03
「……あの、大丈夫なんでしょうか? この店」
こんなことを尋ねるのはどうかと思いつつも、アルバイトに来始めて三日目の午後、天愛はとうとう心配になって尋ねた。
「ああ、全然大丈夫だよ」
とひらひらと手を振って答えたのは、天愛と同じくアルバイトの東雲だ。
天愛が落ち着きなくそわそわしているのに対して、東雲はその隣りで平然と、先程お手伝いさんの染野が持ってきてくれた苺大福を食べていた。
小さな皿の上に置かれたそれは薄っすらと白く、中に入った苺と餡の色をうつしている。
「天愛ちゃんも食べなよ、染野さんのお手製苺大福。まじでおいしいから」
迷いながらも、天愛は東雲に進められるままに小さな皿に置かれた苺大福を少しだけ口にした。甘い物は余り好きではないが、東雲があまりに美味しそうに食べていたし、勧められて断ることはできない。
「……おいしい」
程よい甘みの餡子と、甘酸っぱくて瑞々しい苺の組み合わせが絶妙だった。それに思っていたよりも随分とあっさりとしていて食べやすい。そのおいしさに天愛は一瞬、先程までの心配事を忘れて一口、また一口と頬張った。
東雲が隣りでその様子をおもしろそうに眺めているとも知らずに、あっと言う間に平らげてしまう。
「あんまりおいしいもんだから、他のこと一瞬飛ぶよね。はい、お茶」
「あ、ありがとうございます」
と、天愛は東雲が入れてくれた熱いお茶をごくごくと飲んで、一息ついたところでようやくはっとした。
「本当に一瞬飛んじゃってたんですけど、大丈夫なんですか? この店」
天愛は再び同じ質問をした。
訊きたいのは「この店潰れないんですか?」ということだった。
アルバイトに来始めてからのこの店の客足は、天愛の想像以上に少なく、昨日なんてひやかしに、常連だという老人が一人やって来ただけだった。趣味程度にのんびりとやっているだけならまだしも、学生のアルバイトを二人、しかも結構な高賃金で雇っているのだ。とてもやっていけるとは思えなかった。
それに、仕事と言った仕事もしていないのにお給料を貰っていいのだろうか、と思ってしまう。天愛がここに来てからした事といえば、店内と商品の掃除と、毎回染野が出してくれるおいしい手作り菓子を食べて、これまたおいしいお茶を飲むことくらいだ。掃除をする物は山ほどあるようにも見えたけれど、見た目の劣化が激しい物でも、どれも隅々まで綺麗に掃除されていた。天愛はそれらに埃が積もらないように拭き掃除をして、時間を過ごしたりしていたが、自分はどう考えても必要のないような気がして、時たま居た堪れない気分にさえなってしまう。
本当に一体どうして、もう一人雇おうと思ったのか理解もできなかった。
「うーん。俺も最初は心配だったけど、意外と常連さんも多いし……たまに希少なお客さんが希少な物を持ってきてくれるから、それを嗅ぎつけた鼻のいい常連さんが結構な高額で買ってってくれるんだよ」
東雲は急須から湯のみにお茶を継ぎ足しながら言った。よい香りが立ち上ってくる。
「そうなんですか……」
希少なお客さんって、なんだろう。凄いお金持ちとか。
天愛はそんなことを思いながら、なみなみと注がれるお茶をぼんやりと眺めた。黄緑の透き通ったそのお茶は、先日染野が購入したという茶葉で淹れられたものだ。
その茶葉が一体幾らほどするのか、天愛には想像もつかなかった。恐らくとても上等な物なのだろう。ここの店主は、茶に対して大した拘りを持っているのだと、一日目に東雲が言っていた。
「多分そろそろ、またその『希少なお客さん』がやってくると思うよ」
東雲はおもしろそうにそう言うと、お茶を啜り、店の戸口の方を見た。
天愛も東雲の視線の先を辿ってみたが、そこには誰もいない。古びた木の門と、その先のアスファルトの道路に引かれた白線や真新しい電柱は、合っていないようで妙に馴染んでもいる。その道路の向こう側は、所々木と雑草が生えた空き地だ。夏には地面が見えない程の、長く生い茂った雑草が覆い尽くしてしまうらしい。
「来る、て連絡があったんですか?」
天愛がそう尋ねると、東雲は何が可笑しいのか声を上げて笑った。
「ははっ! 連絡は多分今まできたことないなあ。そのお客さん達はいつもランダムに、突然来るんだ」
「『お客さん達』ってことはたくさんいるんですか。常連さんとか」
「ああ。大体一度取引きをしたお客さんが、もう一度此処に来るってことはないかな。つか多分、もう来れない」
東雲はまだおかしそうに笑いを残したまま答えた。
天愛にとっては東雲の言うことはいまいち核心をつかなくて意味が分からない。首を少し傾げながら、もう一つだけ聞いた。
「だったらどうして、そのお客さんが来るって思うんですか?」
「あぁ……俺も、鼻がいい方なんだ」
