18
「なんか元気ないね」
頭の上から降ってきた声に天愛が顔を上げると、綾香が訝しげな顔で見下ろしてきていた。
ホームルームが終わったあと、随分とぼんやりしてしまっていた様だ。教室の中に残っている生徒は疎らで、廊下から騒ぐ声が響いてきている。
「そうかな? 雨だから、少しだるいのかも」
今日は朝から雨が降り続けている。外から差し込む明かりは僅かで、教室の中は白い蛍光灯の灯りで満たされていた。窓から見える雨空を見るだけで学校から出るのが億劫になる。
今日は珍しく夜渡蓮でのアルバイトは休みだ。昨日東雲の話しを聞いて以来、気分が優れない。当たり前だ。何も感じない方がおかしいのだから。
雨雲が今の自分の感情を表している様な気がして、天愛は溜息をひとつ漏らした。
「雨止まないね。明日は晴れるといいんだけど……じゃあ、私部活に行ってくるよ。天愛はもう帰るの?」
「うん、雨足が弱まったら出るよ。久しぶりにおばあちゃんの家に寄ろうかと思ってるんだけど」
「そっか、気をつけてね」
綾香の後ろ姿を見送ってから、天愛は机に突っ伏した。先ほど綾香に言ったとおり、本当に身体がだるい。これは雨のせいだけではなく、自分自身の感情のせいだろう。いつまでもこんな風にはしていられない。そもそも、思い出した時だけこんなに落ち込むなど調子がいい。それも思い出さない様にとしていたせいかもしれない。思い浮かびそうになる度にその記憶を振り払ってきたのだ。
狐面は不吉。記憶を引き戻される。あれは祭りで会った少年の面だ。赤い紅は血を吸って笑みの形を描く。
「……最低」
小さな声で呟くと、それは教室の隅から響いてきた笑い声に掻き消えた。
天愛が顔を上げる頃には教室にも廊下にも、もう殆ど人は残っていなかった。ぼんやりとしていたから、そんなことにも気づけなかったのか。祖母の家に行くのなら、暗くなる前に出た方がいい。
重い体を椅子から離すと、さっと横を何かが通り過ぎた気がした。周囲を見渡しても人はいない。教室の中に残っているのは天愛の他に、本を読んでいる女子生徒一人と教室の隅で会話をしている男子生徒三人くらいだった。
気のせいだろうと思い鞄を取ると、聞き慣れた鈴の音が響いた。
教室の中に、いる。
それは女主人ではなく、きっと狐だ。天愛は再び周囲を見渡したが、急に立ち上がり不審な行動をとる天愛にクラスメートたちが訝しげな目を向けるだけで、狐の姿などどこにも見当たらなかった。
最近夜渡蓮に毒されすぎているのかもしれない。夜渡蓮の店主たちが捜し求める狐が、まさかこんなところにいる訳がない。そう思えば、夜渡蓮の中にいたこと自体がとても不可解なことなのだが。あんなに近くにいながら、彼らは何故お互いを見つけることができなかったのだろうか。
「椿さん、もう教室締めるけど大丈夫?」
クラスメイトの少女が突っ立ったままの天愛に遠慮がちに訊いてきた。先ほどまで教室の隅にいた男子生徒たちの姿はもうすでにいない。その時になって天愛はようやく自分の不審さに気づき慌てた。
「うん、大丈夫。ごめんね」
机の上に置いていたコートを羽織り鞄とマフラーを持つと、入り口近くに立つクラスメイトの元まで急いだ。胸がざわざわと騒いでいる。四壱が言っていたとおり、もしかすると自分は本当に狐を誘き寄せているのだろうか。狐は、天愛を見つけたのだろうか。
雨足は日が落ちるにつれ、ますます強いものとなっていった。天愛は廊下で教室の鍵をかけたクラスメイトの少女に手を振ると再び周囲を見渡す。僅かに残っていた同級生達の姿ももう廊下には残っていない。ぽつぽつと蛍光灯の光りが漏れる教室があるから、まだ教室に残って時間を潰している生徒はいるのかもしれないが、しんと静まり返った廊下で誰もいない様な錯覚に捕らわれて天愛は身震いした。
