07
その日、夜渡蓮にやってきた一人目の客は、優しそうな物腰のおじいさんだった。
その老人は帽子にスーツに杖と、緩やかに皺が刻まれた顔で、まるで穏やかな童話に出てきそうな風貌をしていて、いかにも老紳士という感じだ。
常連の日埜さんという人だよ、と、東雲がこっそり教えてくれる。日埜は天愛の姿を見て一瞬驚いたような顔をしたので、天愛は首を傾げたが、本当に一瞬のことだったので誰かと見知った人と間違ったのかもしれない。
「……お嬢さん、」
「……はい?」
天愛は呼ばれ慣れない言い方に、思わず疑問系で返してしまう。多分人によっては、その呼び方一つで怪しくなってしまうけれど、その言葉を使う老人に違和感はない。
「新しいアルバイトの方かな?」
「あ、あい。椿と云います」
「ほう、綺麗な苗字だね。私は日埜と云います……お名前は?」
「天愛です」
椿が苗字だと分かった日埜に些か驚きながらも答える。日埜は店に入ってきた時に脱いだ帽子を片手で胸元に抱えると、目を細めて微笑んだ。柔らかで優しい雰囲気に包まれて、天愛も無意識の内に頬を綻ばせた。
「晃くん、今日は狐はいるかね」
「うん、いるいる、奥に。呼んでこようか?」
「いや、あがらせてもらうよ」
日埜は天愛に軽く会釈すると、靴を脱いで勝手に奥へと入って行った。その様子を不思議そうに眺めていた天愛に、東雲は笑いかける。
「日埜さんは八十彦さんが子供の時からの、此処の常連さんらしいよ」
「へえ、そうなんですか」
八十彦に子供時代があったなんて、天愛には想像もつかなかった。当たり前のことだけれど、人の子である限り八十彦も昔は子供だったのだ。なんとなく天愛の中で八十彦は昔話に出てくるような、妖怪に近い位置にいる。自分の雇い主に対してそれはあんまりだが、それ程までに天愛にとって八十彦は奇妙な存在だった。
殆ど店にいない八十彦は、外でも狐面をつけているのだろうか。どこに出かけているのだろうか。
まだ半信半疑の店の事情よりも、八十彦が実は妖怪だった、という方が簡単に信じられる。
「天愛ちゃんが考えてること分かるよ。八十彦さんにも子供時代があったなんて、信じられないよね」
冗談めいた調子で言う東雲も、天愛の目にはたまに奇妙な存在に映ることがある。見た目は今時の普通の大学生で、最近では合コンに行くとかで天愛に店番と八十彦のお茶係を任せて仕事をサボったこともあった。けれど、たまに八十彦と似たものを醸し出すことがあるのだ。
「……東雲さんは、いつからここにいるんですか?」
「俺はちゃんとバイトとして来始めたのは高校生のときからかな。始めて此処に来たのは中学の時だったけど」
それを聞いた天愛は、東雲の父親と八十彦の父親が知り合いだと、前に聞いていたことを思い出した。
八十彦にも父親がいたのだ。しかし今はいないのだろうか。姿を見たこともないし、今のところ話しを聞いたこともない。
「あの、彩織さんのお父さんって……」
「ああ……そういやどこ行ったんだろ。俺が高校生になった時には、もういなかったなあ……八十彦さんに訊いてみたら?」
今更いないことに気付いた様な東雲を天愛は不思議に思った。東雲の口調から察するに、亡くなったわけではないのだろう。本当に謎だらけだ。
無粋な好奇心はあるが、八十彦にそれを訊ねる気にはなれずに天愛は首を横に振った。
「そういえば、さっき日埜さん、彩織さんのことを『狐』って呼んでましたね」
日埜だけじゃない。此処に来る常連客の殆どが、八十彦のことをそう呼んでいるのだ。
「昔からの常連さんはね、此処の店主のことをそう呼ぶんだよ。見たまんまでしょ」
