22.
蔵の掃除がひと段落ついたのは日が沈みきる直前だった。
一度は外に出した物を片付けながら再び中に入れるのは骨の折れる作業で、天愛と東雲は帰る頃にはぐったりとしていた。それでも今回した掃除は本格的なものではないらしく、大掃除の際には蔵中の物を出し、梁の埃落としまでするのだという。
店に出せるものは出し、不必要と判断された物は持って帰ってもいいと言われたが、訳の分からないものばかりで天愛が帰りに手に持ったのは華奢な持ち手の手鏡だけだった。牡丹の花が繊細な線で彫られたそれは、彼女の目に充分売り物になるように見えたが、今日のお礼も含めてということで持たされたのだ。彼女自身が使う様な物ではなかったが、祖母に渡せば喜んでもらえるだろうと天愛はありがたくそれを貰うことにした。
「明日筋肉痛になってそうだよ」
首を捻りながら東雲は言った。バイクを押す姿も心なしかいつもよりも気だるげだ。それに乗って帰ればもう少し楽なのだろうが、駅まで歩く天愛を送り届ける為に歩いてくれている。そんな彼の姿を申し訳なさそうに見ながら、天愛は蔵の中で見た写真を思い出した。
奇妙な偶然は思い出すほどに気味が悪いものだ。祖父母の代でも夜渡蓮との関わりがあったこと、腰を悪くした祖母の家の帰り道いつもは通らない道を通ったことで夜渡蓮に辿り着いたこと、小さな頃祭りで狐面の少年に出会っていたこと、自身の姿が夜渡蓮の女主人の姿に生き写しであること。
「そういや明日は土曜だけど、天愛ちゃんは学校だっけ? 夕方から来るの?」
物思いに耽っていた天愛は、訊かれて目を瞬かせた。彼女の通う高校は学校週五日制が当たり前になった今でも第一と第三の土曜は登校日とされている。明日はちょうど第三土曜なので登校日だ。
「はい。授業は昼までなので、二時から来ることになってるんですけど……どうしてですか?」
「うん、明日特別なお客さんが来るからさ」
それは希少な客とは違うのだろう。けれどその言い回しに天愛は僅かに首を傾げた。
「特別な、ですか?」
「そう。特別な、だよ」
そんな遠まわしな言い方をせずに、どの様な客か教えてくれればいいのに。眉を顰めて天愛はいかにも裏も表もありませんといったうさんくさい笑顔を見た。夜渡連には気の良い老人が客層の大半を占めるが、時折まともとは言えない客も来るのだ。知っているのなら安心か心構えくらいさせて欲しいものである。
「天愛ちゃんも、前に会ったことがある」
こういう時の彼は口を割らない。天愛は小さなため息を吐くと、そうですか、と相槌を打った。どうせ明日になれば分かることだとわりきる。わりきりと諦めは大切だ。店で働くようになってからその二つが上手くなったことが、悪いことなのか良いことなのかは天愛には分からない。
「前に東雲さん言ってたじゃないですか、狐と店主はお互い見えないって。どうやったら見えるようになるんですか?」
話をころりと変えた天愛に気を悪くした様子もなく、東雲は「さあ?」と肩を竦めた。
「方法が分かってたら、当の昔にこんな馬鹿げたことは終わってたと思うよ。今でも分からないから、続いてる。多分お互いの存在をなんとなく感じてはいて、近くにいる。だから天愛ちゃんは狐の目にも、女店主の目にも留まった」
「……東雲さんには、女主人が見えるんですか?」
「前にも言ったけど、視えないよ。昔は視えてたんだけどね、視えなくなってしまった。これでも俺、前は霊感少年だったからさあ」
その様な事柄とは一見無縁そうな彼の口から出た言葉に天愛は目をぱちくりさせた。けれど思い返してみれば納得できそうな気もする。普段、どこか抜けてはいるが人当たりが良く明るい彼は、いかにも今時の青年といった様子だが、ふとした拍子に掴みどころのない、どこか神秘的ともいえる空気を纏うことがあるのだ。昔は、ということは今はそうではないということなのだろうが、それでも彼は異様に勘が鋭い時がある。もしかすると名残のようなものなのだろうか。
「近くにいるのに視えないって、辛いことなんでしょうね」
