけれど、黒いパーカーを着た男の子の姿はどこにも見えず、てのひらにも何も当たらない。
わたし、本当に魔法使いに会ったんだ……
芽実が改めてそう思った時、少しはなれたところから、キーンコーンのチャイムの音が聞こえてきた。
いけない、学校の予鈴の音だ。
急がないと遅刻しちゃう。
芽実はあわてて走りだす。
ユルギ少年に会うまでは、学校に行きたくなくて行きたくなくて、何度も足を止めてしまっていたのに。
いつでも消えることができるのだと思うと、芽実は少しだけ、今日もがんばってみようかな、という気持ちになれた。
◇
その日の夜、芽実は晩ごはんを食べながら、そっとお母さんの顔を見た。
芽実の視線に気づき、お母さんが「今日もおそうざいばっかりでごめんねぇ」と困ったように笑う。
芽実はあわてて首をふった。
「そ、そんな、あやまる、ことじゃ、ない」
「お母さんが、もうちょっと料理上手だったらよかったんだけどねぇ。お母さん、昔からお料理が苦手なのよね」
芽実の家では、食卓に並ぶおかずは、スーパーで買ってきたおそうざいであることがほとんどだった。
お米は家で炊くけれど、おかずは買ってくるもの。
芽実にとっては小さなころからそれが当たり前だったけど、お母さんはそれを少し気にしてるようだった。
料理が苦手だし、仕事をしてるから料理をしてるひまもない。
だからついついおそうざいにたよっちゃうけど、売りものはどうしても添加物とかが入ってるから、芽実のことを考えるなら、手作りの方がいいわよねぇ。
そうつぶやくことが、以前からたびたびあった。
今日もそのセリフを聞いて、芽実は、やっぱり自分はいなくなった方がいい、と思った。
わたしがいなかったら、お母さんがおかずのことでなやむ必要もない。
わたしがいなかったら、料理をするひまがなくなるくらい、仕事をがんばる必要もない。
わたしがいなかったら、お母さんはもっともっと楽になるはずなのに。
わたしなんて、今すぐ消えちゃえばいいんだ。
はしをテーブルに置いて、芽実はお母さんに向き直った。
「お、お母、さん」
「なぁに、芽実」
お母さんがにこりとほほえむ。
芽実はお母さんの笑顔が大好きだった。
お母さんにはいつも笑顔でいてほしい。
わたしなんかのことで、なやまないでほしい。
「わ、わたし、ね……お母さん、の、ことが、大好き」
だから。
「バイバイ、お母さん」
そう言って、芽実は心の中で強く念じた。
(消えたい! 今すぐ、消えてなくなりたい!)
その瞬間、芽実の周りが急にキラキラと輝きだした。
ユルギ少年が杖をふった時のように、キラキラと光る粉のようなものが、芽実めがけて空中からふってくる。
その粉が芽実の身体をおおいつくす。
あぁ、わたし、本当に消えるんだ、と芽実は思った。
ところが、だ。
芽実の身体をおおった光る粉は、ほどなくして、パチンとはじけて消えた。
けれど、芽実の身体は消えてなかった。
ちゃんと目にも映っているし、触ることもできる。
ユルギ少年に言われた通り、消えたいと強く思ったのに。
念じる気持ちが足りなかったのかな、と芽実がもう一度「消えたい」と思おうとした時だった。
「……ねぇ……」
お母さんが声をかけてきた。
顔を上げると、お母さんはぎょっとした表情で、芽実のことを見つめていた。
もしかして、さっきの光る粉は、お母さんの目にも見えていたんだろうか。
いきなり空中から光る粉がふってきたら、おどろいて当たり前だ。
さすがに正直に「魔法なんだよ」と言うわけにもいかず、芽実がどうごまかそうか迷っていると、
「ねぇ、あなた、どちらさま?」
お母さんは、信じられないセリフを口にした。
「えっ……」
芽実が聞き返すと、お母さんは怖い顔をして芽実のことをにらみつけた。
お母さんのこんな顔、今まで見たことがない。
