02
「あらあら、可愛らしいお客さん」
三日ぶりにやってきた夜渡蓮で天愛を迎えたのは、若い男の声ではなく、品の良い老婦の声だった。
上品に着物を着こなしたその老婦は、天愛を少し驚いた様子で見た。けれどすぐにその目は穏やかな微笑みの形をつくる。優しそうな老婦の様子に、天愛も少し肩の力を抜いてしまう。
この人が京都でお店をしてたとかいう、おばあさんだろうか。
「あの、今日アルバイトの面接お願いしてた椿ですけど……」
天愛がそう言うと、老婦はどこか嬉しそうに、だけどやはり上品に微笑んだ。
「あぁ、そうやったんね。ちょっと待っててね。店主を呼んできますから」
そう言うと奥の方へと少し急いだ様子で入って行った。天愛は再び沸き起こってきた緊張感に下唇を噛み、その様子をじっと見届けた。どうやら、今日はあのアルバイトの男は来ていないようだ。
「八十さん、八十さん。この前晃くんが言ってた女の子が来はりましたよ!」
「――あぁ、」
店と奥の部屋の間にかけられた暖簾で顔は見えないが、その向こう側の部屋に置かれた肘掛に、紺色の着物を着流した男が肘を掛けて、何か本を読んでいるようだった。その姿は天愛が思い描いていた、どっしりとしたおじさんとはかけ離れていて、ひょろりと手足が長く、今微かに聞こえた声も若い男の声だ。『偏屈で変わり者』といえば強面のおじいさんかおじさん、と思い込んでいた天愛はぼんやりと、歩いてくる男の胴体を眺めた。何かあるでもないのに、若いであろう男が着物を着ているのはとても珍しい。けれど、少し草臥れた紺青の和服に黄土色の角帯を巻き付けた姿は、この店の風景によく馴染んでいる。
天愛はまるで自分が時代を間違えて来てしまったような、場違いのような懐かしいような妙な気分に囚われた。
けれど、男が暖簾を片手で上げた次の瞬間、驚いて喉の奥でひっと息を呑む。
男は少しの間、恐怖で動けなくなっている天愛の様子をじっと見ていたが、思い出したかのように呟いた。
「あぁ、君が東雲が言ってた女の子ね。成る程」
何が成る程なのか分らなかったが、それが何のことなのか考えている余裕は、今の天愛にはなかった。
金縛りにあったように、動けなくなる。
男の声はやはり若く、着物から出ている手足も若い。おそらく、二十代前半位の年頃だろう。もしかすると、天愛と同じ位なのかもしれない。
けれど、天愛はそんなことよりも目の前に佇む男の顔にあるそれに、釘付けになっていた。
にっと吊り上げた赤々しい唇で、どこか人を馬鹿にしたような表情のそれは、狐のお面だった。不気味に笑った狐の顔は、天愛をじっと見ている。
「八十さん、娘さん驚いてますよ。そやから今日だけでも、狐のお面じゃなくて蛙のお面にしときなさいって言ったやない」
老婦のどこか的外れな言動にようやく少しだけ恐怖が薄れ、肩の力を抜くことができた天愛は、ゆっくりと冷めてきた頭の隅っこで、友人の言葉を思いだす。
『変わり者』
祭りの日でもないのに狐面を被った男は、天愛にとっては変わり者どころではなく不気味としか言い様がないのだが、確かに変わっている。変だ。先程の老婦の口ぶりからして、この男は今だけふざけて付けている訳ではなく、恐らくほぼ毎日のように狐面を付けているのだろう。夏でもないのにだらりと着流した着物も、余計に狐面の男の不気味さを強調していた。それでもその姿は妙に出来上がっていて、それでいて違和感がありすぎる。もしかすると、老婦と共にふざけている可能性もあったけれど、天愛にはこの上品な老婦が、とてもそんな悪ふざけをするような人には見えなかった。
冗談じゃない、と天愛は必死で逃げる言い訳を考えた。