「きつねさん」
小さな、本当に小さな声で呟いたあと、馬鹿馬鹿しくなり、同時に息苦しくもなった。そもそも女主人が狐の少年のことをなんと呼んでいたのかも知らないのだ。幼い頃の自分が、千尋のことをそうふざけて呼んだだけ。狐の少年にも、名前はあっただろう。
自分を許せないからこそ閉じ込めてきた記憶。天愛の両親や弟や従兄弟たちは、たった一晩のうちに起こってしまった悲劇から彼女を遠ざけようとしてきた。何が起こったのか訊いてくる大人たちの群れに、救急車の音、従兄弟たちがやってくるよりも先に集まりだした近所の人々。てらてらと地面を濡らす赤い血に、遠くで響く祭り雛子。鉄の檻の中、動かなくなってしまった少年とその傍らにある狐面から目が離せなかった。公園にはたくさんの人が集まってきていたのに、その時間違いなく天愛は一人ぼっちだった。大きな手に頭を撫でられるまでは。その時頭を撫でてくれた大人の顔も覚えていない。祭りの参加者だったのだろう。浴衣を着た男の人だったということだけは覚えている。
天愛は気持ちを切り替える様に頭を振った。このまま記憶に浸っていたら、本当に夜になってしまう。手に持っていたマフラーを首に巻き、急ぎ足で階段を下りた。
狐のことは気のせいかもしれない。たとえそうでなかったとしても、天愛の方から狐を見つけ出すこともできない。ただ狐がその姿を現すのを待つしかないだろう。
祖母の家に着く頃には、外はもう暗かった。傘を叩く雨音を聞きながら天愛は緩やかな白熱灯の灯りを見る。ここら辺は祖母の家を含め、古い家が多い。家を囲む塀も、玄関を照らす古びた照明も屋根瓦も天愛が小さな頃から変わらない。
戸に手を掛け、鍵が閉まっていることに気づいた天愛は鞄の中を探った。祖母には高校に上がった時に、いつでも家に寄れるようにと合鍵を貰ったのだ。
戸を開けると美味しそうな香りがした。
「お邪魔します」
言うと、戸を開けた時から気づいていたのか、廊下の奥からすぐに祖母がやってきた。着物に割烹着を着た祖母は、天愛の姿を見るなり嬉しそうに微笑んだ。
「いらっしゃい、遅かったわね。ご飯できてるわよ。食べるでしょう? あら……」
何かに気づいたような祖母の声に、天愛は小首を傾げた。その目は天愛にではなく、天愛のすぐ横に向いているがそこには靴箱があるくらいだ。特に変わったこともない様に見える。
「どうしたの? おばあちゃん」
天愛が訊くと、祖母はまた微笑みを浮かべて首を横に振った。なんでもないわ、という返事に天愛はまた首を傾げたくなったが、美味しそうな香りに誘われるように祖母のもとへ行った。
食卓には二人分の夕食が並べられていた。大鉢一つに小鉢がいくつも置かれている。祖母がご飯を盛っている間に天愛はお茶を淹れた。家でもそうだが、祖母は天愛がお茶を淹れると喜んでくれる。それに比べて行く度にお茶を淹れろと言ってくるあの狐の店主は、湯呑みに口をつけることさえしないのだ。せめて飲んでくれればやりがいもあるというのに。
「あら、思い出し笑い?」
そう言われて天愛は自分が始めて笑みを漏らしていることに気づいた。その前には苦という文字が付くのだが、それをわざわざ訴える必要もない。
そういえば、祖母には夜渡蓮でアルバイトをしていることを言っていない。もしかすると母が何か言っているかもしれないが、祖母は夜渡蓮で天愛がアルバイトをしていることをどう思うのだろうか。綾香がこの近辺では有名な店だと言っていたが、祖母はあの店を知っているのだろうか。