あくまで想像でしかないが、それだけでもなんとなくなら分かった。その感情が伴わなければ、恐ろしいほどの執着心はとうに終焉を迎えていただろう。愛おしいと思うなら、その苦しみも一入に違いない。
けれど、そうは思うが天愛はやはり女主人の執着を怖ろしく感じている。傍からから見れば、それは狂おしくも怖ろしいものなのだ。同時に、その様な感情に身に覚えのない者を強く惹きつける何かがあった。
天愛が指したのは狐と女店主のことだったが、東雲はまるで彼自身が苦しいかの様に顔を歪めた。
「東雲さんは、どうして視えなくなったんですか?」
外灯の灯りに引き寄せられた大きな蛾が飛び回るのを目で追ったあと、隣を見上げて天愛は問いかけた。
逆に、全く視えなかったものにも視える可能性があるのだろうか。元々天愛は、夜渡蓮に来るまではその様なものとは全くの無縁で生きてきた。恐らく殆どの人間がそうなのだろう。あの不可思議な骨董店で女主人と狐を視る様にはなったが、その他で何かを見たわけではない。一歩店から出て外の空気を吸えば、それもたちまち夢だったかの様に現実感が薄れてしまう。
東雲は少し考える様に目の前の景色を見つめてから口を開いた。
「親戚の子が死んでからかな。弟分みたいな奴だったんだけど、その子がまだ小学生だった時に事故でいなくなってしまったんだ。その翌日からだよ。それまで割とはっきりと見えてたものや声が無くなったのは。どうしてかは今でも分かんないんだけど、まあ、それがきっかけだったのかもとは思ってる」
ふわりと通り過ぎた風に釣られるように、天愛は振り向いた。途端、頭の中に強烈な映像が浮かんだが、それはほんの一瞬のことで、それが何かを認識する前に消え去ってしまった。
呆然と目の前の光景を眺める。アスファルトの敷かれた一方通行の道路にコンクリートブロックの塀、外灯には大きな蛾が集っている。いつもの夜の風景だ。
「どうしたの? 天愛ちゃん」
「……今、誰かが」
言いかけて、天愛は口を噤んだ。フラッシュバックにも満たない曖昧な残像を頭の中で探ろうとしても、手がかりさえも分からない。分かるのは、ただ誰かがいたということだ。
「なんでもないです」
天愛が首を振ると、東雲は訝しむこともなく微笑みを浮かべて首を傾げただけだった。
先ほどまで彼が話していた内容を彼女は頭の中で反芻する。小学生の男の子。その言葉に胸の奥がざわついたが、その感情の揺れを敢えて無視した。
「ずっと見えてたものが急に見えなくなるのって、寂しくないですか?」
そう言うと、東雲は驚いた様に目を円くした。
「うん、まあ、確かに。最初はせいせいしたと思ってたんだけどね。暫くすると、よくわからない喪失感を感じたなあ」
そう言って肩を竦めた彼は、天愛をじっと見た。
「んー内緒にしようと思ってたけど、天愛ちゃんには言おうかなあ」
「何をですか?」
「うん。あのさ、引くかもしれないけど、実は俺の初恋は女主人だったんだ」
その言葉は頭で理解するのに数秒は要するものだった。天愛はぽかんと開いてしまった口を閉じもせず、東雲を見上げたまま思わず立ち止まる。東雲もそれに合わせて立ち止まったが、気にした様子もなく話を続けた。
「最初は他のものと同じ様なもんだと思ってたんだけど、まあ、悪戯とかよくするし鬱陶しいなくらいには思ってたんだけどね、びっくりするくらい普通の女の子みたいに笑うんだよ……天愛ちゃんは顔が見えないみたいだから、こんなこと聞いても不気味に感じるかもしれないけど」
顔が見えたとしても、かつての自分の姿と同じ姿に戦慄を覚えたかもしれない。それとも、自身の姿など写真を見て知っているだけで案外、動いている姿を見ても自身のものとは被らないのだろうか。
「だから、もう一度視たいとは思うな。いや、もう一度会いたいんだ」
それはさらりとした口調で言われたが、そこには強い意思が宿っているようだった。
「今も好きなんですか?」
天愛がそう訊くと、東雲は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「まさか。ただ何となく心残りというか……初恋って特別っていうでしょ?」