小さい頃から狐面が苦手で仕方なかったのだ。きっと誰にでも、暗闇だったり木目だったり、不気味に感じて仕方がないというものがあるだろう。天愛にとっては狐面がそれだった。真っ白な面に塗られた真っ赤な紅も、にやりと三日月のように笑う三白眼も、気味が悪くて仕方がない。そしてそれを付けている人はなお更不気味だった。
「――あ」
「ただいまー」
口を開いた途端、がらりと勢いよく開かれた後ろの戸の音と、軽やかな声で天愛は口を開いたまま振り返った。天愛をアルバイトに誘った張本人であるアルバイトの男は、声と同じように軽やかな雰囲気で戸の前に立っていた。口を開けたままの間抜けな顔をした天愛を見やると、嬉しそうな顔をしたけれど、その先に居た店主の姿を見つけて、天愛と店主を見比べると笑みを残したまま、何か失敗でもしてしまったような微妙な表情をした。
「東雲、戸は静かに開けなさいと何度も言っただろう?」
と、天愛の後ろから聞こえた男の声はため息交じりだ。
アルバイトの男は少し慌てた様子になり、必死で話しを逸らした。
「すみません! この前の子きたんだ。驚いただろ、八十彦さんがこんな狐のお面付けてるから」
「……あ……はい」
天愛はうっかり正直に答えてしまう。
しまった、と思って少し俯いたが店主は別段気にした様子もなく、腕を組んだ気だる気な佇まいで言葉を紡いだ。
「で、東雲。筑波さんの方は?」
「あぁ、相変わらずだよ。届けた物も気に入ってくれたみたいで喜んでた。で、そのあと気分良くなった筑波さんは俺相手に永遠と長話し……」
「その割には早かったね」
「がんばって切り抜けてきたから」
そう話す二人の様子を天愛は呆然と眺めていた。この軽軽しい雰囲気の男と話しているからなのか、先程の異様さを狐面の男からはそれ程感じない。先程感じた妙な感覚も天愛はもう忘れ去っていた。アルバイトの男はどう見ても普通の人で、軽い雰囲気は天愛の気分も少し軽くしてくれた。
ただ、店主がその顔に蓋をするかの様にある狐面は、どう見てもやはり不気味で、目の端に映るだけでも浮かび上がっているように目立って見えてしまう。
「お二人共、娘さんを待たせるのは可哀相やよ。とりあえずみんな居間に上がりましょう。お客さんもおれへんことやし。そうそう、今日ちょうど新しい茶葉が届いたんよ」
そういうと老婦は暖簾をあげて天愛を手招きした。
「え? あの……」
「あがりなさい」
狐面の男の出現で早々に立ち去りたかった天愛だったが、有無を言わさないその男の言葉で何も言えなくなる。
「大丈夫だよ。とって食われる訳じゃないから」
そう苦笑しながら囁かれたアルバイトの男の言葉が、天愛の恐怖を一層深いものにさせた。
通された居間には古びた本棚があり、その中には古書が乱雑に並べられていた。本棚にも入りきらなかったのか、その前には小さな本の山が四つ程できている。
お茶を運んできてくれた老婦が、本棚の方を見ている天愛の視線に気付いたのか、少々ばつが悪そうに「本棚をもう一つ入れなさいと何度も言ってるんやけどねぇ」と言った。
天井から吊るされた小さな四つの電球が纏う乳白色の傘には、黒い花の模様が描かれている。直ぐ隣にある縁側からは、裏にある薄暗い竹林が見えた。
天愛はちらりと、どっしりと重いテーブルの向こう側、天愛の正面に座る男の方に目を向けた。
狐面は、外していない。
それは天愛にとっては、どうしても心臓に悪いものだった。
男は狐面を付けているせいで表情は分かりにくい。けれど、狐面の瞳に開けられたまん丸な穴から覗く真っ黒な瞳が天愛をじっと観察するように見ていたので、天愛は居心地が悪くなって視線を自分の膝元に落とした。
「いつから来る?」
意外にも優しい声色に天愛は顔を上げた。