お母さんは、いつも芽実に優しかった。
芽実がどんなにたどたどしくしゃべっても、決して急かすことはなく「ゆっくりでいいのよ」と優しく耳をかたむけてくれたし、芽実が何か悪いことをしても、怒鳴る前に、何が悪かったのかをていねいに説明してくれた。
叱られたことはあるけれど、こんな風に、怖い顔でにらまれたことなんて、今まで一度もない。
「一体どこから入り込んできたの? ちゃっかりごはんまで食べて……どれだけ図々しいの?」
「お、お母、さん……?」
「お母さん? ふざけないでちょうだい!」
お母さんは腰を上げると、芽実の腕をむんずと掴み、むりやり芽実を立ち上がらせた。
「い、痛、お母さ、痛いよ……!」
芽実の泣き言にも耳をかさず、玄関の方へ行くと、芽実を家の外にほうり出した。
「私に子どもなんていないわ! だからお母さんなんて呼ばないでよ、気持ち悪い!」
乱暴に玄関のドアを閉められた後、ガチャリとかぎの閉まる音。
芽実はドアノブをひねったが、ドアはびくともしなかった。
「お、お母、さん……! お母さん……! あ、開けて、開けて、よぉ……!」
必死でドアをたたいても、一言の返事もない。
それでも芽実は懸命にドアを叩き、舌が回らないなりにがんばってお母さんに呼びかけたが、ドアを開けてはもらえなかった。
すると、となりの部屋のドアが開き、中からおじいさんが顔を出す。
「何だい何だい、そうぞうしい」
「あ、お、大家、さん……」
芽実の家のとなりには、このアパートの大家さんが住んでいる。
おとなりさんということもあって、顔を合わせれば「芽実ちゃん、芽実ちゃん」と言って、芽実のことを孫のように可愛がってくれるおじいさんだ。
芽実は大家さんに助けを求めようとそちらを見たが、芽実の顔を見た大家さんは、「おや?」とふしぎそうな顔をした。
「お嬢ちゃん、どこの子だい? 高階さんの家に用なのかい?」
「えっ……」
芽実はまた言葉を失った。
お母さんだけでなく、大家さんまでわたしのことを忘れちゃったの?
「わ、わた、し……ここの、家の、子ども、です……」
「はて? 高階さんはひとり暮らしだよ。子どもなんていないはずだけど……」
「そ、そん、な……」
「そうですよ!」
不意に、芽実の家のドアが開いた。
中から顔を出したお母さんは、変わらず怖い顔のまま、芽実のことを指さした。
「この子、いつの間にかこの部屋に入り込んでて、私のことをお母さんだなんて呼ぶんです。私には子どもなんていないし、結婚すらしたことないのに。大家さん、どうにかしてもらえません?」
「ふうむ。お嬢ちゃん、たちの悪いイタズラはやめておきなさい。もうおそい時間だし、ちゃんと自分のおうちにお帰り」
「わ、わたしの、家は、ここです……!」
「こら。言うことを聞かないと、子どもだからって容赦はしないよ。交番に行って、警察の人のお世話になりたいのかい?」
「……っ」
警察、という言葉に、芽実は身をすくませた。
何で?
どうして?
わたし、何も悪いことしてないのに……ただ自分の家にいただけなのに……
警察に連れてかれるなんて、いやだ!
怖くなった芽実は、その場からかけだしていた。
「こら、待ちなさい!」
大家さんが追いかけてこようとしたから、芽実は必死で走った。
大家さんはおじいちゃんだから、芽実が必死で走れば、つかまえられないはずだ。
つかまりたくない、警察に連れて行かれるのなんていやだ。
そう思いながら走って走って、芽実は学校の近くの公園まで走った。
夜八時の公園は、昼間の公園とちがって、遊ぶ子どもたちがいないからシンとしている。
芽実はベンチに腰かけて、ひざをかかえた。
何もかも、よくわからない。
消えたいと思ったはずなのに消えてないし、お母さんも大家さんも急にわたしのことを忘れちゃうし……一体どうなってるの?
