17
夕日が沈みかけた頃、天愛は夜渡蓮の戸を開けた。
戸をくぐる瞬間、馴染みの強い耳鳴りに襲われ振り返った硝子戸の向こうには、もう四壱と小春の姿はなかった。門前にはアスファルトの道路にその向かい側には緑生い茂る空き地がある。戸の内側から見ていた景色と変わらない。外の現実的な空気に触れた瞬間、先ほどのことは夢のように思えた。
狐と女主人の話しを頭の中で反芻する。今まで天愛の前に何度も姿を見せてきた赤い着物の小さな少女が自分とそっくりなのは分かった。そっくりと言っても、天愛自身は彼女の顔を何故か見ることができないから本当なのかどうなのかは分からない。そもそも全てが嘘の様な話しなのだ。何もかもが半信半疑。自らの目で確かめてみないことにはこんな不可思議なことを信じきることはできない。目で見たとしても今度はそれを見た自分のことを疑ってしまいそうにはなるかもしれない。
アスファルトの道路をランドセルを背負った子供たちが走り抜けた。静かな住宅街に子供たちのはしゃぐ声はよく響く。家々の窓からはぽつぽつと灯りが漏れ始めていた。もうすぐ街灯にも灯りが灯されるだろう。
「きつね」
ぽつりと呟く。
その言葉は昔からあまり好きではなかった。縁起が悪い名前だ。
天愛は一度閉めた戸にもう一度手をかけた。一呼吸吐いてから、ゆっくりと横に引く。そこには、以前と変わらない天愛がよく見知った夜渡蓮の風景が広がっていた。
「ああ、おかえり」
いつもと変わらぬ穏やかな声で言われた言葉は、先ほどまで天愛が直面していた不可思議な出来事など知らない様な口ぶりだった。けれど彼女が急にいなくなったことを彼は知っているはずなのだ。天愛は疑う様な眼差しで狐面の店主の面を見た。
「俺のお面に何かついてる?」
「いいえ……あの、私いつからいなかったですか?」
可笑しな質問に天愛は言った後で自分自身眉を顰めた。
「いつから? さあ、気づいたらいなかったからね。お客さんが来ていたし、君がいなくなっていることに気づいたのはついさっきだよ。買い物にでも行ってたのかい?」
その言葉は天愛からしたら惚けの様にも聞こえた。けれど本当に知らなかった場合、彼の知りえぬ所でこの店の秘密を知ってしまった後ろめたさがある。だったら洗いざらい話してしまおうか。この不可思議な出来事を自ら八十彦に話すのは躊躇われるが、隠しておく必要もない。
「あれ、どうしたの? 二人揃ってこんなところで」
あっけらかんとした声に天愛は拍子抜けした。今日は休みのはずの東雲が門前でバイクを押している。
「君こそどうしたんだ。今日は休みをとってたじゃないか」
「ああ、うん。用事が意外と早く終わったからちょっと顔出そうかと思って。天愛ちゃん、大丈夫だった?」
「え? はい……」
「とりあえず二人とも中に入りなさい」
八十彦に促され、東雲はバイクを停めに、天愛は戸の中へ入った。
東雲の存在は天愛を安心させた。どう見ても今の時代に生きている彼の姿は、この不思議な空間の中ででも天愛に現実感を与えてくれる。
狐面を見ることには慣れてきたが、怖いと思う気持ちはまだ残っている。それに八十彦とはやはり合わない。二人で先ほどのことを話さずにすんだことに天愛は知らず安堵の息を漏らした。
「おはようございまーす」
いつもの癖か、東雲が陽気な声で挨拶しながら入ってきた。首に巻いていたマフラーをとり、ダウンジャケットを脱ぎながら土間を行く。ジャケットを壁にかけた東雲は、ぼんやりと土間に立ったままの天愛を見て訝しげな顔をした。
「どうしたの? 天愛ちゃん。てか、そういえばどうして戸口で立ってたの? もしかしてどっか行ってた?」
「あの、そのことで言いたいことが……」
「いいよ。座りなさい」
いつの間に用意したのか、茶器の乗った盆を持った八十彦が暖簾の向こうから姿を現した。
「お客さんは……」
「もう帰られたよ」
「うっわ。八十彦さんがお茶の用意するなんて、雨が降るかも。やべ、俺今日傘持ってきてない」
「いいから座りなさい」
静かな声に少しの苛立ちが混ざっていることに二人は気付き、慌てて座った。天愛は土間上に、東雲は近くにあった椅子に。天愛は八十彦の隣りに座ってしまったことを後悔したが、場所を移動するわけにもいかない。極力正面にいる東雲を見ることにした。
「で、言いたいことってなんだい?」
改めて訊かれると天愛は話すことを躊躇った。一体どこから話せばいいのだろうか。炊事場で狐を見つけたところから? けれど四壱が言っていた話しが本当であれば、過分な期待を抱かせてしまうかもしれない。まだ狐と女主人が出会えると決まったわけではないのだ。
「信じてもらえないかもしれないですけど、わたし、夜渡蓮に希少なお客として招かれたんです」
東雲が僅かに表情を動かしたのが見えた。八十彦の方は見れない。
「その時の店主の名前は?」
天愛の言葉に驚くでもなく、八十彦が尋ねる。その声に釣られて横を見れば、八十彦は天愛に目を向けることもなく慣れた仕草で湯呑みにお茶を淹れていた。
「四壱さん、でした」
はい、と湯呑みを渡され、それを両手で受け取りながら天愛は答える。
綾織、四壱。たしかあの時の狐の店主はそう名乗っていた。まだいない先の店主である八十彦の名前を訊き、彼が何代目か分かった様な口ぶりでいた。名前にある数字は、夜渡蓮の店主の代数を表すのだろうか。まるで囚人のようだ。
