東雲晃の場合
彼の青年が、夜渡蓮に初めて訪れたのは彼がまだ中学生の時のことだった。
親族に、骨董店を生業としている者がいると耳にはしていたものの、彼はその店がどこにあるのかも、店主がどの様な人物かもその時はまだ知らなかった。知らなかった方が良かった、とは言っても後の祭りである。まだ十四歳になったばかりの少年は、父の何気ない一言によって否応なくその骨董店とその店主、店に纏わり付く歴史と関わっていくことになってしまう。
始まりは、「出かけよう」と言う父の言葉からだった。中学校から帰ってきたばかりの東雲は、父親のその突飛な一言にあからさまに眉を顰めた。彼の父親が訳が分からないのは常日ごろのことと言っても間違いではなかったが、その時程、東雲は父を不審に感じたことはなかった。後から彼はそれを虫の知らせだったのだと思い返すことになるが、それも後の祭りである。
ともかく、彼は黒いスーツを着込んだ父に引き摺られる様にして、自宅前に停められていた乗用車に乗せられた。主語が完全に抜け落ちた父の言葉からは車がどこに向かっているかなど、彼には見当もつかなかったことは言うまでもない。行き先を訊いても、父は「良い所だよ」と妖しい言葉を舌に乗せるのみだった。良い所、など、夜の仕事をしている父親から出た言葉は、とても良い所などと思えなかったが、東雲はむっつりと口を閉ざした。実の親子でありながら、彼にとって父との応酬は他のどの様な他人とのものよりも疲れるものなのだ。もし怪しげな場所だったなら、着いてから逃げてしまえばいい。
東雲は、子供がいるとはとても見えない父親の横顔から目を逸らし、外の景色に集中した。車は、国道を走り、いくつかの分かれ道を曲がると閑静な住宅街の中へと入っていった。目新しい家や古い家が立ち並ぶそこには、近くに学校があるらしく、ランドセルを背負った小学生たちの下校する姿が目立った。
何の違和感もない景色だ。けれど、東雲は逆にそのことに違和感を感じた。こんな平凡な住宅街に、父が嬉々とするものがあるのだろうか。東雲の父親は基本、刹那主義だ。三一歳にもなるというのに、まるで若者の様な生活をしている。世の中の三十台の男性には勿論そういう人がいない訳ではないが、子供のいる三十台の男性としては、東雲の父は少々羽目を外しすぎなところがある。そもそも今の水商売もその性質から、簡単に選ばれたものだった。女性と遊び、会話し、酒を飲みながらも給料が発生すう仕事。まさに父親にとっては天職と言えよう。勿論、その一言で簡単に成し遂げることのできる仕事ではないことも東雲は少しは理解していたが、彼の父の場合は飄々とした様子でトップに居座り続けているのだ。その歳から、終わりは見えているが引退してからは経営側にでも回るつもりだろう。
そんな派手な生活がしっくりくる彼には、この本当に平凡としか言いようのない住宅街は似つかわしくなかった。それは東雲の主観ではあったが、車を降りるとそれは主観ではなくなった。近所の若い主婦達が数人集まって会話をしている近くで父は車を停めてしまったのだ。車を出た途端に感じた視線に東雲はうんざりとした。父と学生服を着た自身に対しての彼女達の視線の理由はなんとなく分かっていた。「ご兄弟かしら」と微かに彼の耳にも届いたが、気付かないふりをする。
「着いたよ。ここが良い所だ」
にこやかに言う父に言われて、東雲が顔を上げるとそこには古びた門構えの屋敷があった。門の上には『夜渡蓮』と書かれたこれまた古びた木の看板が下げられている。そこが親戚が営む骨董店だとは、東雲にはすぐには思い当たらなかった。それでも、その異様さに息を呑んだ。りんっと聞こえてきた鈴の音に、肌が粟立つ。
「なんだよ、ここ」
「何って、親戚の家だよ。お前は来るの初めてだろう? ちゃんと挨拶しろよ」
そう言って、父は東雲の黄金色の髪をくしゃくしゃと掻き雑ぜると、東雲が振り払ってくるよりも早くに手を退けた。
「ふざけんな。俺は帰る」
「此処には、お前の向こう一ヶ月の生活費が掛かっていると言ってもいい」
