04
少年は、東雲に名前を告げるとさっさと帰ってしまった。結局明日またやって来るらしい。
東雲は今は奥で、不在の八十彦に電話を掛けている。
天愛はぼんやりと硝子戸から見える、代わり映えのしない外の景色を眺めてため息をついた。
暇だ。
ここに来てから暇も苦になるのだと始めて知った。時間が進むのがとんでもなく遅い。暇だったら宿題でもしてていいよ、と東雲が言ってくれたが、その宿題もあっという間に終わってしまった。
天愛はぼんやりとした頭で、今日やってきた少年のことに頭を巡らせた。
ちえ子の、ほね。
そう言った少年の名前は、確か『寺島元基』と言った。まるでおじいちゃんみたいな名前だ。そのおじいちゃんみたいな名前をした少年は、人間の骨を持ってきた。
天愛は、昔から死の気配のするものは苦手だった。骨とか、お墓とか、ぞっとする。生きて動いている、温かい体温を持った人間が、冷たくなって動かなくなって、いずれはその容を変えてしまう事実。それは、生きている人間にとっては途轍もなく底知れなくて恐ろしいこと。
此処の店主は『ちえ子の骨』を買い取るのだろうか。
普通ならありえないことだが、何故かあの店主なら買い取りそうな気がした。買い取るということは、それを欲しがる客がいる可能性があるということだ。
自身の考えが馬鹿らしくなって一人苦笑した時、天愛は近くで鈴の音が聞こえた気がして、後ろを振り返った。
「……?」
奥で電話で喋っている東雲が見えたが、他に誰もいない。
猫を飼っているなんて聞いたこともないし、やはり気のせいかと思った時だった。本当に真近で、ちりんっと鈴の音がはっきりと聞こえて、また振り向く。直ぐ真後ろで、ふわっと赤いもやのようなものが見えて、天愛はひっと息を呑んだ。
「あれ? 天愛ちゃん、どした?」
電話を終えて戻ってきた東雲は、固まっている天愛を見て不思議そうに首を傾げた。
目の前で手を振られて、漸く金縛りが解けたように天愛はふっと息を吐く。
それと同時に、背中に冷たい汗を感じた。
「……あの、」
「ん?」
「ここって……」
なにか、います?
そう聞こうと開きかけた口を噤んだ。もし頷かれでもしたら、此処にくるのは益々苦痛になる。ただでさえ狐面をつけた八十彦がいるのだ。
「もしかして、なにか見えた?」
「わーーっ!!」
からかうように、面白そうに言った東雲の言葉を打ち消そうと天愛は声をあげたが、もう遅い。
「どうして言うんですか!」
「聞きたくなさそうだったから」
東雲は可愛らしい笑顔で、そう言った。確かに、言った。
いくら可愛らしくても、今の天愛にはその笑顔は悪魔の微笑みに見える。
天愛は東雲のことを見た目は少し派手でも、少々天然気味の人の良いお兄さんだと思いこんでいた自分を罵った。
「恐い?」
「恐いから、聞きたくなかったんです!」
天愛はおもしろそうに笑いながら聞く東雲に心の底から苛ついて、声を上げた。
「別に俺、ここに何かいるとは言ってないよ?」
「……いないんですか?」
「うーん。色んな古いものを扱っているから、分からないけど……俺、そもそも霊感なんてないし。天愛ちゃん、幽霊とか信じてるんだ?」
「……半信半疑です」
「まあ、そういうもんだよね」
東雲は苦笑しながらそう言うと、天愛の隣に腰を落ち着けた。
「……真近で、鈴の音が聞こえたんです」
「へぇ」
東雲は少し目を見開いて、興味深気に天愛を見た。
「で、振り向いたら、一瞬赤い何かが……」
天愛は自分で言いながらも悪寒が走るのを止められなかった。
赤い、一瞬だけどはっきりと見えたあれは一体なんだったのだろうか。
東雲は一瞬少し驚いた顔をしたが、手で口元を覆うと考え込むようにして「ふぅん、そっか……」と呟いた。
できれば否定して欲しかった天愛は、やけに神妙な様子の東雲を横目で見て軽く項垂れた。
*
昨日、染野は天愛と東雲にお裾分けと言って、八十彦の好物だというきんつばを帰りに渡してくれた。
常連の老人が、何故か山ほどくれたらしい。「あの人はいつもそうなんよお」と染野さんは可笑しそうに笑っていた。
