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夏祭りの時期、祖母の家に預けられるのは天愛にとって毎年の恒例だった。
祖母の家の、近所の神社で行われる夏祭りはそれなりに有名で、天愛とその弟は祭りに行く為に毎年前日二日前から祖母の家に滞在するのだ。そして同じ頃に泊まりにやってくる従兄弟たちや祖母と共に祭りを満喫する。
今では遠い、毎年の当たり前だった風景。それは、天愛が小学低学年から高学年に上がる頃になくなってしまった。他の従兄弟たちは今でも集まっているのかもしれないが、天愛の耳にはそんなことは入らない。天愛だけがある年から夏の集まりには参加しなくなったのだ。
夏祭りの日。まさかこの時は次の年以降夏祭りに出向かなくなることになる等、想像もしていなかった。
人ごみのなか他の従兄弟達と逸れてしまうのは、その中でもまだ幼い子供だった天愛にとって恐ろしいことだった。逸れない為には人ごみをすいすいと進んで行く少年達に必死で付いて行かないといけない。年長の少年がいつも気にはかけてくれていたが、自分以外の四人の従兄弟達皆の状況を把握しきることはできない。
ふいに天愛は前を歩く少年たちから目を逸らした。いつもなら気になることもないお面の屋台に、どうしてかその時強く興味を惹かれたのだ。
赤い屋台の垂れ幕を背景にずらりと掛けられた面は、その時流行の船隊ものや愛らしいキャラクター、ひょっとこ等だった。そしてその中に、一つだけぽつんと他の面よりも少し小さめの狐の面が吊るされていた。天愛が興味を惹かれたのはその狐の面だった。なんてことはないただの面。他の面と違うところも特にはないが、天愛には何故かその面が際立って見えたのだ。
祭り囃子に混ざり、微かな鈴音が聞こえた。魅了されたかの様に狐面に釘付けになっていた天愛は、どんっと肩を押されて尻餅をついた。
「ごめん! 大丈夫?」
肩にぶつかられたことよりも急に現実に引き戻された様な感覚に陥った天愛は、目を数度瞬かせてから声の主を見上げてぎょっとした。
天愛に謝罪の言葉を述べたのは、彼女と同じ年頃の少年だった。その顔には、天愛が先ほどまで見つめていたものとそっくりな狐面を被っていた。それだけではない。親が染めたのか、髪は黄金色をしている。藍染の浴衣に木の下駄は別に可笑しなところなどないが、同じ年頃の少年にしてはなんとも奇抜な姿だった。それでも、祭りの中ではそれほど目立たないのか少年に目を留める者は少ない。
「怪我してない?」
そう訊いて少年は手を差し伸べる。天愛は無意識にその手に自分の手のひらを重ねていた。
ぐいと手を引かれて立ち上がると、少年は狐面の下で目を細めた。
「……きつねさんの、お面」
「ああ、お祭りだから。怪我は?」
「ない」
天愛は少年の狐面を見上げたあと、首を振った。話しながらも少年が狐面をとる気配はない。
よかった、と少年は面の下でほっと息を吐いた。そうしたあとで、何かに気づいたように左右を見渡した。
「一人? もしかして迷子?」
「うん。迷子」
「うわあ……。ここら辺の子? 家族と来てるの?」
「いとこのお兄ちゃんたちと来てるの。おばあちゃん家から来た。お祭りの最後はいっつも近くの公園で花火をするから、そこで会えると思う」
狐面の少年は黄金色の頭をがしがしと掻き、うーんと唸った。表情は見えなくとも、少年が悩んだ表情でいることが天愛には分かった。迷子の少女を放っておくことができない、人の好い子なのだろう。
いつも逸れてしまうと泣きそうになるほど不安になるのに、この時はそんな暇もなかった。少年は面の下で小さく何かを呟くと、天愛の手をとって歩き出した。それには天愛も少し驚いたが、少年が狐面をしていたせいか同じ年頃の少年と手を繋ぐ時の気恥ずかしさは湧いてこなかった。それどころかほっとした気分になり、その手を強く握り返す。
「逸れた時に待ち合わせる場所とかないの? おばあちゃんの家の場所は覚えてる?」
「ない。おばあちゃんの家には多分今誰もいないよ」
「そっか。じゃあ、さっき言ってた公園に行こう」
「きつねさんは誰かと一緒じゃないの?」
天愛が訊くと、少年は無言で振り返り天愛の方をじっと天愛を見た後またゆっくりと歩き出した。
「きつねさんじゃないよ。……まあ、それでもいいけど。僕の名前は千尋。お前は?」
「あまな。椿天愛」
「変わった名前だなあ」