仇を見る様な目で東雲は父を見上げた。二人は暮らしている場所は一緒だと言え、その生活は別だ。夜になる頃に家を出て、午前中に家に帰ってくる父とは違い、東雲は朝家を出て夕方、もしくは夜に帰ってくる生活を送っている。その為二人は同じ家の住人でありながら奇跡的な程に顔を合わせることがないのだ。父はその月その月の生活費を手渡しするではなく、子供の口座に振り込むという有様だった。言わば、その振込みは東雲にとっての生命線だ。これがなくなってしまっては、飢え死にすることはなくとも困ることになるのは目に見えている。学校に隠れてアルバイトをするという手もあるかもしれない。けれど、中学生を雇ってくれる所など滅多にないし、そもそも東雲の髪色では面接で門前払いを食らってしまうだろう。この屋敷に入り、その住人に挨拶をするだけならば安いものかもしれない。
東雲は渋々、父に続き門をくぐった。再び肌が粟立つような怖気を感じたが、極力それに意識を向けない様にした。
末端の分家である東雲の家は、元々親戚付き合いが少ない。親戚と顔を合わせるのは正月と盆の時、誰かに不幸があった時位である。それでも東雲は自身にも流れる血の一族が少し風変わりなことには小さな頃から気付いていた。オカルトなことを全面的に肯定するわけではないが、否定することもできないのはその血のせいだろう。親族は、いわゆるオカルトな一族なのだ。何が、という訳ではない。妙な儀式をする訳でもないし、いかにもな霊能者がいたりする訳でもない。少々派手な容姿の者は多いかもしれないが、一見普通の人たちでしかない。けれど、東雲はその人たちに何かまともではない秘密がある様な気がしてならなかった。はっきりと言葉に言い表すことはできないが、殆どが不思議な雰囲気を纏った人ばかりなのだ。そして、それは東雲自身も例外ではなかった。生粋の日本人であるにも関わらず、地毛が金色だということは突然変異として彼の中で片付けられていたが、それよりも特殊な特徴を彼は持っていた。幼い頃から、異様な程に勘がいいのだ。何かを根拠にして考えが浮かぶわけではなく、唐突に生じた考えが外れたことはない。それに、幼い頃から見たくないものまで見えるのは、彼の父も知ることだった。そもそもそれは父からの遺伝なのだろう。わざわざ口にはしないが、東雲は父も自分と同じものを見ている事には気付いていた。
この屋敷もそうだ。異様な空気を纏っていることには、父も気付いているのだろう。それでも晴れやかな顔で平然としているところは流石というべきなのだろうか。この密度の濃い空気には、慣れるのに時間を要しそうだ。けれど東雲はこの場所と深く関わっていく気など更々なかったので、少しの辛抱だと自分を励ました。この少しの辛抱で、向こう一ヶ月の生活費は約束されるのだ。
それでも、東雲は先ほどから嬉しそうに鳴り響く鈴の音に不快感を感じずにはいられなかった。そこかしこから聞こえてくるその音色と、微かな少女の笑い声の様なものは、紛れもなくまともなものではないだろう。
「うるさいな」
顔を顰めながら東雲が呟くと、彼の前で硝子戸を開けようとしていた父はその手を止めて振り返った。その父親にしては珍しく真剣な顔で東雲の様子を見たあと、嬉しそうに微笑んだ。父の姿など、できるだけ視界から外していた東雲はその様子に気付くことはなかった。ただただ、聞こえてくる鈴の音色と少女の笑い声が五月蠅い様で、顰め面でいた。
からりと音を立てて戸が開かれる。独特の香りがした。父の背中越しに、東雲は店内を見る。薬棚に、硝子のショーケース、気泡の入った硝子ランプから降り注ぐ灯りは店内を橙色に染め上げていた。
「いらっしゃいませ……あら、こんにちは」
柔らかな声で来店の挨拶をしたのは、着物を着た上品な老女だった。彼女が、この店の店主だろうかと東雲は思ったが、すぐに違うだろうと気付いた。関西訛りの彼女は、元々この土地の人間ではないのだろう。
「こんにちは、お久しぶりです。染野さん」
父は爽やかな笑顔を浮かべて挨拶すると、お辞儀した。相変わらずの外面の良さを東雲はもう気に掛けることもなかった。老人には好青年の様な態度でいるのは、彼の父にとっては当たり前のことなのだ。
「いややわ、今更そんな畏まらんでもいいよ。さあ、上がって頂戴。店主は奥におるから」
「では、遠慮なくお邪魔します」
その様子からして、父はやはり何度かこの屋敷に足を運んだことがあるのだろう。東雲は黙って父に続いた。この様な異様な店の主なのだから同じく異様な雰囲気を持つ人物に違いない、と彼は考えた。一体どんな老人がこの店を管理しているのだろうか。