「此処の店主……もしかして、彩織さんのお父さんも?」
「鋭いねえ。うん。八十彦さんのお父さんも、狐の面つけてたよ」
「……なにか意味あるんですかね?」
「んー? 引き継がれる趣味?」
「……」
だとしたら、相当変な親子だ。
東雲の冗談だろうが、八十彦の父親も狐の面を付けていたというのは本当のことだろう。此処の店主は、狐の面をつけないといけないという可笑しなな決まりでもあるのだろうか。
そんなことをぼんやり考えていて、ふと八十彦の言葉を思い出す。
――この面の下の顔は、君にも見覚えがある筈だ。
その声色には、冗談もからかいも含まれていなかった。核心の篭った声。
言葉だけで思い出すと、どんな自意識過剰な人なんだろうと思ってしまう。
「有名人とか……?」
ぽそりと呟かれた声に、東雲は「え? 有名人?」とオウム返しした。まさか聞こえてるとは思っていなかった天愛は、バツが悪くなりながらも小さめの声で答える。
「あの……八十彦さんが、前に自分の顔は私も見覚えのあるはずって言ってたんで……」
「で、有名人?」
「はい……」
小さく頷いた天愛は顔を赤らめた。突拍子のないことを言っているのは自分でも分かっている。
間もなく東雲が声を上げて笑い出したので、天愛は益々顔を赤くして口をついて出た言葉に後悔した。
「たしかに、近所の子供には不気味な屋敷の店の、狐の店主って噂で有名だけどね。それに子供の中には八十彦さんのこと、本気で妖怪かなんかだと思い込んでる子もいるらしいよ」
本気とまではいかないが、天愛も似たようなものだ。
「古い家系だからね、近所のじいさんばあさんの中でも、ここの店主は妖怪だと思ってる人いるみたいだし」
東雲は笑いを抑えながら言った。
「どういうことですか?」
「代々此処の店主は狐面をつけてるってこと。多分、戦前から。いつから店を始めたかは知らないけど、店を始めるよりずっと昔から、この家系の男は狐面をつけてる」
まるでそのことを見知っているかの様に、確信の篭った声で言われた東雲の言葉に、天愛は言葉をなくした。綾香の祖父が子供時代にこの店の扉を開けたということは、その時にはもうすでにこの店はあって、東雲の言葉の通りならその時代の店主も狐面を付けていたということだ。そして、それよりもずっと前から。
「まあ、変わってるよね」
変わってる、と一言で片付けてしまった東雲を天愛は唖然とした顔のまま見た。
東雲はいつの間に鞄から取り出したのか、レポートを書いている。
「変わってる、なんてもんじゃないです……」
「まあ、なんか理由があるんだろうね」
どうでもよさそうに東雲は言う。確かに、代々の店主が狐面をつけているのには何か理由があるに違いない。それにどんな大層な理由かは天愛には予想もつかないが。
「ところでさ、気になってたんだけど、どうして天愛ちゃんは狐の面が苦手なの」
「え?」
「確かに気味悪いけど、本当に恐がってるみたいだから」
「はあ……なんか、小さい頃から苦手なんです」
じわじわ。てらてら。
闇の中で広がる黒い染みを思い出して天愛は視線を落とした。遠くで聞こえる祭囃子も、煌めく明かりもその時は何も聞こえないし見えなかった。真っ暗になる視界の中で、嫌に白く目立つそれは、天愛をあざ笑うかのように赤い唇を嫌味に吊り上げていた。
「苦手なものって、人それぞれだよねえ。俺は小さい時から爬虫類が苦手。あと、苦いもの」
天愛の様子に気付いてか気付かずか、東雲はやけに明るい声でそう言った。
「私は、甘いものも苦手です」
「あれ? でも染野さんの作った甘いお菓子いつも食べてるよね」