芽実の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
と、その時、芽実の耳に、キィ、という金属の音が聞こえた。
なんとなく音の方に目を向けると、ブランコがひとつ、ゆれている。
風も吹いていないのにどうして?
ふしぎに思って目をこらすと、ブランコの上に、黒い人影があることに気がついた。
辺りが真っ暗だから、黒い人影がよく見えず、ひとりでにゆれているように見えていたらしい。
人影は芽実に気づき、手をふってきた。
「やぁやぁ、ゴキゲンいかが?」
「……あ」
ブランコに乗っていたのは、今朝出会ったユルギ少年だった。
芽実は立ち上がり、ユルギ少年の方へと走る。
「あれ? どうして泣いてるの?」
かけよってきた芽実を見るなり、ユルギ少年は目を丸くする。
夕陽のように真っ朱な目は、暗い夜の中でも、真っ朱に輝いていた。
「だ、だって、だって……」
ひっくひっくとしゃくり上げながら、芽実はさきほどまでのことを話した。
言われた通り「消えたい」と強く思ったのに、消えていないこと。
その代わり、お母さんや大家さんが、自分のことを忘れてしまったこと。
お母さんの部屋に入り込んだ悪い子どもだと思われて、警察に連れて行かれそうになったこと。
それが怖くてこの公園まで逃げてきたら、ユルギ少年と再会したこと。
芽実はただでさえ、とつとつとしか話せない上に、しゃくり上げながら話すものだから、いつも以上に言葉が上手くつむげなかった。
それでもなんとか最後まで話し、一体どうなってるの、とユルギ少年に問いかける。
ユルギ少年は、きょとんと首をひねった。
「どうなってるのって……何もおかしいことなんてないよ。全部、ボクが想定していた通りのことだよ」
「えぇ?」
ユルギ少年はブランコからおり、芽実の前に立った。
「言ったでしょう。ボク、まだ魔法使いの卵だから、むずかしい魔法は使えないんだ。君の願いの『消えたい』っていう願いを叶えるには、普通は消滅魔法っていうのを使うんだけど、それって結構むずかしいんだよ。今ここにあるものを跡形もなく消すのって、技術も魔力も必要なんだ。だからボクは、別の方法で君を消すことにした」
「別の、方法……?」
「君の大事な人の頭から、君の記憶を消したんだ」
芽実はあんぐりと口を開けた。
「記憶を消すのは、君そのものを消すことより簡単だよ。だって記憶は形の無いものだからね。形あるものを消すよりも、ずっとずっと楽チンさ」
「な、何、で……そんな、こと……」
「だって、そうすれば、君の願いが叶えられると思ったんだもの」
ユルギ少年は口をとがらせる。
「君、言ったでしょ? 消えたいけど、お母さんを悲しませたくはないから、自殺や失踪はできないって。でも今なら大丈夫! 君のお母さんは君のことをすっかり忘れちゃったから、君が死んでもいなくなっても悲しまないよ! おとなりの大家さんの記憶も消したのは、ボクからのオマケだよ」
さも楽しそうに言うユルギ少年の笑顔が、芽実は怖くてしかたなかった。
ユルギ少年の言葉は、ようするに、「これで安心して自殺できるでしょう?」ということだ。
そんなことを笑顔で言うなんて、この子は、どこか変だ。
今朝出会った時は、芽実の話を聞いてくれる上に願いまで叶えてくれようとする、優しい子だと思っていた。
でも今はちがう。
この子は、怖い子だ。
とてもとても怖い子だ。
知らない人に話しかけられたらすぐに逃げなさい、というお母さんの言いつけを、ちゃんと守っておけばよかった。
そうしたら、こんなに悲しいことは起きなかった。
お母さん、お母さん。
ごめんなさい、消えたいなんて言ってごめんなさい。
わたしがまちがってたんだ。
後悔してももう遅い。
お母さんの顔を思い出すと、またぼろぼろと涙があふれてきた。