そして、何故か同じ紙袋が三つ。
嫌な予感はしていたが、まさかそんなことはないだろう、と天愛は油断をしていた。
天愛は学生鞄とは反対の、机の横に掛けた紙袋を見てため息をついた。
「なに。呪いのビデオでも入ってんの? その袋」
「綾香」
机の前に立った長身の友人を見上げて、うっかりもう一度大きなため息をつきそうになって、天愛は堪えた。
綾香にはまだ、『夜渡蓮』でバイトを始めたことは言っていない。
「……私、三日前から夜渡蓮でバイトしてるの」
「止めたのに」
今度は綾香が大きなため息をついた。
猛烈に反対していた割には、驚いた様子もない。諦めたような、もうどうでもいいような感じだ。
「じゃあそれ、夜渡蓮の……呪いのお面かなんか?」
的を得た綾香の質問に、天愛は目を見開いて綾香を凝視した。
「有名なの?」
「あ、やっぱりお面だったんだ。なんのお面?」
「蛙」
「……カエル?」
「多分、呪われてる」
天愛はそう言うとまたその紙袋に視線を向けた。
昨日、染野さんが用意してくれた天愛の分のきんつばと、東雲の分のきんつば、東雲が今日、夜渡蓮に行く前にお客の家に届ける筈だった、蛙のお面。
家に帰って箱を開けた天愛と母は、同じタイミングで体をビクつかせた。きんつばが出てくる筈が、蛙のお面が出てきたのだ。蛙と言っても、可愛らしさの欠片もない、古い、木で出来た蛙のお面。緑色の顔面には黒で不思議な模様が描かれていた。まん丸な大きい目の中には何十にも丸い輪が描かれていて、その中心にある六ミリ程度の穴は蛙の小さな瞳孔だ。横に大きく切り裂いたかのように開かれた口の中には無数の尖った歯があり、真っ赤な舌があった。
蓋を持ったまま固まっていた母は、そのままそっと蓋を閉めて、まるで何かの封印のように風呂敷で素早くそれを包み、紙袋へ戻すと、テーブルの端へとそれを寄せた。
「明日、ちゃんと持って言って謝りなさいよ」
そう言った母の声色には微かに怒りが混ざっていた。
天愛も母も、呪いを信じる信じないかは別にして、こういう不気味なものは大の苦手なのだ。母は特に、縁起の悪いもの等を嫌がる。小学生の頃、天愛は曼珠沙華を持ち帰り、こっ酷く叱られたことがあった。
その後、天愛は直ぐに東雲に電話をしたが、東雲はのん気な声で「あぁ〜大丈夫だよ。何時頃行くって言ってた訳じゃないから」と言った。
結局、天愛は自分の部屋にそれを持ち込むのが嫌で、今日の朝までリビングのテーブルにそれを置いたままだった。
「あそこって、どんな客くんの?」
「おじいさんとか、おじさんとか……そういえば昨日は、中学生位の子が来た」
「……へぇ、近所の子たちの遊びで罰ゲームとか?」
「ちゃんと、お客さんだったよ」
天愛はそう言うと、時計をちらりと見た。
もう、三時半だ。タイムカードなどは無いが、四時からのバイトで、天愛はいつも二十分は早く着くようにしていた。学校から夜渡蓮までは歩いて丁度十分程度だ。
「私、部活の子とここで待ち合わせしたから、先に帰ってて」
綾香がそう言ってくれたので、天愛は頷くと学生鞄と紙袋を持って立ち上がった。
少し綾香が後ずさったので、首を傾げる。
「どうしたの?」
「なんでもない……遅刻するよ」
「あ、うん。じゃあまた明日ね」
荷物を持った瞬間、綾香が嫌そうな、少し苦しそうな顔をした気がしたのだが。
天愛は不思議に思いながら、まだざわざわとうるさい教室を出た。
夜渡蓮の長い塀の端の所までくると、丁度東雲がバイクでやってきた所だった。
天愛は腕時計を見てほっと息をつくと、手に持っていた紙袋の存在を思い出し、東雲に手渡す。
変わりに、きんつばの入った袋を渡してくれた。
「天愛ちゃん、ごめんね。袋全部同じだし、箱の大きさも大体同じ位の大きさだから、間違わないようにしてたつもりなんだけど……あ、中見た?」
「……はい、すみません」
「ううん。大丈夫だよ……てか、大丈夫だった?」
「え?」
天愛は嫌な予感がして顔を顰めた。
「呪われてそうじゃない? 買い手が見つかってよかったよ。それが店の中にあるのマジで嫌だった。素でこえーし」