「え?」
「アルバイトだよ」
「あ、あの……」
隣に座る男の助言で質問の意味は解かったが、唐突にそんなことを聞かれても困る。
面接、と確か隣に座る男は言っていた。面接をしなくてもいいのだろうか。
「ちなみに、君の隣に座ってる東雲と云う男は殆ど毎日来てるよ」
「いや、来てるっていうか来させられ……」
「東雲」
「……はい」
東雲と呼ばれた男は狐面の男には逆らえないのか、否定しかけた言葉を飲み込んだ。
その様子を天愛は不思議な気持ちで眺めた。アルバイトの男は敬語を使ってはいるが、二人は仲のいい兄弟のような関係にも見える。雇用関係どうこう以前に、打ち解けた間柄のようだった。親同士が友達で、二人も昔からの顔見知りなのかもしれない。けれど、狐面で和服姿の男と茶髪の少しチャラチャラした男が話しをしている様子は、なんだか滑稽だ。
「ああ、そういえば名前名乗ってなかったね。俺はここの店主で、彩織八十彦と云います。履歴書、持ってきてくれたかな?」
「あ、はいっ」
狐面をつけた風変わりな様子とは違って、少し落ち着いて聞いてみると八十彦の声や言い方は穏やかで優しいものだった。けれど、その狐面と履歴書という言葉は似合わなさすぎる。
天愛はそう思いつつも足元に置いた学校指定の鞄から、慌てて履歴書の入った封を取り出し八十彦に差し出した。
それを受け取った八十彦は「ありがとう」と言うと、近くに置かれていた漆塗りの木の箱から、古びた銀製のペーパーナイフを取り出して封を開けた。
隣に座っていた男が、履歴書の中を見ようと身を乗り出したので、近くに腰を下ろした老婦が叱るように顔を少し顰めた。
「つばき、てんあい……?」
身を乗り出した男が呟いた言葉に天愛は苦笑した。昔から、まともに名前を読まれたことは余りなかった。
「椿 天愛って読みます」
「あぁ、ごめん。仮名振りしてあるのに」
男はそう謝ると、身を乗り出すのを止めて天愛の隣に落ち着いた。
「最近の子って、変わった名前の子多いよね。こんなん言ったらオヤジ臭いけど。そいや、俺も名前言ってなかったや。天愛ちゃんのアルバイト、多分決まったようなものだし名前知っといてもらわないと」
天愛は会って間もない男に下の名前で呼ばれて一瞬顔を顰めたが、男は気にした様子もなく続けた。
「俺は東雲晃っていいます。よろしくね」
邪気を感じさせない東雲の笑顔に、急に下の名前で呼ばれたことも別に良いように思えた。おそらくとても人懐こい人なのだろう。
「希望がないのなら、早速明日から来てもらってもいいかな?」
履歴書をゆっくりと読んでいた八十彦にそう言われて、天愛は少し戸惑った。
どうやら、自分がここにアルバイトに来るのは東雲の言うように、本当に決まってしまっているらしい。
天愛は八十彦の狐面を見て、再び先日の自分と、おまけに早々に立ち去らなかった先程の自分もを呪いたくなった。こんな状況では断りにくいし、断れた試しがない。ようは、気が弱いのだ。
「……はい、宜しくお願いします」
諦めたように天愛が言うと、隣りで東雲が全てお見通しという風に天愛に囁いた。
「大丈夫だよ。八十彦さんは滅多に店の方には顔を出さないから」
その言葉を聞きながら、できれば明日には狐面をはずしてくれていますように、と切に願った。あの狐面と時々でも顔を合わせてしまうという可能性の中では、きっと心中穏やかではいられないだろう。天愛は自分から辞める、という根性さえきっと持ち合わせていないことを自分でも分かっていた。何か失敗をやらかしてそれを理由に、という手もあったけれど、そんなこともとてもできない。
そんなことを頭の中でぐるぐると考えながら、これからの日々の不安にまた気を重くした。