芽実はその場にうずくまり、ひざをかかえて泣きふるえる。
「あれ? どうしたの? ボク何か変なことしたかなぁ?」
ユルギ少年は相変わらずふしぎそうにするばかりで、芽実の気持ちになんて気づいていない。
それどころか、こんなおそろしいことを言いだした。
「あ、もしかして、最後の仕上げもボクにしてほしい? しかたないなぁ、じゃあ、ボクがサクッと君のことを殺してあげるね」
芽実がギョッとして顔を上げると、ユルギ少年がパーカーの裏から杖を取りだす姿があった。
今朝と同じように、ファスナーを全開にしたパーカーが、マントのようにひらめく。
ユルギ少年は取りだした杖を空へとかかげた。
杖の先についた三日月のモチーフがきらりと光り、形を変え始める。
金色の三日月がどんどん大きくなり、するどくなり、鎌の刃そっくりの形になる。
黒いフードをかぶり、黒いマントをはためかせ、大きな鎌をかかげたその姿は……魔法使いではなく、まるで死神のようだった。
「あ、あ、あ……」
芽実は恐怖のあまり言葉をなくす。
ユルギ少年はふわりと宙に飛び、鎌をふり上げた。
「じゃあね、高階芽実さん」
そうして鎌の刃がぎらりと光り、芽実めがけてふり下ろされる。
「いやあああああああああっ!」
芽実は悲鳴を上げて、逃げだした。
大きな刃がぐさりと地面に刺さる。
間一髪でかわしたが、腕を少しかすめてしまったようで、肌に赤いペンを走らせたような傷ができていた。
昔、料理のお手伝いをしている時に、包丁で指先を切ってしまったことがあるけれど、その時とは比べものにならないくらい痛い。
芽実は傷をおさえてうずくまった。
「痛い……い、痛いよ……怖い……お母、さん……」
お母さんや大家さんに忘れられてショックだし、殺されそうになって怖いし、傷は痛いし……色んなつらさがないまぜになって、芽実はぼろぼろと泣いた。
あぁ、やっぱりわたしがいけないんだ。
消えたいなんて、願わなきゃよかった。
「うぅ……うううぅ……」
泣きじゃくる芽実を見下ろして、ユルギ少年がまゆをひそめる。
「んん? ねぇ、ちょっと待ってよ」
しゅうっと音を立てて、鎌の刃がちぢまり、三日月のモチーフへと戻る。
うずくまる芽実のもとにあゆみより、ユルギ少年は、バツが悪そうに声をかけた。
「芽実さん、芽実さん、ちょっと顔を上げて」
「や、やだ……」
「もう鎌は持ってないから、ボクの話を聞いてよ」
その言葉に、芽実はおそるおそるユルギ少年の方を見る。
夕陽のような真っ朱な目が、芽実を見つめている。
「芽実さん、君、死ぬのが怖いの?」
「こ、怖いよ……!」
「死にたくないの?」
「死にたく、ない……」
「なーんだ。じゃあ初めからそう言ってよ!」
ユルギ少年は、大きくため息をついた。
「もー! ボク、かんちがいしちゃった!」
「か、かん、ちがい?」
「だって君、お母さんを悲しませたくないから、自殺はできないって言ったんだよ。だから、『死にたい』んじゃなくて、『消えたい』んだって。そう言ったよね? だからボク、君のお母さんを悲しませないように手を打ったら、君は『消える』なんてむずかしいやり方じゃなくて、『死ぬ』っていう簡単な手段を、こころおきなく選べると思ったんだ。それなのに、実は死ぬのが怖いだなんて、話がちがうじゃないか」
ユルギ少年は怒っているようだったが、芽実はいまいちピンとこなかった。
ただ、どうやら、芽実の願いについて、芽実とユルギ少年の解釈にずれがあったらしい。
「ご、ごめん、なさい……」
「うーん……でも、ボクも傷つけちゃってごめんね。腕、見せて」
芽実が腕をさしだすと、ユルギ少年は傷をそっと指でなぞった。
まるで消しゴムをかけたように、見る間に傷が消えていく。
「これでよし」
「あ、あり、がとう……」
「どういたしまして」