式台に腰掛けてスニーカーを脱いでいると、視線を感じて東雲は顔を上げた。廊下の奥の曲がり角から、何か白いものが覗いている。それが何か分かった途端、ぎょっとその目は驚きに見開かれた。狐の面だ。狐面を着けた小さな少年が、壁に隠れながら東雲の方をじっと見つめていた。それが人の子だとすぐに気付いた東雲は肩の力を抜いたが、改めて不気味な屋敷だと思った。少年は東雲と同じ金色の髪をしていた。もしかすると染めているのかもしれないが、まだ小学生くらいの少年だ。この古めかしい屋敷の住人が彼の様な子供が髪を染めることを肯とするだろうか。
偶然だ、突然変異だと思い込み、片付けてきた自分の髪色が、因縁めいたものの様に思えて東雲はまた顔を顰めた。おそらく、あの狐面の少年も東雲とは血の繋がりがある者なのだろう。これで、店主までもが同じ髪色だったのならば決定的だったのだが、幸い店主は彼らの様な明るい髪色をしていなかった。けれど、真っ黒な髪をしていたわけでもない。
父と共に居間に通された東雲は、大きな座卓の前で本を読む男を見て暫く声を出すことができなかった。
「やあ、こんにちは。晃君だね。君がまだ小さかった時に、何度か顔を合わせてるんだけど、覚えてるかな」
覚えている筈がない。少なくとも、彼がその白い面を着けていなかったら思い出すこともできたのかもしれない。東雲は先ほど目にした少年と同じく狐面を被った男を凝視した。藍色の着物を着流しているその男は、この店主に違いない。
――変人。
その感想を東雲はなんとか口に出さずに飲み込んだ。もしかするとふざけているだけなのかもしれないが、男はその面を外す気配もない。先ほどの少年だけならまだしも、此処の住人は狐の面を着用することを義務にでもしているのだろうかと東雲は思ったが、訊こうとはしなかった。それで頷かれでもしたら、眩暈がしそうだ。だから、東雲はあえてその狐面には触れないことにした。
親子が座卓を挟んで店主の前に腰掛けると、間もなくお茶とお茶菓子を手にした染野がやってきた。
美味しそうなお茶の匂いがする。流石に面を外すだろうと期待を篭めて東雲は店主を観察していたが、一向に外す気配はない。
全く、一体どうして急にこんなところに連れて来られたのだろうかと、東雲は再び隣りの父の横顔を一瞥したが、その視線に気付いているのかいないのか、父は東雲の方を見ることもなく上品な仕草でお茶を飲んでいた。
「いややわ、忍さん。もしかして、晃君になんの説明もしてないの」
東雲の様子に気付いたのだろう、染野が口に手を当てて小首を傾げた。その少女の様な仕草は、老齢の彼女に異様なほどよく似合っている。彼女の少女時代はさぞ美少女だったのであろうことが、その容姿からも想像できた。
「主人の口から直接、と思いまして。愚息は私の言うことなんか全然聞いてくれないんですよ」
言うことを聞くも何も、数ヶ月言葉を交わさないことだってある。もちろんそこで何かを言われたとして、父の言う通り東雲はふざけた父の言うことなど聞く耳も持たなかっただろう。
東雲はじろりと父を見た。ふざけるな、と叫びたかったがここで叫んでしまっては、父の思惑に嵌ってしまう様な気がしてぐっと我慢した。怒るのは、内容を聞いてからでもいい。
「そうか。君には、ちょっとお願いしたいことがあってね」
じっと黙って狐面の男を見ていると、ふと男は何かに気づいた様に東雲の後ろを見やり、面の下で目を細めた。
りんっと鈴音や気配が後ろからしてきていることに東雲自身気づいていたが、気づかないふりをして振り向かなかった。
男は再び東雲に目を向ける。色素の薄いその瞳は、ふざけた格好には不釣合いなほど穏やかだ。その視線に親しみが篭められていることに気づいた東雲は、眉を顰めた。
「狐を一緒に捜して欲しいんだ」
ぽんっと出された言葉に、東雲は唖然とした。一体どんな大層なお願いをされるのか少し冷や冷やしていたのだが、一体なんなのだろうか。
「あ、狐って言っても、置物とか、物じゃないよ。本物の狐だから。まあ、本物って言っても本物じゃないんだけど」
「……ペットでも逃げたとか」
「うん、違う」
東雲は立ち上がった。謎掛けを楽しむような男に、虫唾が走る。間違いなく、男は父と同じ部類の人間だと今更ながらに気付く。付き合ってなどいられない。
「簡単なアルバイトだとでも思ってくれればいい。給料は、向こう一ヶ月の君の生活費だよ」
その言葉で、東雲は嫌々ながらもこの場に繋ぎ止められた。