そう言っている間にも景色は少しずつ変わっていく。通り過ぎていく屋台からは甘いにおいや塩っぽいにおいがしてきた。下駄の上に飛んだ砂が指の間に入り込んで少し気持ち悪い。手のひらに触れる熱は熱い。
不思議な感覚だった。出会ったばかりの少年に手を引かれて、熱に浮かされた景色の中を進んでいく。少年の顔は見えないけれど、天愛は彼のことを信用しきっていた。
「待って、のど渇いた。ジュース買って行っていい?」
「いいけど。呑気な迷子だなあ」
二人は近くの屋台で氷水に浸かったラムネを買い、また歩き出した。
広い境内の終わりを告げる社をくぐっても、屋台は道路にまで続いていた。連なる提灯の灯りはアスファルトを橙色に染めている。
千尋は天愛の言っていた公園に見当がついていたのか、天愛に何を訊くこともなく進んでいく。片手で抱きかかえたラムネの瓶から腕に水が滴り、天愛は目線を落とした。
腕に下げた巾着袋からはおばあちゃんに買ってもらった林檎飴の竹串が飛び出している。赤い浴衣の裾は転んだ時に付いたものが払いきれていなかったのか、少し白く汚れていた。繋いだ手は少し汗ばんでいる。夜は涼しいが、それでも歩き続けていると身体は少し火照ってくる。千尋は狐面をつけたままで暑くないのだろうか。
「きつねさんのお面、外さないの?」
「外しちゃ駄目なんだ」
天愛は目を円くさせた。千尋は好き好んで狐面をつけていると思っていたのだが、違うのだろうか。彼の口ぶりからしてみると、それは誰かに強制されているようだった。
「どうして?」
「うちの決まりだから。目印なんだ。これがないと見つけてもらえないかもしれない」
「誰かを待ってるの?」
「うん」
そこで会話は途切れた。
橙の灯りは遠いものとなり、いつの間にか蛍光灯で照らされた公園が目の前にあった。
「まだ誰もきてないみたいだな。もしかしたらお前のこと探してるのかも……どうする? ここで待ってる?」
「一緒に待っててくれる?」
蛍光灯で白く浮かび上がる公園は少し不気味だった。いつもは四人の従兄弟たちと祖母と来るから気にはならなかったが、もし一人でこんなところに残されたら堪らないだろう。千尋が頷いてくれたので、天愛はほっとした。
ベンチに二人並んで座り、天愛はラムネを開けてもらって飲んだ。瓶を傾けるとカラコロと硝子球が瓶にぶつかる音がして、口の中で炭酸が弾けた。
その時、リンッと鈴の音が近くで聞こえた。もしかすると猫がいるのかもしれない。
「ちひろくん、飲まないの?」
「飲むよ」
けれど彼は瓶を開けたっきり口をつけてはいない。天愛が飲み終わっても、瓶を満たす透明な液体は一向に減らなかった。
天愛は飲み終わった瓶を逆さまに動かし、中を覗いたりした。中に入ったビー玉をとりたいのだが、どうすればいいのか分からない。いつもは祖母にとってもらっていたのだが、どう見たってその小さな口からビー玉は出てきそうになかった。
「かして、とってあげる」
「とれるの?」
「うん。向こう向いてて」
その言葉に従って天愛は顔を背けた。少しの間のあと肩を叩かれて振り向くと、千尋の手の上には薄く青みがかった硝子球が載っていた。
「すごい! ありがとう。どうやったの?」
「内緒」
穴から覗く目が細くなる。きっと狐面の下で微笑んでいるのだろう。
天愛はその仮面の下にある表情を見てみたくて、顔を近づけた。細まっていた目が驚いたように円くなる。
「ずうっとお面つけてるの? 暑くない?」
「……別に暑くないよ」
見開かれた目は一瞬あとにまた細められた。優しそうな目をしている、と天愛は思う。その目を見れば好意的な感情を抱かれているのが分かった。
内気で毎年会う従兄弟達とも最初は上手く喋ることができないのに、この少年が相手だと違った。それも、彼が狐面をしているせいなのかもしれない。狐面や髪色を覗くと、千尋は従兄弟たちとなんら変わらない普通の少年だ。けれど、目の前に実際にいるのに狐面が現実感を少し遠ざける。物語の中の登場人物と話しているような気分だった。
「ほんとに似てるな……」
ぽつりと言われた言葉を天愛は聞き取ることができなかった。天愛が小首を傾げると、千尋はふと面の下で笑った。
「お前、毎年この祭りには来てるの?」
「うん」
「そっか」
その時だった。遠くから天愛を呼ぶ声が聞こえてきたのは。公園の入り口から走り寄って来る少年達の姿が見える。聞きなれたその声は年長の従兄弟のものだった。