ユルギ少年は芽実を立ち上がらせ、服についた土をはたき落とす。
「一応確認するけど、君の『消えたい』って気持ちは、ボクの『お母さんや大家さんの頭から君の記憶を消す』って魔法じゃ、叶えられないんだよね?」
「う、うん……」
「ざーんねん。でもボク、消滅魔法は使えないしなぁ。しょうがないから、さっきの魔法、取り消すね」
言いながら、ユルギ少年はふたたび杖を夜空にかかげた。
三日月のモチーフが、ぽわんとやわらかな光をはなつ。
すると芽実の身体から、ひとつ、またひとつ、小さな粒がわいてきた。
あの光る粉だ。
ふりかけてもらった光る粉が、芽実の身体から浮かび上がり、杖の方へと飛んでいく。
全ての粉を吸い込んだ三日月は、心なしか、前よりも金色に輝いているように見えた。
「これで君にかけた魔法は取り消したよ。君のお母さんやおとなりの大家さんも、ちゃんと君のことを思い出しているはずだ」
「あ、あり、ありがとう……」
「ところで君、どうするの?」
パーカーの裏に杖をしまいながら、ユルギ少年が聞いた。
「ボクの魔法を取り消したら、君はまた元の生活に戻るだけだよ。明日もまた、学校でいじめられて、消えたいって思ってた時と、何ひとつ変わらない生活になるよ。それでいいの?」
芽実は言葉につまった。
ユルギ少年の言う通り、このままじゃ、また同じ日々をすごすことになる。
上手くしゃべれなくて、いじめられて、そんな自分のことがきらいになる毎日。
でも。
「う、うん、大丈夫」
「本当に?」
「本当、に」
芽実は胸に手を当てて、大きくうなずいた。
◇
次の日。
芽実が登校すると、うわばきに「バケモノは帰れ」というメモが置いてあった。
そのメモをポケットにしまい、芽実は教室に向かう。
教室に行くと、芽実を見るなり、ひとりの男子が声を上げた。
「バケモノのおでましだー!」
クラスにいた子たちが、どっと笑い声を上げる。
だから、芽実はせいいっぱい大きな声で言った。
「が、がおーっ!」
それを聞き、笑い声がぴたりとやむ。
「がおー、がおー、ぼ、ぼくは、バケモノ。バケモノ、だけど、皆と、友だちに、なりたいん、だ」
そう言って、芽実はにっこりを笑ってみせた。
あの晩、芽実の魔法を解いた後、ユルギ少年は夜空に溶けるように姿を消してしまった。
ユルギ少年の消えた夜空を見上げる芽実の背中に、「芽実!」という声がかかる。
ふり向くと、血相を変えたお母さんがいた。
芽実にかけよるなり、お母さんは芽実のことを強く強く抱きしめた。
「芽実! もう、一体どうしたの? 気づいたら家のどこにもいないから、お母さん探し回っちゃったじゃない!」
その後ろから、大家さんがよたよたとやってくる。
お母さんに抱きしめられた芽実を見て、大家さんも「おぉ、芽実ちゃん、無事でよかった」とホッとため息をついた。
「お、お母、さん……」
お母さんの腕の中は、すごくあたたかかった。
「なぁに、芽実」
「お母さん、わたし、のこと……好き?」
「もちろんよ。芽実はね、お母さんの、大事で、大切な、大好きな娘なのよ。だからもう、勝手にいなくならないで」
その言葉に、芽実の目からまた涙がこぼれる。
「わ、わたし、もね……お母さ、んの、こと、大好き」
芽実はお母さんを抱きしめ返した。
お母さんの胸に顔をうずめて、わんわん泣いた。
心配かけてごめんなさい。
迷惑かけてごめんなさい。
そう言って泣く芽実の頭を、お母さんは優しくなでてくれた。
あたたかいお母さんの腕の中でさんざん泣いた後、芽実はお母さんと大家さんと手をつないで家に帰った。
その時に、思ったのだ。
芽実は自分のことがきらいだったが、そんな芽実のことを、お母さんは大好きだと言ってくれる。
芽実はお母さんが大好きだ。
だから、大好きなお母さんが好きだと言ってくれるなら、もうちょっと、自分を好きになってみようと思った。