夜渡蓮の店内で、東雲があの薄気味悪いお面に戦いているのを想像して、天愛は苦笑いしながら少しだけ見慣れてきた硝子戸を開けた。
「おはよう」
優しいその声は、八十彦のものだ。
天愛は店の奥を見て固まった。今日はめずらしく店に出ているらしい。大体いつも、東雲か天愛がいない時には染野が店番をしているのに。
傍らには寺島元基が立っていて、天愛達を見ると軽く会釈した。
その姿は、今日も着物に袴という身なりだった。固まった状態の天愛を怪訝そうに眺めている。
東雲は入り口で突っ立ったままの天愛の背中を軽く押すと、苦笑しながら「とりあえず、入りなよ」と言った。天愛は黙ったまま頷くと、八十彦と寺島少年がいる方へとなんとか歩いた。
八十彦とは最初に会った日以来、直接は顔を合わせていない。
「……おはようございます」
「おはよーございまーす。あと、いらっしゃい」
弱弱しい天愛の声とは違って東雲は明るい声で八十彦と寺島少年に挨拶をすると、八十彦の手の中にある物を覗き込んだ。
ちえ子の骨だ。
「……あの、彩織さん……それ、買い取るんですか?」
天愛は四日前に聞いた、八十彦の苗字をなんとか思い出して、おずおずと質問した。
八十彦は一瞬、東雲の方に目を向けたあと、お面の下で少し笑う。少女が自分に怯えているのが面白いかのように。東雲はまた苦笑すると、天愛の方をちらりと見た。天愛はそんな二人の様子に少しも気づかずに、八十彦の手の中にある、白い紙に包まれたまま開かれていない『ちえ子の骨』にじっと見入っている。
「店主は、買い取ってくれるみたいです」
答えたのは、八十彦ではなく寺島少年だ。
天愛が目を向けると、その少年も八十彦の手の中にある『ちえ子の骨』をじっと見ていた。
天愛は少し目を見開くと、八十彦の、お面穴から覗く真っ黒な瞳を見た。八十彦は少し肩を竦めると、骨を大切そうに、近くにあった小さな桐の箱に入れてしまう。
「東雲、お茶」
「……はいはい」
東雲は天愛の肩をぽんぽん、と軽く叩くと靴を脱いで奥の方へと引っ込んだ。
「……あのっ私も荷物、置いてきます」
「此処においておいたらいいよ」
慌てて東雲の後を追おうと靴を脱ぎかけた天愛に、八十彦は自分の隣にある机を手で軽く叩いてそう言った。
「はい……」
天愛はそう言うしかなく、八十彦に見えないとこで軽く項垂れると机に荷物を置いた。
「あの、じゃあ僕はそろそろ帰ります……」
そう言って立ち上がった寺島少年は、東雲が置いて行った荷物にぶつかり床に落としてしまった。白い紙袋の中からは桐の箱と、その間から緑色の、あのお面が見える。
天愛はそのお面が見えるとぎょっとして固まった。
あの時、母がしっかりと風呂敷に包んだ筈なのに。
「……それ、一之瀬爺さんの……」
「え?」
なにか、勘違いしてるのだろうか。
寺島少年はその蛙の面を見て、呆けた様子で呟いた。
八十彦は、寺島少年の言葉に目を細め、ゆっくりとその面を拾った。
「これを、知っているみたいだね?」
「……いえ、そんな筈はないので……僕が見知っている物と、似ているだけだと思います」
寺島少年はまだ少し呆けた様子だ。
「それに、僕が見たのは、緑で塗られてはいませんでした」
「……へぇ、」
八十彦はそう呟くと、床に倒れた紙袋と箱を拾って、その箱の中に蛙の面を入れると蓋を閉めた。
風呂敷は、箱の回りでくしゃくしゃになっていた様だ。
天愛は、寺島少年の言葉の意味が解らないのと、何故か解けてしまっていた風呂敷に、混乱してしまう。
「誰かが、悪戯で風呂敷を解いたみたいだね」
急須と四人分の湯飲みを載せたお盆を持って戻ってきた東雲は、どこか楽しそうにそう言った。
誰かが、なんておかしい。
天愛が東雲に紙袋を渡した時、東雲は紙袋の中を覗いていたから風呂敷に包まれた箱を見ている。あれから袋の中を誰も触っていない筈だ。東雲も、それを知っている筈なのにどうしてそんなことを言うのだろうか。
目を白黒させて固まっている天愛を見て、八十彦と東雲の二人は顔を見合わせて、天愛の知らないところで笑った。