席に着くと天愛は祖母の姿を見た。柔らかな物腰だが、それでいて厳しい人だ。そのお陰で子供の頃に叩き込まれた食事の作法やお茶の淹れ方には自身を持てている。
「何かあった?」
静かな声で訊かれて、天愛は茶碗に向けていた目線を上げた。
祖母はあの祭りの日のことをどう考えているのか分からない。けれどあの日何度も天愛に何度も謝ったのだ。天愛よりも年上ではあるがまだ子供の従兄弟たちに彼女のことを任せて、子供だけで遊ばせていたために起こった事故だと祖母はそう思っているに違いない。強い責任を感じた祖母はその日、天愛が見たことのない様な悲しそうな顔をしていた。祭りのことを思い出し、気持ちが落ち込んでいたのだとは言えない。
「おばあちゃん、夜渡蓮っていう骨董品屋しってる?」
話しを逸らす様に天愛がそう訊くと、祖母は天愛の口からその名前が出たことに驚いたように目をまるくした。やはり知っている様だ。
「どうしたの、急に。知っているもなにも、昔からご近所付き合いもあるわよ」
今度は天愛が驚く番だった。知っているとは思ったが、まさか係わり合いがあるとは想像もしなかった。近所とは言っても隣り近所なわけではない。あくまで同じ町内というくらいなのだ。
「ご近所付き合いって?」
「死んだおじいちゃんが先々代の店主と同級生だったのよ。おじいちゃんが亡くなってからはそんなに係わることもなくなったけれど、天愛が生まれる前は、よくおじいちゃんが足を運んでいたの。今はお孫さんが継いでいるらしいけれど。八十彦君だったかしら。私が最後に見た時はまだ小さかったけれど、立派になっていたわ」
祖母の口からその名前が出たことに驚き、天愛は唖然とした。ご近所付き合いどころの話しではない。思わず手に持っていた箸を落としそうになったが、そこは祖母の手前だ。箸を握りなおした。
「おばあちゃん、私、そこでアルバイトしてるんだけど……」
まあ、と祖母は天愛の予想を裏切って大して驚いた様子もなく小首を傾げた。
「何を今さら」
「え」
「あなたが通い始めた頃に、もう聞いていたわよ」
「お母さんに?」
そう問いかけながら違和感を感じる。母に聞いていたのなら、「お母さんに聞いた」と言う気がする。嫌な予感がして、箸を握る手に力が篭った。
「店主によ」
危うく倒しかけた湯呑みを持った手のひらが熱い。その熱さとは別に、天愛は頭から血の気が引くのを感じていた。
「どうして言ってくれなかったんですか」
夜渡蓮に着くやいなや、天愛は開口一番にそう言った。
一晩あけた後怒りはもう随分と沈んでいたが、店の前から硝子戸越しに八十彦の姿を見た途端、萎んでいたはずの怒りも膨れ上がったのだ。
責める声も、叫ぶのを必死に抑えている様な苦しげな声だった。
あいも変わらず人を馬鹿にした様な狐面を睨みつける権利くらいはこちらにあるだろうと、天愛は怒りのままに八十彦の面を睨んだ。黙っていた祖母も相当人が悪い。天愛のアルバイトが決まった時、祖母の家に八十彦から電話がかかってきたらしい。内容は言うまでもなく天愛のことだ。
「言う必要があったかな」
「必要があるないに関係なく、私の気持ちも少しは考えてください。気分が悪いです」
後ろから「こんなに怒ってる天愛ちゃん、最初以来だねえ」と感心したような声が聞こえたが、天愛はそれをあえて無視した。その口ぶりからすると、東雲も天愛の祖父と先々代が友人であったことや八十彦が祖母に連絡をとっていたことも知っているのかもしれない。