ユルギ少年の言葉を思い出す。
――ボク、まだ魔法使いの卵だから、むずかしい魔法は使えないんだ。
――だからボクは、別の方法で君を消すことにした。
芽実が自分をきらいだと思う一番の理由は、皆のように上手にしゃべれないからだ。
でも、上手くしゃべれないのは昔からのことで、今すぐペラペラ話せるようになるのはきっと無理だ。
だから、ユルギ少年のように、やり方を変えてみようと思った。
ペラペラ話すことがむずかしいなら、別のやり方で、自分を好きになってみよう。
「がおー、がおーっ」
このセリフは、昨日、アニメで見たバケモノのキャラクターの物真似だ。
家に帰った芽実は、お母さんにたのんで、芽実と似たしゃべり方をするバケモノが出てくるアニメのことを、パソコンで調べてもらった。
お母さんがインターネットで検索すると、そのアニメの紹介ページにたどりついた。
そのキャラクターはたしかに「バケモノ」という名前だった。
けれど、決して、悪者ではなかった。
主人公のおとものひとりで、身体は大きいけれど、とても優しい心を持った、可愛らしいキャラクターだった。
芽実をいじめている子たちは、悪口のつもりで「バケモノ」と言ったのかも知れないけれど、実際の「バケモノ」は、全然悪いヤツなんかじゃなかったのだ。
だから芽実は、そのバケモノの真似をして、「がおーっ」と言ってみた。
そうさ、わたしはバケモノだ。
強くて優しいバケモノさ。
そう思うと、自分のカタコトのしゃべり方を、いやと思わなくなってきた。
これまでは「バケモノ」と言われると悲しくなっていたけれど、今はちがう。
「ぼ、ぼくは、バケモノ。がおーっ、がおーっ」
しきりに「がおーっ」とくり返す芽実を見て、教室のすみから、プッと誰かが吹きだす声が聞こえた。
「ふふっ、芽実ちゃん、おもしろーい」
数人の女の子たちが、笑っていた。
決してバカにした笑いではなく、芽実の物真似を面白がってくれている様子だった。
「が、がおーっ! お、おはよう、がおー、がおー」
芽実はずっと友だちがいなかったから、今まで、クラスメイトに自分からあいさつをしたことがなかった。
今日、初めて自分から「おはよう」と言ってみた。
「おはよう、がおがお」
相手の女の子は、ちょっとふざけた調子で、そう返してくれた。
芽実はうれしくなって、他の子にも「おはよう」と言って回った。
◇
宙に浮かんだユルギ少年は、窓の外から芽実の様子をそっとながめていた。
「ふぅん、やればできるじゃん、芽実さん」
芽実が自分なりの解決策を見つけたことにホッとしつつも、ユルギ少年は少し面白くない気持ちでもあった。
「それにしても、今回は結局、ボクの魔法を使わずに解決しちゃったからなぁ。これじゃあ、魔法使い試験に合格できないや」
そう言いながら、空中でくるりくるりと回転する。
「あの子、ちょうどいいと思ったんだけどなぁ……消えたいなんて思ってる子、そうそういないのに」
ユルギ少年はポケットから一枚の紙を取りだした。
そこには「魔術師試験要項」とあり、小さな文字がびっしりと並んでいる。
細かい文字の羅列の中に、こんな文章があった。
『試験内容は、下界の人間の願いを叶えること。
対象に選んだ人間から願いを聞き、それを魔法で叶えてあげてください。
無事願いを叶えたら、その対価として、対象の魂を狩ってください。
持ち帰ってきた魂の数で、試験の成績をつけます』
「芽実さんなら、願いを叶えるのも、魂を狩るのも、同時にできると思ったんだけど……うーん、失敗失敗。また別の子を探さないと」
ユルギ少年は紙をポケットにしまい、また別の人間を探すために、風に乗って飛んでいく。
「早くなりたいなぁ、黒魔術師」
笑みまじりのその声は、誰の耳にも届くことなく、宙へと消えていった。
了