そうだろうか。天愛は自身の記憶を掘り起こしてみる。幼稚園の頃恋人ごっこをしていた男の子とは一緒にいたいとは思っていたが、思い返してもそれが恋だったのかも分からないほど曖昧で幼稚なものだった。今会いたいかと訊かれれば、そう願う気持ちはない。そういう点では、千尋は天愛にとっての初恋だったのかもしれない。祭りの高揚感もあってか、手を引かれて歩く間、公園での一時、胸のざわめきの様なものを感じていたのだ。それは長い間、罪悪感とともにしまわれていたものだった。
確かにあれは特別なものだった。二度と会えないという喪失感は、その感情を深くする。しかし、遠い記憶は強い執着を抱かせるほどのものではなく、淡い感情の波として胸を締め付ける程度のものだ。どれだけ悲しくとも楽しくとも、時間が過ぎるほどにそれらを遠のけてしまう、人間とは薄情な生き物だ。だからこそ、女主人の執念が異常なものだと分かる。
もしかすると、とふとした考えが頭を過ぎる。彼らは、もしかするとお互い相手が唯一の相手だったのかもしれない。時代背景ははっきりとは分からないが、異端とも言える異国の少年に狐面を被った少女。彼らの周りには誰もいなかったのかもしれない。それならば、ほんの少し納得がいく。天愛には今家族がいて友達やそれ以外の知人関係もある。その中の一人がいなくなった時、悲しくどうしようもなくなるかもしれないが、他の人の支えと年月があればきっと乗り越えることができる。けれど、唯一絶対無二の一人しかいなかった場合、その人を失くしてしまえばそれこそ奈落に落ちるようなものかもしれないのだ。全ては想像でしかないのだが。
死に別れ、その後も互いがたとえ強く求め合っていたとしても姿さえも見ることさえ叶わない。それでも求めることを止めないのだ。
「狐に会おうなんて、私だったら、すぐに諦めてしまいそうです」
「そうかなあ。まあ、確かに女主人の執着? はまともじゃないと思うけど……天愛ちゃんは多分まだ知らないんだよ」
天愛が首を傾げると東雲は目を細めた。
「冷静な話をするとさ、お互いが互いのことを大好きってなってる一番の時期に相手に死なれたら、少なくとも一生何かを引きずりそうじゃない?」
一番強い感情を抱いている時期を過ぎて、それでも共にいた時に本人たちの中での選択肢が生まれてくるが、女主人と狐はそれ以前の話だったと東雲は言う。それで何を知らないと言われたのか天愛はようやく合点がいった。まだ本気で人を好きになったことがないというのだ。それには反論のしようもないと天愛はすぐに自身で納得した。年頃の娘によくある身近な異性を意識したり、淡い恋心を抱いたことはあっても、身も焦がれるほどの感情など抱いたことはないし、自身がそんな感情に満たされるなどという想像さえもつかない。
「随分昔に亡くなってしまった人の想いが今でも続いているのかと思うと、ぞっとしますね」
良い意味でも悪い意味でも。正直な言葉だったが、言い方が悪かったかもしれないと天愛は口にした後で気付いた。その想いを受け継ぐ人に連なる人間の前で言うべきではなかったかもしれない。
しかし東雲は頷いた。
「本当に、ぞっとするよ」
しみじみと言われたそれには本当に実感が篭っていた。
天愛は思わず隣の青年を見上げた。外灯の青白い灯りに照らされた横顔によく馴染んだ、秋の薄野を思わせる金色の髪。彼がこの時代に生まれたのは幸いと言えるだろう。遠い昔の日本でなら、妖怪扱いされそうな色味である。それこそ、狐の様に。彼の姿がただの偶然などではなく、女主人の妄執のせいなのだとすれば怖気も走る。
何にしても、今も続く因果に天愛も関わってしまったことには変わりない。関わってしまったからには、関わってしまったなりの最良の選択をしたいとは思っている。しかし今はその選択肢さえも分からない現状だ。そもそも、幼い頃のあの夏祭りの日の選択から間違ってしまっている。けれど取り戻せはしないが、先はある。刻一刻と過去へと変わっていく時間を惜しむのは当たり前のことだが、天愛はまだ人生の中で出発地点に近い位置に立っているのだ。不謹慎かもしれないが、夜渡蓮に関わることでこの先にも強く残る何かがあるかもしれないとも感じていた。