「染野さんのお菓子は、甘すぎないし本当においしいんで」
「まあ、それは嬉しいわあ」
ほんわかした声で天愛と東雲は僅かに体を震わせた。いつのまにか二人の後ろにいた染野は、お盆にお茶とお菓子を載せて微笑んでいる。今日のお菓子はスウィートポテトらしい。
「ちょっ、染野さん! 恐いから! 気配ねえんだから、急に後ろに来ないでって前に言ったよね」
東雲は心臓の辺りを手で押さえながら、少しうんざりした様子で言った。そんな東雲の様子にも構わずに染野は、手に持っていたお盆の上の物を机の上に並べた。
「今日はスウィートポテトを作ってみたの。焼きたてやから、あったかいうちに食べてね」
「……無視ですか」
「あ、いただきます……」
天愛もまだ胸がどきどきしていたが、にこにこしている染野に頭を下げた。東雲も小さくため息をつくとありがと、と言ってまだ熱いお茶に手を伸ばす。
「染野さん、日埜さんに会った?」
「会ったよ。なんか折り入った話しがあるみたいやったけど……天愛ちゃんがここにいることに驚いてたみたいやわぁ」
「え? 私ですか……?」
「ああ……此処ってバイト雇うことなんかないから。俺みたいに元々繋がりとかあったら別だけど、天愛ちゃんは全く何も知らない子だったしねえ」
「はあ、けどちょっと思ってたんですけど、私っていらないんじゃないですか?」
「まだ辞めたいの?」
「……というか、こう、ゆったりお茶できるくらいですし」
天愛がそう言うと、東雲と染野は顔を見合わせた。
「あのさ、天愛ちゃんが始めて此処に来た日、俺途中で電話取りに行ったじゃん?あれ、八十彦さんだったんだけど、その電話で急に『今店にいる子を雇え』って言い出したんだよ。あれは流石にびっくりしたなあ」
そういえば前に東雲はそんなことを言っていた気がしたが、あの時は頭が混乱していたし、それに今も天愛の頭からは血の気が引いている。
東雲が言ったことは、天愛を凍りつかせるのに十分な言葉だった。そんな天愛の様子を、二人は不思議そうに眺める。
「どうしたの? 大丈夫?」
「固まっちゃったねー。どうしたの?」
「……あ、あの」
「うん? なに?」
「恐すぎます……」
「え、そう?」
「そうって……だって、彩織さんは、私がいること知っててそう言ったんでしょう? 別に東雲さんに聞いたわけでもないのに急に。なんで知ってるんですか!」
「ああ……なんとなく?」
特に不思議そうでもなくさらっと言った東雲に天愛は脱力した。東雲が驚いたのはどうやらそこではないらしい。急に見ず知らずの娘を雇えと言い出したことに驚いたのか、暇な店でこれ以上バイトを雇うことに驚いたのか、天愛は聞く気にもなれなかった。
染野は染野で、平然とした様子で東雲の後ろで微笑んでいる。
その時、暖簾が上がって、八十彦に会いに来た老人が出てきた。三人が一斉に視線を向けると、日埜はあの穏やかな微笑みで返す。
「もう、帰りはるんですか?」
「ええ。狐にちょっと用を頼まれたんで……」
そう言った日埜が、手に小さな漆塗りの平べったい箱を持っているのに天愛は気付いた。来る時には、確か持っていなかった。
日埜の手で隠れていてちゃんとは見えないが、艶やかな黒い面には水色と藍色でおそらく花の絵が描かれている。雅やかな色合いに、思わず目を奪われてしまう。
「この箱が、気になるのかな?」
日埜は、そう言うと手に持っていた箱を手のひらに載せて天愛に見せた。
あ、と東雲の小さな声が聞こえたが、その声の意味を考える暇もなく天愛は慌てて目を逸らす。
「あの、すみません……綺麗だなあ、と思って……」
東雲は何か言いたげに日埜の顔を見たが、天愛はそれに気付かない。