東雲はそう言うと再び硝子戸の方に目を向けた。天愛はやはり意味の掴めない東雲の言葉に小首を傾げながらも、つられるように引き戸の方に目をやる。
もう日も暮れかかり、外の景色は赤く染まっていた。遠くで子供の声がする。時々車の騒音が少し離れた場所から響いてきた。開け放たれたままの広い門の間から、夕日の明かりが長く伸びて店内まで届いている。薄暗い店内から見た外は、随分と明るく感じる。
――今日はもう、お客さんは来ないかもしれない。
そうぼんやりと思いながら、苺大福の載っていた皿と湯のみを片付けようと天愛が立ち上がった時だった。
その日一日動かなかった硝子戸ががらり、と開かれたのは。
*
その客は、天愛の姿を見ると顔を顰めたが、東雲の姿を見た途端目を見張らせた。
心なしか、顔が引きつっているような気がして、天愛は東雲の姿を凝視して固まったまま、なかなか入ってこようとはしない客をじっと眺めた。
中学生位の年頃の少年だ。白い着物の上に羽織を着て、紺の袴を履いている。
今時そんな格好は中々見れないので、天愛は踊りの教室かなにかの生徒さんで、その帰りによったのかな、と勝手な想像を巡らせた。それに子供がこんな店に入ってくるなんて、違和感がある。近所の子だろうか。
「……あの、外国の方ですか?」
緊張した面持ちで言われた、その少年の第一声に天愛が今度は目をまるくした。視線を変えずに言ったので、おそらく東雲に聞いているのだろう。天愛は髪も黒いし、どう考えても日本人にしか見えない。けれど東雲も、最近多い綺麗めの顔だが、ほりがそんなに深い訳でもないし、どう見ても日本人だ。ただ髪が明るいというだけで、外国の人になんてまず間違いはしないだろう。それに今時、こんな髪色の青年は珍しくもないし、むしろ溢れかえっているくらいだ。
天愛が少年と東雲を交互に見ていると、東雲がなぜか慣れた様子で「違うよ。俺、完璧日本人だから」とにやにやしながら答えた。
けれど少年は訝しげに東雲を眺めたまま、いまだに開けた戸の向こう側で立ちすくんでいる。
「とりあえず、どうぞ中に……」
天愛ができる限り愛想よくそう言うと、少年は一瞬怯んだように体を揺らせたが「あぁ」と短く答え、ゆっくりと警戒するように店の中へと一歩足を踏み入れた。
「――っ」
少年が戸の木枠を通り越したその一瞬、天愛は鋭い耳鳴りを覚えて咄嗟に耳を塞いだ。今までに感じたことがない、気が遠くなる程のものだった。他の音が一切聞えなくなってしまいそうな位の耳鳴りで、鼓膜が痛んだような気さえした。
前を見れば、少年も眉間に皺をよせて耳を塞いでいたが、やがて訝しげに手を離した。
東雲だけが、ただ平然と木の椅子に座ったまま微笑んでいる。
「あの、今……」
凄い耳鳴り、しませんでした?
天愛がそう訊こうとすると、東雲はその先を読んだかのように天愛の言葉に続けた。
「耳鳴りでもした?」
「はい。あの、東雲さんも?」
「俺は別に」
天愛が首を傾げると、東雲は苦笑した。肩を竦めて、小首を傾げる。
「二人とも、急に耳塞いだから、耳鳴りでもしたかなあって思って」
「はあ、」
どう考えても、今の状況も、東雲の言い方も少し変だった。東雲に耳鳴りがなかったのだったらなお更だ。二人の人間が何もないのに突然耳を塞いだ理由が、耳鳴りだったと気付いたその勘の良さは一体なんなのだろうと、天愛は釈然としないままため息のような返事をするしかなかった。
「あの」
いつの間にか天愛と東雲の近くまで来ていた少年がやけに通る声で言ったので、天愛は慌てて少年の方へと体を向けた。少年は先程とは違って、少し迷っているような、途方に暮れたような顔をしていた。一瞬視線を彷徨わせたあと、東雲の方がこの店の店主だと思ったのだろう、力を篭めて東雲と目を合わせながら言った。
「此処にくれば、なんでも買い取ってくれると聞いたのですが……」
「ああ。なんでもって訳じゃないけど、それなりに価値があるものなら」
「……価値があるかは判りませんが、こんな物でも買い取ってくれるでしょうか?」
そう言って少年は、手に持っていた茶色い油紙に包まれた小さな何かを、東雲に手渡した。
東雲はそれを手に取って一瞬目を細めたが、紙を開かずに少年の方を見た。微笑んだままだが、その目は真剣みを帯びている。
「これは?」
「ちえ子の骨です」
少年の言葉に天愛は目を見開いて、東雲の手の上にある小さなそれを凝視した。
三角に折られた油紙は、小さく膨らんでいる。
ちえこの、ほね。
「うーん。それだとちょっと俺が決めるのは難しいなぁ。今は店主もいないし、悪いけどまた明後日これを持ってきて貰ってもいいかな?」
「明日では駄目ですか?」
「もしかして、急ぎかな?」
「……できるだけ早く、これを手放したいんです」
少年はそう言うと苦しそうに顔を歪め、俯いた。