「君が気分を害したなら謝るけど、そんなに怒ることでもないだろう?」
確かにそう言われればそうなのだが、一度吹き出た怒りをそう簡単に静めることはできない。そもそも言葉とは裏腹に八十彦には謝る気がないのだろう。呆れているという気持ちが狐面をつけていても滲み出ている。
これ以上口を開くと自分でも訳が分からないことを言ってしまいそうな気がして、天愛は必死で怒りを自分の中に押し込めた。
「東雲さん」
「うん?」
心なしか東雲の頬が引き攣った様な気がして、天愛は小さく息を吐く。怒っている人間を好きだという人もいないだろうが、天愛の怒りは間違いなく東雲の苦手なものに入っているだろう。
「私、お茶葉を買いに行ってきます」
先日染野がそろそろ買いに行かないといけないと言っていたのだ。昔は配達で持ってきてもらっていたらしいが、今は御茶屋の店主も歳で配達もなくなってしまったらしい。以前は東雲が行っていたらしいが最近は天愛が買いに行っていた。
やってきたばかりだが、外に出て気分を鎮めたい。訊きたいこともたくさんあったが、落ち着いてからでないといけない。
東雲も天愛の気持ちを察したのか、うんうんと二三度頷いた。もともと客の少ない店なのだ。天愛がいなくても問題はない。
「うん、行っておいで」
「天愛ちゃん、ついでにお茶菓子も買ってきてもらっていい? 山水さんとこの」
いつからいたのか、ひょっこりと暖簾の向こうから顔を出した染野がいつもと変わらないのんびりとした調子で言った。
「はい、わかりました」
先ほどよりも幾分か落ち着いた声が出た。目の前に座る八十彦のことはこうなれば完全無視だ。目に映ると気持ちが逆撫でされるような気がするので、見ない様にして店を出た。
「思いの外、気が強い子だったねえ」
天愛が店を出たあと、八十彦が珍しく感心した様な声で言った。
「怒らせたのは八十彦さんでしょ。いい加減にしないともてないよ」
「これでも学生の時はもてていたんだよ」
頬杖を付いてはいはい、と東雲は呆れた様に言う。天愛が哀れでならないが、自分も似たようなものだ。どれだけこの狐の店主に振り回されてきたことか。思い出しただけで東雲は大きな溜息を吐きそうになった。先代もそうだが、先々代も悪ふざけが好きな人だったと聞く。東雲もどちらかというと悪ふざけが好きな方だが、狐の店主達には叶わないだろう。
「あのさ、八十彦さん」
「うん?」
「もしかして、天愛ちゃんのおばあちゃんってさ、春乃さん?」
「あら、晃君知ってるの?」
染野が意外そうに目を見開いた。八十彦はそれには返事を返さずにただ目を細めただけだったが、それが彼の答えだろう。
「……あーあ。女主人もいい性格してるよ」
「偶然だよ」
「そんな偶然ってある?」
「夜渡蓮ではありえる偶然だね」
夜渡蓮で起こる偶然は必然ではないだろかと東雲は思ったが、今さらつっこむ気も起こらなかった。
天愛の祖母である小春の母もまた、夜渡蓮の店員だったのだ。ご近所なのだから全くありえない話しでもないのだが、それでもすごい確率だ。天愛が今聞けばもう言葉も出ないかもしれない。綾織家と血の繋がりもないのに、偶然だけでもう十分繋がっている天愛はある意味すごい少女なのかもしれない。
「……公園で千尋といたのも、天愛ちゃんでしょ?」
狐の店主は男にしては少し細長い指で、染野が用意した湯呑みに触れた。天愛が来る少し前に淹れられたお茶は、もう冷めている。
返事はない。東雲はその狐面が店主の顔から離されるのを眺めながら、再び小さな溜息を吐いた。
狐の店主は目を細めて笑う。それは東雲にも少し似た男の顔だった。