日埜は東雲の顔を見て微笑んだあと、天愛の方を見た。
「作者は不明らしいが、確かに、美しい物だと私も思うよ」
日埜が言ったので、天愛はもう一度それを見た。
蓋の中心に、大輪の花が一つ描かれているだけのシンプルなものだ。天愛には、その花の名前も分からなかったが、やっぱり綺麗だと思う。
つぶさにそれを見つめていると、あのりんっという鈴の音が聞こえて、天愛は目を見張った。日埜の後ろに赤い着物が見える。その着物の子供は日埜の足に隠れるような格好でやはり顔は見えなかった。
「日埜さん、これに包みますよ」
「ああ、すみません」
染野が、いつの間にか持って来た風呂敷を机の上に広げた。日埜がそれを染野さんに手渡す間も、天愛はその赤い着物の子供から目を離せない。
皆、その子供には気付いていないようだった。東雲も、またフォークに刺してスウィートポテトに被り付いている。
見えないのだろうか。この中で、その鮮やかな赤は確かに目立つ筈なのに。もしかしたら、本当に天愛はこの子供に憑かれでもしているのかもしれないと天愛は思い、背筋に怖気が走った。
知らんぷりを決め込もうとしても、目が離せない。
染野が、箱を風呂敷に置いたちょうどその時、その子供は日埜の影から腕を突き出した。ぎょっと天愛は体を震わせたが、その腕はそのまま横に向けられ、風呂敷に包まれようとしている箱を指差した。天愛はその指が指す箱の方に目を向けたが、意味も分からずにまた赤い着物の子供の方へ目を向けた。けれど、天愛が再び日埜の影に目を向けた時には、もう赤い着物姿の子供はいなくなっていた。
天愛はまた薄ら寒い気持ちになりながらも、やっと大きく息をついて、助けを求めるように手を彷徨わせ、隣で黄色いお菓子をおいしそうに食べている東雲の服を掴んだ。
「ん? どうしたの?」
「あの……また」
天愛は、日埜の視線が自分に向いていることに気付き、声を小さくした。
赤い着物を着た子供が、今、日埜の後ろで立っていました、なんてとても言えない。きっと気味悪がられるか、変だと思われるだろう。
「また、今、子供が……」
「……子供?」
呟いた東雲が黙り込んだので、天愛は眉を顰めた。
前の話しはやっぱり冗談だとでも思われていたのだろうか。ふざけた話しだと思って、忘れられたのかもしれない。
そもそも、あの赤い着物を着た人物は、確かに子供だったのかも、顔も見ていない天愛には分からない。
「前に言ってた赤い着物の子?」
暫く置いて東雲が天愛にあわせて小さな声で言ったので、天愛は何度も頷いた。
「どうぞ」
染野が、風呂敷に包んだ箱を日埜に渡す。日埜はいつの間にか靴を履き終えていたらしく、手に持っていた帽子を被るとそれを受け取った。
「ありがとうございます」
少し掠れた、温和な優しい声。
日埜が立っていた所には、なにもない。勿論、子供なんていない。
「日埜さんが立ってた、後ろにいたんですけど……」
「そうなんだ。俺には見えなかった。やっぱ、天愛ちゃん憑かれてるのかもね」
言われて、天愛は顔を歪めると、無神経な東雲から顔を背けた。
小さな笑い声が聞こえてきて、いらっとする。本気にしていないのか、本気にしているにしろ、天愛が恐がるのを面白がっているのかは分からないが、本気の天愛からしてみれば只管不愉快だ。
「それじゃあ、お邪魔しました」
言って、日埜は被った帽子を片手で頭の上に持ち上げた。一番近くにいた染野、東雲の隣に立つ天愛、東雲にそれぞれ会釈していく。
深くお辞儀で返した天愛は、日埜が東雲に会釈したあと、誰もいない筈の場所にもう一度会釈したのには気付けずにいた。