「なるほど。四代目だね」
今度は東雲がいつもと変わらぬ調子で言った。
「で、君は一体何を売り買いしたんだい」
「……情報を」
八十彦の目が細くなる。自分の膝を見つめだした天愛は、それに気付かない。
「この時代の夜渡蓮のことを私が話して、店主は私に狐のことを教えてくれました」
不意に、赤い着物の裾と白い足袋が自分のすぐ前にあるのが見えた。少女がじっと天愛の方を向いて立っている。その正体が分かっても、不気味さは消えない。むしろその執念や執着心を理解できない天愛はますます彼女を怖ろしく感じた。けれどその願いを叶えてあげたいと思う気持ちが少しはあるのも事実だ。天愛の想像もできない時間を彼女はただ只管に狐を想い、この薄暗い骨董店の中で過ごしてきた。それはまだこれからも続く。狐が見つかるまでは。
「そう。それで、君はこれからどうする?」
「ちょっと、八十彦さん、どうするってなんだよ」
「別に変わりません。ここでアルバイトを続けます。それだけです」
思っていたよりも落ち着いた声が出た。顔を上げると、もう着物の少女の姿はなかった。東雲が少し驚いた様な顔をして自分を見ていることに気付いたが、何も言わなかった。隣りを見ると、八十彦が面の下で目を細めているのが見えた。やはり四壱に似ていると思う。
今になって最初八十彦が言っていた言葉の意味を知る。「この面の下を見れば君は驚くだろう」それは、きっと祭りの日にあったあの狐面の少年に似ているからだ。けれど天愛は驚くことはないだろうと思った。妙に細かなところを覚えているかと思えば、凄く曖昧なところもある。天愛は千尋の顔をはっきりとは思い出せない。細められた優しげな目を思い出すことはできても、その顔の全貌を思い出すことはできないのだ。思い出すのはいつもあの不気味に笑う狐面。血を吸ったように赤い紅。
「そうか。ありがとう」
それはいつもと変わらない柔らかな落ち着いた声だった。
黙っていたことを謝るでもなく、何かを天愛に訊くでもない。彼には訊きたいことがたくさんあった。夜渡蓮のこと、その店主たちのこと、そして千尋のこと。
きっと千尋は綾織の家の者だ。女主人のために狐面を被り、狐を捜していた。見つけてもらおうとしていた。そしてその想いを幼かった天愛は踏みにじってしまった。その罪滅ぼしの意もある。自分のせいで彼ができなかったことを代わりにしよう。それで全てがなかったことにはならないけれど、ほんの少しの慰めにはなる。
「天愛ちゃんってさあ」
八十彦が奥へ行った後のことだった。小さな声で東雲が言った。
「最初もっと弱い子だと思ってたよ」
「強いとは思わないですけど……」
「うん、でも女主人に利用されていることを知ったら逃げ出すと思ってた」
それは弱いとは少し違うだろう。逃げ出さなかった方が弱い場合もある。
東雲は言ったあとで八十彦の淹れたお茶を飲み、舌を出した。出涸らしの様な薄めのものが好きな東雲には、八十彦の淹れた濃いお茶は苦かったのだろう。
気付けば外はもう夕日が沈み、暗くなったアスファルトの道路の上では街灯が点いていた。あと一時間ほどで閉店だ。
「八十彦さんは最初、夜渡蓮を継ぐはずじゃなかったんだ。先代がいた頃は、普通の学生だったらしいよ」
意外な言葉に天愛は目を円くした。八十彦も人の子だ。学生だった時期があっても可笑しくはないが、想像もできない。
「お面もつけてなかったってことですか?」
「うん、そう。むしろそれを嫌がってたらしい。馬鹿馬鹿しいって。それが、俺がアルバイトに来る様になった頃には狐の店主は八十彦さんになってたんだ」
「……どうしてですか」
嫌な予感がしたが、訊かずにはいられなかった。湯のみを持つ手のひらに汗が滲む。
「もともと、八十彦さん以外に継ぐはずだった子がいたんだけど」
それ以上は聞かない方がいいのかもしれない。けれど天愛は口を挟むことができなかった。憶測ではなく、本当のことを知りたいという気持ちが言葉を遮ることを阻んだ。どの道、自分がしてしまった罪は消えないのだから知っておいた方がいい。起こってしまった出来事は、魔法の様に言葉一つで変わることはないのだ。
「亡くなってしまったんだ。まだ小さい子供だったんだけど、ジャングルジムの上から落ちて」
驚くことはなかった。ああやっぱり、という気持ちと再び強い後悔の念に襲われる。
夜渡蓮の住人だからといって、狐面を被り現実離れした人だとはいえ、人の子だ。何かがあれば簡単に死んでしまう。
幼い天愛はそんなことも解らなかった。彼は、千尋はどこか人と違う、特別な子だと思っていたのだ。それが間違いだったと知った時にはもう遅かった。
「……天愛ちゃん? 大丈夫? 顔色が悪いけど」
「大丈夫、です」
その声は少し震え、弱弱しかった。
やはり夜渡蓮とは昔から繋がっていた。あの夏祭りの日、狐面の少年と出会った時から。ならば今、天愛が此処にいることは何も不自然なことではないのだ。
ジャングルジムの下から見上げた少年はいつもの様に優しげに目を細め、狐面の下で微笑んでいた。
彼を「きつねさん」と呼び、地へ落としたのは天愛だ。
それは変わりようのない事実だった。