「あ、お兄ちゃんたちだ。ちひろくん、お兄ちゃんたち来たよ」
大きく手を振ってから振り返ると、千尋は立ち上がり天愛を見下ろしていた。
「うん、じゃあ行くね」
そうあっさりと言い残して、狐面の少年は天愛が止める間もなく走り去ってしまった。
それからほんの一時共に過ごしただけの少年は、天愛の心の中に居座り続けた。後から思えばあれが初恋だったのかもしれない。殆ど何も知らない、顔も見たことのない少年相手に可笑しいかもしれないが、面から覗く、優しく細められた目に強く惹かれたのだ。けれどそれも時間が経つほどに薄まっていき、春になれば思い出すこともなくなっていた。
そして次の夏、祭りで天愛と千尋は再会した。人ごみの中で彼の姿を見かけた天愛は考えるよりも前に走り出していた。従兄弟達と逸れてしまう恐怖よりも、その時に千尋を見失ってしまうかもしれないという焦りの方が大きかった。
一年前よりも随分と背が伸びた少年は、けれど変わりない優しげな目で天愛に笑いかけた。
狐の店主が静かな口調で語ったのは、随分と昔の話しの様だった。昔、と言っても今いる夜渡蓮も恐らく、天愛からしてみれば昔になるのだろう。
遠い昔の話しは天愛には想像もつかない、夢物語の様な内容で、その様なことが本当にあったとは信じがたいことだった。
彼らは、夜渡蓮ができる前から狐を探し続けてきたらしい。そしてその鍵となるのが狐面だ。狐は、狐面を目印に彼らを見つける。その時こそ長く続いた女主人の悲願が叶う時だ。死しても狐を求め続ける女主人の執念によってこの不思議な店は続けられている。かつて幼い村娘と狐の話しは東雲にも聞いたことがあったが、あれは夜渡蓮に伝わる話しのほんの一部分だったのだろう。狐と呼ばれた少年は死後、本物の狐に姿を変え少女の前から消え去ってしまったのだという。
女主人と狐の少年の話しのなか、天愛は遠い夏祭りの日のことを思い出した。それと同時に強い罪悪感が沸いてくるが、それは口に出さなければ零れない。
夜渡蓮からあの夏祭りが行われる神社は近い。千尋は、見つけてもらう為に狐面をつけているのだと言わなかっただろうか? だとしたら、彼は夜渡蓮、綾織の家の者だったということになるのかもしれない。子供の頃の曖昧な記憶は頼りにならない。今思い出してもあれは夢だったのではないだろうかと思う程なのだ。けれど、何か記憶違いをしていたとしても、こんなにも奇妙な一致はありえるのだろうか。
「あなたが夜渡蓮に呼ばれたことには意味がある」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、四壱が面の下で目を細めていた。優しげなそれは、千尋のものとよく似ている気がした。
「女主人にあなたはよく似ているのです。だから女主人はあなたのことを欲しがった」
天愛は呆然と四壱の面を眺めた。
その話しは以前聞いたことがある。あれはかつてこの場所にあった、村に住んでいた少女のことだった。
ようやくここで話しが繋がり、天愛は総毛立った。とても嫌な感じだ。思いもよらない自分の過去との繋がりや、あの日、夜渡蓮を訪れた時から女主人と呼ばれるあの小さな娘に利用されていたのだと思うと気持ちが悪い。
「……どうしてですか? 似てたからって」
「狐が見つけてくれる可能性が増えるからです」
「それだけですか?」
「ええ、おそらくそうでしょう」
あまりにも単純な理由に言葉も出せなくなる。
ただ狐と再び会いたいが為に、子孫まで巻き込んだ女主人の執念は凄まじいものだろう。ただ話しを聞いただけでは、女主人が狐にそこまで執着する理由が分からない。
「巻き込まれたあなたからすれば迷惑な話しかもしれませんが……どうか彼女に付き合ってやって下さい。あなたが狐を見つけたのなら、彼女と狐がまた出会う時は近いのかもしれない。私もその瞬間に立ち会いたかったのですが、叶いそうにはない」
その声には寂しげな響きが混ざっていた。彼は本当に女主人と狐が再会することを強く望んでいるのだろう。彼女の為に狐面を被り続ける夜渡蓮の仮の店主たちは皆そうなのかもしれない。恐らく、あの八十彦でさえもそうなのだろう。
そんな風に言われて断れるはずもない。可笑しなことに巻き込まれるのは確かだが、それは夜渡蓮の特殊さを知ってからは諦めがついている。それによって何か害を被ることもないだろう。ただアルバイトを続ければいいだけなのだから。
天愛が小さく頷くと、狐の店主は微笑むように目を細めた。